横浜事件三たび再審を求めて 田中伸尚1997.9.26週刊金曜日


戦争末期の「権力犯罪」の責任を問う
治安維持法下、凄惨な拷問で言論や思想を弾圧し、「横浜事件」を捏造した特高警察、
そして無実の人びとを有罪にしたうえで、敗戦時に訴訟記録の大半を焼却した司法。
事件から半世紀以上を経て、関係者が次々と鬼籍にに入るなか、新事実をもとに三度目の再審請求が起こされる。
神奈川県特高警察がジャーナリスト・研究者ら六三人(注1)を治安雑持法違反で検挙し、凄惨な拷問によって虚構の自白を強い、このため五人が獄死(釈放後の死者1人を含む)し、起訴された30数人のほぼ全員が有罪判決を受けた。しかも多くは、敗戦直前の1945年8月から敗戦後の9月にかけての判決であった。
戦時下最大の人権弾圧
中央公論社・改造社などの言論出版界、満鉄調査部、昭和塾(近衛文麿元首相のプレーン集団の一つ)などに関わっていた人びとが、神奈川県特高警察によって四五年四月ごろまで次々と検挙されていった。この間に中央公論・改造の両社は解散に追いこまれ、検挙された人たちは、ほぼ全員が特高警察官から残酷きわまる拷問を繰り返し受け、共産主義者にされ、ありもしない党再建の工作をしたという虚構の事件が作りあげられた。この事件で証人や参考人などとして特高から追及された人びとは数百人に上るだろう。戦時下最大の人権弾圧事件といわれるわけである。(略)
中央公論社の書籍編集者だった木村さんが検挙されたのは、一九四三年五月二六日水曜日の午前六時前だった。埼玉県・与野町下落合(現与野市)の自宅で就寝中の木村さんを五人の特高刑事が襲った。何の容疑かも言わなかった。その日のうちに木村さんは、横浜の山手警察署へ連れて行かれ、夕方には二階の取調室に引き出された。「板張りのその部屋には、五人いや、六人の刑事がいたかな。木刀や竹刀を手にしていた……」。木村さんは、半世紀以上前の身体に焼きつ
いた記億をかっと目を開いて語る。
男たちが飛びかかって衣服をはぎ取った。パンツ一枚にして、両腕を後手に縛り上げて手錠をかけ、土下座させられた。ひとりの刑事が目くばせした途端、男たちが木刀やバラけだ竹刀で殴りかかった。「貴様のような共産主義者は生かしちゃおかない!」全身を滅多打ちした。柔道で鍛えた頑健な身体ではあったか、抵抗する術はなかった。治安縫持法違反でやられたのがやっとわかった。「僕は共産主義者ではありません!」呻きながら叫ぶだけだった。(略)
訴訟記録焼却と拷問の事実
焼却を指示した者たち
たとえば、奥野誠亮自治省財政局長(当時。現自民党国会議員。敗戦時、内務省財政課事務官)が一九四五年八月一五〜一六日の思い出を語った部分である。
「……公文書は焼却するとかいった事柄が決定になり、これらの趣旨を陸軍は陸軍の系統を通じて下部に通知する。内政関係は地方総監、府県知事、市村長の系統で通知する……一五日以後はいつ米軍が上陸してくるかもしれないので、その際にそういう文書を見られてもまづいから…‥小林(輿三次)さんと原文兵衛さん、三輪良雄さん、それに私の四人が地域を分担して出かけたのです。それが何日に出発したかは覚えがない……」「一六日だと思います」(カツコ内筆者)
奥野氏の発言を確認したのは、敗戦当時内務省地方局長だった入江誠一郎氏である。
「検挙後二カ月間は係長松下警部が専任、私の取調べに当り、夜間、長時間に亘って腰部を裸にして床に座らせ、両手をツナで後手に縛り上げ、私の声が戸外にもれぬように、窓と入口を鍵をかって閉め切って、口にサルグツワをはめた上で靴のかかとでモモとビザ、頭を蹴り散らし、そのため内出血ひどく、むらさき色にはれ上がり、ムチのミミズ腫れの跡は全身を傷つけました。そのあげく、火箸とコウモリ傘の尖端(で) チクチクと突きさし、……又、陰部を露出せしめ、コン棒で突くなどの陵辱の限りを尽くしました」
(引用終わり、著作権は週刊金曜日にあります。)
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