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 「慰安婦」を強制された女性たち 週刊金曜日1994.8.5 第37号

週刊金曜日1994.8.5 第37号 P7 本多勝一編集のページ 
8.15特集 日本の「加害責任」の光景
考えてみれば単純な話です。ぶんなぐった相手になぐり返されたとき、「なぐられた」と第三者にいくら訴えても、
先にぶんなぐったことを黙っていて何も反省しなかったら、だれが同情してくれましょうか。
敗戦後何十年間というもの、日本はヒロシマ・ナガサキをはじめとする
「戦争の悲劇」を国の内外に訴えてきましたが、
そのほとんどは被害の側面に焦点があてられていました。
原爆を「天罰」とみるアジア諸国の視点、
すなわち「侵略による加害」 への反省が欠落していたのです。
同じ敗戦国ながらドイツとの決定的落差がありました。
近年になってようやく、加害への反省がマスコミでもとりあげられるようになったものの、
その主流や体制側はいぜんとして「戦争の悲惨(「侵略の悲惨ではない)たる被害観を貫いており、
だからこそ閣僚の中からさえ「南京大虐殺全否定」といった世界の恥さらし発言が絶えないのでしょう。
こうした日本の現状は、最近の合言葉のような「国際化とは裏腹に、
いかに日本が反国際的であるかを示しています。
外国語などをいくらペラペラ話したところで、こういう本質的な反国際人は軽蔑されるだけでしょう。
したがって同時にそれは恥さらしであり、
したがって”売国奴”的行為でもありますから、真に「愛国心」があるなら、
まずは「加害」問題に正面からとりくまざるをえないはずです。しかもそれは急を要します。
本誌にも寄稿されている家永三郎氏の言葉を引用しましょう。
「……さらにすべての日本人が自己の責任を自覚するならば、
自己の秘蔵している戦争中の日記その他の記録を、
純然たる私事に関する部分を除いて公開するなり、自己の体験した事実を、
自己の実践した行為と見聞した事項との両面をふくめて、
口頭または文章化して公表するなりして、
正確な戦争の実態の復原に協力すべきではなかろうか。
ことに戦争体験者の高齢化が進み、
近い将来、戦争世代がすべて姿を消して戦後世代のみの時代が到来することの
予想される今日、戦争世代と戦後世代とが同じ社会で共存している今日と
今後に残された僅少の年月は、
戦争体験を非体験世代に伝達できる最後の時期なのであるから、
ぜひその間に右の要請をみたす努力がなされなければなるまい」
(家永三郎著『戦争責任』第七章「戦争責任の追及は、何のために今後どのようにして続けられるべきであるか」=岩波書店・一九八五年)
WS000017.jpgP8 「慰安婦」を強制された女性たち 長沼節夫
旧日本軍の強制連行慰安婦の総数は、10万人とも20万人ともいわれる。
被害女性は日本・朝鮮・中国・台湾・フィリピン・インドネシア・ベトナム・オランダ各国、
さらには数々の「陣中日記」によると、マレーシア・タイ・ビルマ・インドにまで及んでいたことが分かる。
「天皇の軍隊」に蹂躙された人々の恨みは深い。しかし日本は果たして彼女らの声にじっくり耳を傾けたことがかってあっただろうか。
第二次大戦下、日本軍が強要した従軍慰安婦制度は、人類史上最も大規模でおぞましいレイプ制度だったのではないか。
ことの性格上、彼女らの多くは自らの恨みを半世紀にわたって公にすることを我慢してきた。
「死んでいった人が何も語れない以上、戦後50年の今、あえて言い残したい」。韓国を訪ねて、このような恨(ハン)を聞いた。彼女らの声に、日本はどう答えるだろうか。

 死にたいです、痛くて・・・
 盧清子(ノ・チョンジャ)さんは忠清南道大川市に住んでいる。ソウルの南約150キロ(後略)
P9 嫁に行く前に捕まって
 一九二二年忠清南道儒城の貧しい農家に生まれた。家族は両親、兄、姉、妹がいた。
 三月のある日、畑で母と妹と自分の三人で除草作業をしていると、昼の弁当を運びに家へ帰っていた母が、息をはあはあいわせて慌てて戻ってきて、「早く逃げなさい。日本軍が女狩りをしている。この前掛けを頭から被って、伯母さんの所へ行って隠れていなさい。広い道を行っては駄目。山道を行くんだよ」と言った。
 その時ノさんは一七歳。五日あとには嫁にゆくという日取りも決まっていた時だった。畑に鍬を投げ出して、隣村の伯母の家に向かって駆け足で逃げた。しかし運の悪いことに、峠に出て畑の上の道を横切ろうとして土手を駆け上がった丁度その時、向こうから軍の一団がやってきた。憲兵らしい男たち一〇人程に囲まれて捕まってしまった。行くまいとして抵抗したが、反対に殴り倒された。
 軍人に腕を捕まえられて村の道を二キロ程行くと、トラックが三台停まっていた。その幌のついたトラックの荷台に投げ込まれてしまった。そこには若い女がいっぱい入れられて、泣き叫んでいた。どのくらい走ったか分からないが暗くなってから、今度は覆いのない列車に乗せられて出発した。どちらの方向に走ったのか見当もつかない。何もすることもないので一緒に乗せられた女の数を数えると、自分を入れて三八人いた。(略)
 「助けて」と逃げ回ったが
 四日目に列車の着いた所は中国・天津だったと思う。トラックで四、五時間行き「オーテサン」という所に連れられていった。(朝鮮語なら韓国・江原通に五台山=オーテサンがある。中国・天津奥地では山西省に五台山=ウータイシャンがあるので、ここと推定される-筆者)
(略)その夜、将校がやってきてノさんに「裸になれ」と命令して襲いかかった。三〇歳を少し過ぎた若い男で、ヤマモト少尉といった。ノさんは「助けて」と叫びながら部屋の中を逃げ回った。将校は怒り狂ってノさんの顔をめちゃくちゃに殴りつけ、石臼のような軍靴でノさんの腰を何度も蹴りつけた。頭からも股からも大量の血が流れた。それで第一日日、将校はノさんを犯すことは諦めて去った。将校から聞いたらしく、医務官の若い兵隊がやってきて注射をしたり、傷の手当てをしていった。
 その時蹴飛ばされた骨は戦後五〇年間、一日も休むことなく痛み続けている。
 二日目、トラックに分乗した兵隊が約一〇〇人、小屋の前へ整列した。前夜殴る蹴るされたばかりで身動きもできないほど身体が痛んで、何の抵抗も出来ないうちに、なん十人という男に犯されてしまった。昼前から夜中の三時ごろまで続いた蛮行だった。それから一年間、塀の外を一度も見ることなく、セックス奉仕が続いた。中国人の日本に対する抵抗は周辺で活発らしく、男たちは軍装のままやってきて、ゲートルを巻いたままの荒々しい姿で、ノさんらに襲いかかった。(略)
P10 凄惨な処刑風景を見せられ
今度もまた幾日も貨物列車に乗せられていった。段々寒さが募ってくるので、列車が北へ向かっていることが分かった。貨車から降ろされたところは、満州(当時)の吉林だった。ここの慰安所も基地の中のバラックで、約五〇人の慰安婦が捕まっていた。ここでも毎日三〇人程の日本兵のセックスの相手をさせられた。(略)
 間もなく上半身を裸にされた中国人青年一〇人程が、後ろ手に縛られた格好で連れられてきた。次に彼らを膝立ての姿勢にさせると、あらかじめ決められていたらしい兵士が、日本刀で中国人の首を刎ねていった。血しぶきが噴水のよ
うに上がった瞬間、ノさんは思わず手で顔を覆った。すると兵士が走ってきて、「ばかもん。きちっと日を開いて見ておれ」と怒鳴ってノさんを殴りつけた。凄惨な処刑風景だった。首が胴体から離れなくてうごめいている中国人に対し
ては、何人もで押さえ込んで、とどめを刺すのだった。中国人たちは前以て掘ってあった目の前の穴に落ちていった。その穴は中国人自身によって掘らされたものかどうか、ノさんは見ていないので分からない。(略)
 結婚、そして離婚
 何年問も続いた慰安婦生活のうち約八カ月間だけ、ノさんは輪姦される日々から「解放」されたことがある。性病にかかっていない一時期、ナカムラという中年の大尉がノさんを独占して、セックスの相手兼小間使いとして使っていたからだ。残りの期間の多くは性病をうつされては、六〇六号という注射を打たれ、ロクに治らないうちにまた、日本兵の性処理に戻らなければならなかった。(略)
 韓国独立後、ノさんは一度結婚生活を送ったことがある。もちろん慰安婦体験など過去の傷跡は隠して。しかし数年で離婚した。日本人に蹂躙され続けた肉体はも早、出産不可能になっていたうえ、オーテサンでの暴行のために腰の苦
痛が続いて力仕事が全くできないため、夫に済まないと、ノさんが自分から身を引いた形だった。(後略)

P11 私が連れて来られた松代
 姜徳景(カン・ドッキョン)さんは一九二九年慶尚南道晋州生まれ。(略)高等科一年に進学した四三年、家庭訪問にきた担任教師が「女子勤労挺身隊に出ないか」と言った。勉強ができて給料も貰えるという。私はとてもいい話だと思い、反対する祖母を振り切って参加した。
 富山県の不二越飛行機工場へ
(略)全員船に乗せられて日本の下関に上陸、列車で連れていかれた先は富山県の不二越飛行機工場だった。全員寄宿舎生活で、仕事は旋盤作業などだった。朝出の二一時間勤務と、夜出の一二時間勤務とを一週間ずつ繰り返した。食事がほんの僅かしか出ないのでつらかった。(略)
 テント小屋で
 その後もつらいことがあまりに多いのである晩、友達と一緒にまた脱走した。しかしそう遠くまで行かないうちに、今度は軍人に捕まってしまった。トラックに乗せられて行く途中、車から引き降ろされ、真っ暗な山道で襲いかかってきた男に処女を奪われた。自分はまだ生理も見ない一六歳で、何をされるのか、どう抵抗するのかも分からなかった。その男は憲兵で「コバヤシ・タテオ」といい、その後もしばしばカンさんを襲った。
 犯された後、またトラックに乗せられて、陸軍の部隊に連れていかれ、兵舎の後ろ側にあるテント張りの家に入れられた。そこには自分より年上の女性ばかりが五人いたが、その日はだれも口をきいてもらえなかった。テント小屋の中は、カーテンで幾つもの小部屋に分かれていた。三日日にあのコバヤシが来て、また自分とセックスしていった。翌日から慰安婦としての生活が始まった。テントには平日には毎日一〇人程度の兵隊がやってきて、つぎつぎとセックス処理をさせられた。それが土曜日には三〇人以上になることが普通で、性器がはれ上がって熱くて蒲く、塗炭の苦しみだった。土曜日の来るのが恐ろしくて仕方なかった。
 そのうちいろんな部隊へ出張しなければならないことも分かった。トラックで山の麓まで運ばれ、それからは軍隊用毛布を固く丸めたのを抱えて山道を登らされた。出張先では、その毛布を地面に広げて日本軍人に犯されるのだ。山間の部隊でも一〇人以上の兵隊の相手をさせられた。帰り道は身体中、とりあけ性器が痛くて痛くて歩けなくなることもしばしばだった。大きな部隊では部屋を仕切ってあったが、小さな部隊ではそんなこともなく、右でも左でも日本兵からセックスさせられる光景が続いていた。 
産んだ子供は病死(略)
 そこでも数カ月慰安婦生活を送ったある日突然、日本兵が姿を消した。韓国の旗を振って「マンセー!」と叫んでいる人がいたのでその人に聞いて、日本が戦争に負けたと知った。コバヤシも誰もかもひと晩のうちに消えてしまった。お金は一銭も貰っていなかった(略)
分かち合いの家」で暮らすカンさんは今
カンさんからこれだけの話を聞くだけでも、二時間程かかった。
どの人たちの場合もそうだが、生まれ故郷から部隊へ連行された時点までは色々話してくれる。だが、それからが難渋する。これまで五〇年近くも誰にも言えずに胸に秘めてきた屈辱の体験を記者に語るのは、とてもつらいことに違いな
い。インタビューに、カンさんはしばしば口ごもった。(略)
 「実はあの朝、私が昔、慰安婦にされていたのが松代だったと、はっきり分かったんです。そのショックで……」とカンさん。
 松代であの朝早くにまだ皆が眠っているころ目が覚めたので、散歩に出た。松代の慰安所にいた記憶はないかと聞かれていたので、それとなく様子を見ておこうという気になったからだ。それで一緒に来日した李容沫(イー・ヨンス)姉さん(大邱出身)と二人で散歩した。昔ここに慰安所があったと聞いたけど、風景に見覚えがないので、自分がいたのはここではないと思った。カンさんの記憶の中にある慰安所は、玄関前に大きな石が二つあり、松の木が二本立って、小さな池があったはずだった。だが、それがないので違うと思った。その後朝六時ごろになって、カンさんが部屋にいないのに気付いた人が二人を捜し出して、今度は車で案内してくれた。その人が「昔慰安所だった建物は撤去されたけど、保存運動もあるので一部は壊さずに残してあるそうです」と言って、そこへ連れていった。芝居にあるような、実際の建物ではないけれど正面だけ本物みたいに作った書き割りと同じように、昔の慰安所の正面だけが立て掛けてあった。それを見てカンさんは心臓が止まりそうになった、という。
 階段を昇った所にある玄関、その上に載った三角屋根、左右に看板が掛かっていた柱、入って左側に一つある事務所みたいな大部屋、右側に幾つも続く小部屋。自分がここへ連れて来られていたことが今、はっきり分かったので、とてもショックだった。
 その時、元々弱っている心臓がドキドキしてきて、もう立っていられないくらいになった。それで病院に運ばれて、記者会見どころじゃなかったという。慰安所の建物については誰にも話さずに帰国した。
「その時のことを話すのは今、初めて」とカンさんは言った。
 さてカンさんの近況だが、彼女はその後、ソウル市内に「分かち合いの家」がオープンすると直ぐに、農村を引き払って入居した。以前お金持ちが住んでいただろう豪邸で部屋数が多いため、ハルモニ(おばさん)たち一人ひとりが、ほぼ個室に住まうことができた。交替で食事を作るのも楽しい時間である。しかし仕事のできないのかつらい。
 そこで始めたのが「靴下売り」だった。一般メーカーに自分たちのブランドで白い木綿靴下を製造してもらい、挺対協のシールを貼って、九二年二月から売り始めた。小さなシールはハングルで次のように読める。
「この靴下の販売収益金は挺身隊問題の真相究明と賠償促進運動のために使われます
韓国挺身隊問題対策協議会 電話263・2802」「日本でも売ってほしい」とも言った。

P13 私の青春を取り戻してくれ
 黄錦周(ファン・クムジユ)さんはソウル北部・新林洞という新興住宅街で「ハルモニ(おばさん)食堂」という名の質素なレストランを一人で切り盛りしていた。
 家族の身代わりとして
 フアンさんは一九二二年八月忠清南道扶餘の学者の家系に生まれた。(略)一七歳の時、役場から「一家に一人、娘を挺身隊として日本の軍需工場に出さなければならない」という話を聞いた。(略)よくしてくれた家族の身代わりになろうという気詩ちと、三年働けば相当な給料をくれるというので、それで借金を返せるという期待が半々だった。
(略)列車に乗ると北に向かって走りだした。当初、南のソウルか日本で、紡績工か軍需工場の女工かと予想していたので、不吉を予感がした。列車には外が見えないよう黒い油紙を張って目張りをしてあるので余計不安だった。二日走ってようやく列車から降ろされた。「吉林、吉林」という呼び声が聞こえた。
 駅からトラックで荷物のように乱暴に扱われながら運ばれた先は、部隊の中のようで、鉄条網の塀を三回も通過した奥にあって、警戒が厳重だった。ブリキで作った小屋に入れられ、毛布と薄っぺらな布団を一枚ずつくれただけで、寒くてたまらず、娘たちで抱き合って夜を過ごした。
 翌日、軍人が娘たちを一人ずつ呼び出していった。黄さんの番がきた。将校の部屋に入るといきなり手を引っ張って抱き寄せようとした。必死で抵抗して、「許してください。洗濯でも何でもします」と言いながら、部屋の中を逃げ回った。チマ・チョゴリは引っ張られてズタズタになり、また捕まってめちゃめちゃに殴られ、大きな軍靴で蹴りつけられ、パンティーを日本刀で切り裂かれ、強姦されてしまった。 破れたチマを抱えて、痛む身体を引きずるようにして部屋へ戻ると、ほかの娘たちも皆、泣いていた。
 ウミと激痛のなか
 次の日から、将校たちに一日数回呼び出されて犯される日々が始まった。二週間後には、将校専用の女から外されて、一般部隊用の女に回された。部隊の中の木造別棟の慰安所に、小屋から通勤させられるようになった。慰安所は一人がやっと寝られるくらい狭く仕切られ、仕切りといっても毛布を垂らしているだけだった。
 相手をさせられる兵士は普通の日で三〇人程、週末には軍人たちが褌一枚で行列を作っていて、囲いの外では、「おい、早く早く」という声が一日中聞こえた。大勢過ぎて相手の顔は全然覚えていない。
 定期検診は担当の男から月に二、三回受けて、六〇六号という注射をされた。性病が酷くなって腹にウミが溜まるようになった女は、軍人がどこかに連れていってそのまま帰ってこなかった。咸興駅から一緒にここまできた女たちもこうしてファンさんのほかは消えていった。
 ある時、子宮が爛れてウミが溜まり、激痛のためとうとう兵隊の相手をすることが出来なくなった。「もう駄目です。許してください」というと、相手は「よし、許してやる。その代あり俺のモノを口で吸ってみろ」と命令された。「あなたのクソでも食べますから、勘弁してください」と言うと、相手は「この野郎、殺してやる」と、殴る蹴るを続け、フアンさんは何日か気絶したままだったことがあるという。
 余りの酷さに夜逃げを企てる女もいたが、ほとんど捕まって殺された。フアンさんも生き埋めにされた女を四人は見た。
 フアンさんは途中一年間はサハリンの慰安所にも行かされて、吉林の二年間と併せて三年間、地獄のような日々を送ったのだった。
 二カ月歩いてソウルに
ある日、食事の合図もないので、自分で食堂にいった。外にはトラックも馬も荷物も何もなく、軍人も全員姿を消していた。やっと軍人を一人だけ見付けたので聞くと、「日本は戦争に負けた。お前たちも早く朝鮮に逃げないと、間もなく中国人が入ってきて殴り殺されるぞ」と言う。部隊は女たちを見捨てて逃亡したのだった。この男も慌てて部隊の後を追っていった。
 小屋には女ばかり七人が取り残された。逃げるといってもファンさんたちは、ここへ来てからお金をもらったこともなければ、着物も三年前到着したとき、一度男物をもらっただけなので、今では辛うじてぼろ切れで身体を隠しているといった姿だった。生理帯もないので、兵隊が捨てたゲートルの切れ端を使っていた程だ。しかし逃げなければと思った。仲間の女たちをせき立ててみたが、ファンさんのほかの六人は、性病が重くてとても歩けない。ファンさん一人だけでも逃げなさいと言うので、一人で出発した。
 裸同然のような姿だったので、途中で兵隊が脱ぎ捨てていったらしい汚い下着を身に着け、左右の大きさも違う地下足袋を拾って履いた。歩き歩いて、二カ月かかってようやくソウルまでたどり着いた。そこで食堂の主人が食事やモンぺなどをくれただけでなく、「行く所がなけりやここにいていいよ」という親切な言葉を掛けてくれたのだった。
 ファンさんばその後、少しずつ金を貯めてはそれでペニシリンを買って、性病から立ち直っていった。「六・二五」(朝鮮戦争)に逃げ惑い、戦災孤児を育てながら激動期を生きぬいたという。(後略)
 日本での腹の立つ無神経な質問
 「東京では日本政府が当時の様子を聞きたいというので、どうぞと言ったけど、当時いた部隊の名前はとか、所在地はどこでしたか、何という名前で呼ばれていましたかとか、腹の立つ質問ばかりされた。それが分からないことには調べようがない。だって当時、私たちが部隊の名前など聞いたら、すぐに憲兵が来てなぜそんなことを知りたいのかと言って拷問しただろう。私の名前だって番号で呼ばれていただけだ。
 国会での新聞記者会見も遣り切れない質問ばかりだった。ある記者が『どの位の補償金を出せば解決になりますか』と尋ねた。無神経な質問に私は怒りが込み上げるばかりだし、横に座っていた沈美子(シン・ミシャ) ハルモ二はその場で倒れてしまった。日本が補償する気があるのなら、おまえの国をみんなくれ。私の青春を取り戻してくれと叫んできた」
 体験談の途中、ファンさんはその時日本人に蹴飛ばされた跡がこれだよ。ほら、触ってごらんと言って、筆者の手を取って、自分の骨盤に持っていった。きっと複雑骨折しなから誰からも手当てを受けることなく、固まってしまったのだろう。その部分が異様に盛り上がっている。今でも足腰が痛くて、サロンパスを何十枚と貼っているという。(後略)

 性の共同便所だった
 沈美子(シン・ミシャ)さんは一九二四年、今は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)になっている黄海道で生まれた。首都ピョンヤンの南方に当たる地域だ。「一六歳で国民学校の五年生だったとき、というと年齢の割には学年が低くて、数が合わないように思うでしょうが、実は貧しくて、一〇歳を過ぎるまで小学校にも行けなかったのです」
 警察で拷問を受け、強姦され
(略)その一週間後。シンさんは図画の時間に、職員室に来るようにと呼び出された。行ってみると警官が来ていた。
「お前が作ったという日本地図だが、あの周りを飾っとる花は何か」と聞かれた。花は自分の好きな朝顔だった。「お前は日本の花が桜だということを、知らんのか」と言う。もちろん知っている。しかし桜だと、ずっとたくさんの細かな花びらを刺繍しなければならない。まだ子供のシンさんにはあまりに骨の折れる仕事だったに違いない。しかし警官は納得しなかった。
「お前は日本の国花が桜だということを知っておって、日本地図を朝顔で飾った。お前の思想や精神は間違っておる。ちょっと警察へ一緒に来い」と言って、そのまま警察へ連行した。夜になっても帰宅させてもらえなかった。それどころか警察幹部の日本人が宿直室にシン少女を引っ張り込んで、無理矢理服を脱がせようとした。
 少女は「助けてえ」と大声を上げながら逃げ回った。それでもたちまち押さえ込まれてしまった。警官が顔を近づけてきた途端、シンさんは相手の耳に思い切り噛みついた。夢中でかぶりついたので、どんなに強く噛んだか分からないが、相手は顔中血だらけになった。少女の悲鳴には何の反応もなかったのに、警察幹部の悲鳴を聞くや、たちまち幾人かの警官が駆けつけてきた。
 幹部が血だらけの耳を押さえながら何かわめくと、その部下たちは一緒になって少女を押さえ込んだ。別の警官が電話機を持ってきて、コードの端子をシンさんの両足につないだ。そして電話機のハンドルをガリガリ回した。強い電流が流れ、少女はショックでのたうった。昔日本でも使われていた呼び出し式電話機は、まず横に付いているハンドルを回して発電し、交換手を呼び出す方式だった。日本の警察はそれをしきりに拷問用具として悪用した。相手を殺してしまわないでなおかつ、強烈な電気ショックを与える。
 次には真っ赤に焼けたコテを持ってきて、少女の首筋に当てて大火傷を負あせた。そして「お前に桜の花でなく朝顔の花を刺繍せよと言ったのは誰か、名前を言え」といって、また殴られた。誰の名前も思い出せないので黙っていると、少女の手の指と爪の間に竹を削った串を刺し込むというむごたらしい拷問を行なった。その挙げ句に、シンさんは警官たちに強姦されてしまったという。やがてシンさんは気絶してしまったらしい。
 人間として扱われない日々
 気が付くと周りに見知らぬ女の顔ばかりがあった。ここはどこかと聞くと、日本の福岡だといわれた。とするとシンさんはもう何日もの間、気を失っていたのだろうか。そこは軍隊の中らしくテント張りの兵舎が幾つも並び、トタン屋根の粗末な平屋におおぜい若い女がたむろしていた。小屋の入り口には歩哨が立っていた。そこが「慰安所」という所だったことは、間もなくいやでも知らなければならなかった。その時から、シンさんの慰安婦としての日々が始まった。
 小屋の中はカーテンで小さく仕切られていて、シンさんの小部屋でも、一日に二〇ー三〇人もの軍人のセックスの相手をさせられた。ただしそれは平日の場合であって、週末には四〇人から五〇人が列を作って順番を待っていた。もう性器が腫れ上がって激痛をこらえるしかなかった。軍人たちは誰もシンさんの名前を呼ばず、番号だけで呼んだ。福岡ではいつも、「おい、七番」と呼ばれた。そこに集められていた二七人中の七番目ということらしかった。
 シンさんはよく当時の自分のことを「性の共同便所だった」と表現する。日本軍はシンさんたちを人間として扱わなかったのだから、はじめから「名前」など必要としなかっだということかもしれない。二七人の中に中国人が二、三人いて、言葉がまったく通じなかった。
残りは全部朝鮮人で、日本人は一人もいなかった。大部分が「工場で働かせてやる」と言ってだまされ、ここに連れ込まれたと言った。自分と同じように学校途中で無理矢理運行されてきた者も僅かだがいた。
 日本兵に殺される仲間たち
福岡のほか、神戸、大阪、和歌山、千葉・流山、奈良の慰安所にも連れていかれたことがあるが、軍慰安所の構造はどれも似ており、もし仕切りのカーテンを上げれば、隣の小間での「慰安」光景をいつでも簡単に覗くことができた。
 だがそのために、世にも恐ろしい光景を目撃しなければならないこともあった。ある時、相手の男があまりにしつこく、いつまでも帰らないことを悪く言った女がいた。男は「何を生意気な」と怒って、持っていた日本刀で女の乳房を抉るように切り取ってしまったことがある。彼女は泣きながら血の海の中で、失血死していった。
 また別の慰安所では、もう痛くて相手ができないといって断られて腹を立てた軍人が、相手の性器に拳銃を当てて発射し、殺してしまう事件もあった。彼女の場合は即死だった。死体は直ちに菰に包んで、若い兵士たちがどこかへ運び去った。「殺した側」の男も、憲兵が来て、連行していった。殺された慰安婦はどちらも朝鮮から連れられてきた女で、シンさんとも親しくしていた友達だったが、何の言葉も掛けてやれず、無表情で見送るしかなかった。
 というのは日本軍人たちは女がどんな些細な質問をした場合でも「何でお前は、そんなことを知りたかるのか。怪しいぞ」と言って、女に対して殴る蹴るの乱暴に及ぶのか普通だったからだ。だからシンさんも、殺されていった女たちがどう始末されたかを、聞くこともできなかったという。
 喜怒哀楽の感情を欝われ
 シンさんが相手をさせられた軍人は教が多過ぎて覚えてはいないが、「対馬出身の憲兵・鈴木」という名前だけは今も覚えている。福岡でシンさんをどう憐れんだのかある日、博多の町に連れ出して、汁粉をおごってくれたことがある。シンさんが忘れられないのは汁粉の甘さもさることながら、横の席にいた日本人の女たちだ。自分とちょうど同じ年格好の若者たちが、同じものを食べながら笑い興じていた。不幸を自分とは正反対に、幸せそうなその実顔。そういったシンさんの気分を感じたのか鈴木は、「お前たち朝鮮人も可哀相だが、これも天皇陛下の命令だからな。朝鮮からおおぜいの女を各地へ運んでおる。郡単位、村単位で何千人と駆り集めておる」と言った。そう言われても涙は出なかった。苛酷な日々が、何時の間にかシンさんたちから全ての喜怒哀楽の感情を奪っていたようだと、これは今から振り返っての分析だ。
 鈴木は憲兵隊長だった。誰からも告められにくいという特権を使って、しばしばシンさんを「愛人」替わりに各地に出張する際にも連れ歩いた。シンさんは特にこれといった感情はなかったが、身体が随分助かったのは事実だ。慰安所にいる限りは毎日、何十人という荒くれ男たちから辱めを受けなければならなかったが、鈴木が連れ歩いている問は、鈴木の相手をしていれば済んだからである。こうしてシンさんは鈴木と八カ月間、同棲した。
 夏のある日、突然慰安所から軍人たちの姿が消えた。どうしたのかと思っているうちに誰かが「日本が戦争に負けたらしい」というニュースを持ってきた。これでようやく解放されて故郷へ帰ることができる。
 だがどうやって。日本軍からは一円の金も受け取っていなかった。着物もなかった。無人となった倉庫で探してみたが、手に入ったのは男の軍服だけ。仕方なくそれを着た。
 朝鮮に戻るには、正規の航路が閉ざされているので闇の船に乗るしかなく、相当の金がかかると聞いた。仕事を探しだが初めの二年間は、食事はさせるが給料までは出せないという工場だった。慰安婦生活のなかでうつされた性病を癒しながらの惨めな生活だった。梅毒のため子宮からの出血が長い間、止まらなかったという。
 三年目にやっと賃仕事が見つかったが、韓国では李承晩大統領が日韓間の往来を厳しく閉ざす「李承晩ライン」を設定したため、帰国の道が完全に断たれた形となった。シンさんは一九五三年、高い金を払って密航船でようやく韓国へ帰り着いた。朝鮮戦争ですっかり荒れ果てた祖国だった。
 癒えない拷問の跡
 (略)シンさんは国民学校五年生当時の体験を語りながら、左肩をはだけた。首筋から胸にかけて細長く続くケロイド。暫寮から焼きごてを当てられた拷問の傷跡だという。また両手の甲を上にしてテーブルの上に置くと、親指など幾つかの爪が節くれ立ったように盛り上がっている。爪と指の間に竹串を刺されて出来た拷問跡だと説明した。(略)
  帰りがけにシンさんから折り入って頼みがあると言あれた。もう年をとってよそに働きに出ることは無理だし、政府からの補償金だけでは暮らしていけないので、日本人で自分たちの刺繍を買ってくれる人はいないだろうかと言う。幸い陳さんも刺繍が得意というの
で、これからは相当手のこんだ作品が出来るようになるという。そう言あれても記者としては、「読者の方から反蕾あればいいですがさあどうでしょう」と答えるしかなかった。サンプルは厚手絹地の座布団カパーで二種類。赤地のは、番の丹頂鶴を七彩の雲が取り囲んでいるデザイン。青地のほうは、四色の花をあしらったいずれも細かな刺繍だった。値段は日本円で一枚約五〇〇〇円。刺繍に関する連絡先は、韓国京畿道賎高市秀光区太平四滴鯨京太平APT一〇一棟五〇四号 沈美子方。
なかぬま せつお・ジャーナリスト。一九四二年、長野県生まれ。

P18 一番大切なのは、真相究明だ 尹貞玉(ユンジョンオク)韓国挺身隊問題対策協議会共同議長
 (前略)しかも市民団体・挺対協の活動のお陰で元慰安婦の運動、日本国内の支援運動が生まれた。政府レベルでも韓国で保障制度が出来た。対象は何人でどんな保障ですか。
ユン 今年二月現在で一六〇人が申告しています。初めの一時金が五〇〇万ウォン(約六六万円)プラス月額一五万ウォン(約二万円)を支給されます。
ー変わらないのは日本政府の鈍感さでしょうか。
ユン 九〇年には「慰安所は軍と無関係」と国会答弁していたのを訂正し、昨年八月には「強制」があったことを認めたし、さらに細川首相(当時)が侵略戦争を認めるなど変化もありました。さらに変化を期待します。
(略)
ユン 青年や留学生の交流は大いにやられたらいい。慰安婦問題とは関係なくおやりになるべきです。これで真相究明をやらずに誤魔化そうとするなら絶対に許せません。日韓両国民は若くして殺されてしまった慰安婦、今も苦痛に耐えながら生きるハルモニたちの思いを歴史の中に伝えていく義務があります。
-具体的な要求というと?
ユン 私たちの捷対協がいつも要求してきたことは真相究明・公式の謝罪“責任者処罰・本人か遺族への補償。それからこの悲劇を記念碑か教科書に記して後世に伝えていくこと、その他。一番大事なのは異相究明です。誰かにお金をやったり、センター作って静かにさせようとかはいけません。
ー国連でも訴えておられる。
ユン はい。日本政府が誠意を見せるまで国連人権委貴会とか国際仲裁裁判とか各種国際会議とか、あらゆる機会を機会を捕らえて訴えていきます。
-ユンさんご白身の近況を。
ユン 最近では四-五月に中国・武漢に行って詞査しました。日本軍慰安所が四カ所あった。朝鮮人慰安婦は三二人が戦後も帰れず残ったそうで、うち生存者九人から話を聞きました。(後略)
-------
尹貞玉氏 一九二五年生まれ。九〇年に梨花女子大英文学科教授を辞し、以来慰安婦問題に専念している。

 アジア蔑視が今も支配的な日本 鄭鎮星(チョン・ジンソン)挺身隊研究会会長
ー捷隊研は挺対協の下部組織です。何をしていますか。
チョン まず第一に、強制従軍慰安婦だったハルモニたちからの聞き取り作業で、その成果を本にしました(日本語版は明石書店刊『証言・強制連行された朝鮮人草慰安婦たち』)。第二に、国際会議に積極的に参加して、ハルモニたちの苦しみを全世界に訴えていく作業です。
ー国際会議での日本代表にはどんな印象をもたれました?
チョン 良心的な弁護士が参加した一方で、日本政府の態度は私たちと反対の立場で、何とか従軍慰安婦問題が取り上げられないよう努力していました。日本は政権が交替して変わったという人もいますが、私たちには変わったようには見えないのです。最近、日独の戦後処理を比較研究していて改めて思うのですが、両国の態度はあまりにも違います。日本は明治維新以来の「脱亜入欧」思想でアジア蔑視がまだ支配的です。
(略)いわゆる従軍慰安婦以外に勤労挺身隊として工場に行ったのに、二、三カ月後には南アジアに送られて慰安婦にされたケース、富山の飛行機工場では昼間、皆と同じように働かされたうえに、夜は慰安婦にされたという意外な被害届けも来ています。また常習的にレイプされていた看護婦とか、悲しい発見があります。(後略)
ーー
鄭鎮星氏 徳成女子大教授。一九五三年ソウル生まれ。ソウル大社会学部卒。
(インタビュー 長沼節夫)
以上、引用終わりーー
P8からP19全文はここ 「ダウンロード」押す、ファイルを開く(または保存) 著作権は週刊金曜日にあります。
思わず短時間で熟読した。強制は明らかではないか。アジア周辺国を人間扱いしていない様がよく判る。これでよく八紘一宇など言えたものだ。真相究明と記録、教育は大事ですね。
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