加害の記録 南京大虐殺「日記」 週刊金曜日第6号 小野賢二さんの仕事


左表紙 陣中日記の原文写真 右p13揚子江支流で=撮影 村瀬守保さん(故人)
南京大虐殺の中でも最大規模と目されている虐殺現場を経験した歩兵第六五連隊(福島県会津若松)の兵士たちは、自らの体験を「従軍日記」に記録していた。
敗戦後五〇年近くもの間、人目に触れないままだったこれら従軍日記を掘り起こし、ごく普通の日本人兵士が中国人を虐殺した「狂気の時代」の「狂気の行為」を報告する。
日本と日本人にとって「戦争」とはいったい何だったのか。アジアの人々にとって日本と日本人とは何だったのか。「戦争責任問題」や「戦後保障問題」の原点を考える。
兵士たちの陣中日記ー小野賢二さんの仕事 吉田裕
(前略) 戦争犯罪を立証するためには、その犯罪の直接の実行者であった人々の記録を調査することがきわめて重要なこととなる。南京事件に即していえば、第一線の小・中隊長クラスの下級将校、下士官や兵士の陣中日記や回想録などの諸記録である。ところがこのような記録類は基本的には個人の記録であるため、国会図書館・公文書館・防衛庁戦史邸などの公的史料館に保存されている例はほとんどない。その多くは個人の手に残されたままで、いわば「死蔵」されているか、本人や遺族の手で処分されている可能性が高いのである。(中略)
小野賢二さんは、私たちが跳びこえることもせず跳びこえようともしなかった大きな溝を実に淡々と踏みこえていった。戦友会の名簿をほとんど唯一の手かがりにしながら、二〇〇名近い元兵士の人々を次々に訪ね歩き、その中から第六五連隊による捕虜の虐殺を確実に立証する陣中日記などの重要資料を発掘していったのである。
小野さんの仕事は、南京事件の実態解明に大きな貢献をしただけでなく、ともすれば文献史料至上主義におちいりがちな私たち研究者のあり方をも鋭く問うものになっているように思う。
ーーー
南京大虐殺の光景ー歩兵第六五連隊の陣中日記を追って
小野賢二
(前略) 南京へ
一九三七年七月七日、北京郊外の盧溝橋での銃声は戦火を上海に飛び火させ、日中両国間の全面的な戦争の契機となった。日本軍は上海派遣軍(敗戦後、A級戦犯で絞首刑になる松井石根大将指揮)を続々と上海に上陸させた。こーの上海派遣軍.に所属していた部隊の一つが、南京大虐殺の当事者として俺が主に謁査対象にした第三両国歩兵第一〇三旅団歩兵第六五連隊だった。
「歩兵第六五連隊戦友名簿」によると編成時の総兵力三六九五名のうち上海で六二〇名の戦死者とこれに倍する戦傷病者を出したという。中国軍の抵抗はすさまじく、日本軍は多大な拙著を出した。上海派遣軍は約三カ月間、上海に釘付けされた。
戦局を打開するため日本軍は二月五日、第一〇軍(柳川平助中将指揮)を杭州湾に上陸させ、上海の中国軍を背後から突いた。この作戦の結果、中国軍は上海から総退却し始める。上海派遣軍と第一〇軍は中支那方面軍(司令官は松井石根大将)を編成し、中国軍を追撃して、当時中国の首都だった南京に向かった。
大量の捕虜
ところで、南京陥落から一日遅れて南京に到着した山田支隊がなぜ大量の捕虜をとらえることになったのだろうか。
中支那方面軍が採った南京攻略戦は完全包囲殲滅戦だった。南京城の西北へと流れる揚子江の対岸にも日本軍は布陣を敷いた。多数の敗残兵や市民は南京城の北側にある挹江門を脱出して揚子江の渡河を試みようとしたが、その手段がすでになかった。仕方なく多くの人々は揚子江下流の幕府山、烏龍山方面に移動した。
一方、山田支隊は、幕府山にある中国軍の砲台の攻略などを目的に南京に向かってきたため、ちょうど鉢合わせになり、大量の捕虜をとらえる結果になった。
南京大虐殺とは
中支那方面軍が採った南京城の完全包囲殲滅戦で、行き場をなくした敗残兵、難民、老人、婦人、子供が南京城内外に多数現出した。これら中国人捕虜を日本軍は個別に、あるいは多数を集団で虐殺した。また女性への強姦、略奪、放火など残虐の限りを尽くした。南京占領後、この状態が約二カ月間も続いた。
残虐行為の規模、多様さ、期間の長さを見ると、侵略軍の犯した象徴的な事件となった。この事件を一般には「南京事件」あるいは「南京大虐殺」という。中国側は「南京大屠殺」と呼び、三〇万人が虐殺されたと主張する。
俺が調査を始めたころから種々教えていただいている元早稲田大学教授の洞富雄先生(著書に『決定版・南京大虐殺』『南京大虐殺の証明』など)は、虐殺数は二〇万人を下らないだろうと指摘し、前記の呼称ではとらえ切れないとの理由で「南京大残虐事件」あるいは「南京大暴虐事件」とも呼んでいる。
(中略)P10より
宮本省吾(仮名)日記
捕虜の捕獲から捕虜収容所の警備、二日間にわたる捕虜虐殺、死体処理に携わった一人の少尉の陣中日記がある。捕虜をとらえる作業は各歩兵部隊が担ったが、捕虜収容所の警備は主に歩兵第六五連隊の第一大隊(ただし第一中隊は他の任務についていた)が担当した。
今回掲載する陣中日記の筆者、宮本(仮名)少尉は第六五連隊第四中隊所属だった。
この陣中日記を入手するきっかけは、同じ中隊だったある当事者の「宮本さんは陣中日記を書いていたはずだが、本人はすでに亡くなっている」という証言からだった。その時点では遺族が陣中日記を保管しているかどうかは不明であった。
遺族に手紙で訪問の趣旨を連絡し、許しを得てから訪ねた。多くの遺族は陣中日記などは処分してしまうか、どこにしまい込んだか分からないのだが、宮本氏の遺族は家宝として大事に保管していた。だが遺族は宮本氏の思い出や他の遺品の話はしてくれるのに、肝心の陣中日記はなかなか見せてくれようとしない。
口下手な俺は、対応してくれた息子さんを説得することができなかったが、情熱だけは伝えたかった。最初から協力的だった息子さんの奥さんの「見せてあげたら」の一言で、息子さんはやっと五冊ほどの陣中日記を詩ち出してきた。目的のところの日付を探しだして目を通すと、何と二日連続虐殺の記述があるではないか。証言では早い段階から一二月一六、一七日の両日に虐殺があったことを知ったが、一級資料といわれるものは入手できていなかった。自分の手がかすかに震えるのか分かった。コピーと写真をとる許可を得たが、条件がその日のうちに返却ということもあり大失敗をしてしまう。なんと証拠写真を撮るのを忘れてしまったのだ。初めて手にした二日連続虐殺証拠の陣中日記ということで俺は相当興奮していたようだ。
もちろん陣中日記はその日の夜に返却した。一九八九年一〇月のことだ。
歩兵第六五連隊の蛮行
歩兵第六五連隊の元兵士の証言や資料によると、一四日に幕府山南側に二二棟あったという中国軍の兵舎を山田支隊は捕虜収容所にして厳重な警備態勢を敷いた。一七日の虐殺完了までに一回程度の食事しか与えなかった。一六日昼食時に捕虜収容所が火災になるが、ボヤか一棟が半焼した程度だったという。火災をおこした棟の捕虜は外に出されたが、捕虜の混乱はなかった。捕虜収容所の周囲を日本兵が取り囲んでおり、火災のさいに捕虜に対して発砲したという証言も今のところない。逃亡者はいなかった。
宮本氏は一六日の虐殺について「大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し、之を射殺す。戦場ならでは出来ず、又見れぬ光景である」と書いた。この日の虐殺は試験的に行なわれた可能性がある。「揚子江岸」とあるのは、証言や資料によると中国海軍の関係施設である「魚雷営」である。
一万を超える捕虜が収容所にまだ残っていた。一七日には南京入城式が強行された。歩兵第六五連隊からは集成一個中隊が参加した。残りの兵のほとんどは朝から捕虜を後ろ手に縛り、二人から四人を数珠つなぎにする作業に追われた。虐殺の現場となる場所の設営も行なった。前日の魚雷営とは異なり、一七日の現場は大湾子というただの河原だ。一万人以上の捕虜を集合させるため柳の木などを切り払い、逃亡を防ぐために杭を打ち、鉄条網を張った。重機関銃を置く台座を設けた。連隊本部や支隊本部との連絡用に電話線を引いた。重軽機関銃で射撃する際の日印になる構築物の製作を急いだ。連行する捕虜の逃亡を防ぐため要所にはゲートを築いた。一人の生存者も出さないよう捕虜を焼くための石油を運搬した。
準備は整い、一七日夕方から一八日晩方近くまで、残った捕虜全員の大量虐殺が延々と繰り広げられることになる。
宮本少尉は「一七日 夕方漸く帰り、(南京入城式から)直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す。二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一、傷者二、に達す」と記述する。現場は魚雷営から揚子江下流約二・五キロ地点だった。
歩兵第六五連隊は戦闘らしい戦闘がない南京攻略戦で少尉を含む兵七人の死者が「戦友名簿」に記録されている。この死亡者は虐殺事件に関わって死亡したと思われる。いかにすさまじい中国人捕虜虐殺事件であったかが分かる。
俺が聞いた元兵士の証言によれば、一六日に虐殺が行なわれた魚雷営では翌日の一七日にも虐殺が行なわれた可能性がある。
あまりにも大量の捕虜虐殺だったためか、揚子江に流す死体処理が一八、一九日と二日間にもわたって行なわれた。
山田支隊の大部分は南京に一週間駐屯しただけで、一二月二〇日には揚子江を渡河して南京を去る。山田支隊が南京に残したものは捕虜大虐殺の爪痕だけだった。虐殺した当事者である兵士たちは敗戦後、苦悩と口外できない苦しみだけが残ることになった。
(中略)
論争
これらの大残虐事件を認めたくない一部の右翼マスコミから、南京大虐殺は虚構であるとか、まぼろしだとかの主張が飛び出した。日中国交回復の前後や歴史教科書問題が持ち上がる時期と重なる。事実解明はジャーナリストや研究者で構成する南京事件調査研究会やその他の研究者の手によって進められた。また当事者の証言や当時の資料の発掘などによって事件が「虚構」だとか「まぼろし」だとかいう論調は打ち破られた。
八九年に偕行社(旧陸軍士官学校出身者の親睦団体)刊行の『南京戦史』(南京戦史編集委員会編)は殺害した人数を数千から数万人だと主張する。
虐殺に大小はない
虐殺したことを当事者側が認めた点では評価できる。しかし中国側のいう三〇万人もの虐殺が行なわれたのではないから大虐殺は誤りだといって、「大虐殺」に対して「小虐殺」論を展開した。この論が現在の「虚構」「まぼろし」派の中軸になっている。虐殺した人数が数千人でも数万人でも大虐殺には変わりがないと俺は思うのだが、小虐殺論者に言わせれば、三〇万人でなければ大虐殺ではないらしい。
歩兵第六五連隊が捕らえた捕虜の行方も大きな論争点の一つだった。福島民友新聞社発行の『郷土部隊戦記』(一九六四年)は次のように記した。
捕虜のうち半数を占めた女性、子供、老人、一般市民ら非戦闘員を解放した。一二月一六日の夜、捕虜収容所で発生した火事をきっかけにさらに半数が逃亡した。結局残った捕虜を揚子江の対岸に解放するため連行したところ捕虜が暴動を起こしたので、やむをえず歩兵第六五連隊は発砲した。死者は一〇〇〇人程度だったー。
いわゆる自衛発砲説である。この説が正しいかどうかも検証しなければならない。
調査メモ
「なぜあなたは調査をしたのですか」とよく聞かれる。いつもどう返答すればいいのか戸惑う。最初から明確な目的意識があったわけではないし、調査に長期間かかわるつもりはなかった。ただ、まだ発表されていない当事者の記録を一つくらい見つけられれば俺の役割は終りだと思っていたし、それ以上やるのは自分の力量を考えても無理なような気がしてい
た。事実、何度やめようと思ったか知れない。だが調査の途中から、今の時期を逃しては当事者の生の声を聞く機会が失われてしまうという危機意識に見舞われるようになった。結果から言えば今日まで約六年間動き回ることになった。まだ調査が終ったわけではないが、約二〇〇人の証言と約二〇冊の陣中日記やその他の資料を入手することができた。
そもそも調査を始めたきっかけになったのは一九八八年に市民団体の「南京大虐殺実態調査記録訪中団」に参加したことだ。その中で調査活動をしたらどうかという意見があった。歩兵第六五連隊中心の調査になった理由は、たまたま俺が住んでいた地域で編成されていたからにすぎない。
日本人は被害者意識が強いようだ。反戦平和運動もその意識から出発しているように思える。俺はいつも疑問だった。加害の事実を通してこそ反戦平和運動も力を持つのではないかと考えていた。こういう考え方が俺の底流にあったことは確かだし調査の一つのバネになったのも事実だ。
調査などこれまで一度もやったことのなかった末端労働者の俺が調査の方法として選択したのは、南京攻略戦の当事者を探しだし、末端の兵士(幹部はすでに亡くなっていた)一人ひとりの証言を聞き、事実を積み重ねて行くことだった。県内各地を歩き回った。時には東京、新潟にも足を伸ばした。
「大虐殺」の加害事実を背負った人々に近づく作業は胃が痛くなるほどの緊張の連続となった。
俺は敗戦後の生まれだが、彼らと同年代で、同じように赤紙一枚で召集され、当時の価値観の中で大勢の捕虜を目の前にして、「処分せよし「始末せよ」(殺せという意味)との命令を受けたならば、果たして拒否する勇気があっただろうか。
拒否できなかったに違いないと俺は思う。ならば俺が証言を聞こうとしている人たちは俺自身ではなかったか。ここまで考えると虐殺の当事者であった調査対象者が非常に身近な人々だと感じられるようになった。事件から五十数年。当事者は口を閉ざし続けた。しかし多くの当事者が「あの情景(虐殺)は忘れようとしても忘れられない」と語った。
この調査の命は証言を得ることだった。証言依頼は住居の場所と生存していることを確かめた上で手紙を出した。受諾の返事はいつも感動的だが、拒否をする人も非常に多い。だが最も多いのは音沙汰なしであった『これを拒否と受けとるか証言してくれると判断するかで調査の進展具合は大きく左右される。もっとも拒否する行為によってあまりにも多くのことを語ってくれたと俺は思っている。
こんなことがあった。ある資料で陣中日記の存在は分かっていた。だが住所や生存しているかどうか、所属中隊も分からなかった。諦めていた頃、偶然ある当事者から名前が飛び出した。住居を探し出し、生存していることも分かった。
そのS氏は快く受け入れてくれたが、捕虜虐殺の事実は最初から否定した。行き場をなくした俺は仕方なく陣中日記の件を切り出してみた。自分で書いた陣中日記の存在すら忘れていだようだ。本人は何を言っているのだという顔をした。俺は再度関係者の名前を出してみた。S氏ははっと気かついたらしく奥の部屋に引きこもったままなかなか出てこない。ようやく出てきたS氏が持ち出してきた大きな段ボール箱には戦争中の資料がびっしり詰まっていた。その中に陣中日記が三冊含まれていた。
ところがである。関連部分を読んでいたS氏は突然、陣中日記をばたっと閉じてしまい、「俺は絶対だれが何と言おうとこれは見せられない。絶対みせられないんだ」と自分に言い聞かせるように言って、再び段ボール箱にその陣中日記をしまい込んでしまった。その後、何度か交渉を試みたが、拒否され続けている。
自分の書いた陣中日記で虐殺情景を蘇らせたS氏の表情に、見てはならないものを見てしまったと俺は思った。
歩兵第六五連隊が主体となった捕虜大量虐殺。事件は「現在分かっている範囲」との前提条件つきになるが、おそらく南京大虐殺の中でも最大規模の集団虐殺であった。
では、二日連続虐殺の記述がある宮本省吾(仮名)の陣中日記を紹介する。
おのけんじ・化学労働者。一九四九年、福島県生まれ。南京事件調査研究会員。
ーーー
陣中日記 第一三師団歩兵六五連隊第四中隊
宮本省吾(仮名) (監修/藤原 彰)
(前略)
〇敗残兵を捕獲〇
十三日
前夜午后七時俄に命令に接し烏龍山砲台攻撃のため出発、途中大休止をなし、午前五時出発前進す。午前十時将枚斥候となり、烏龍山方面の敵情を捜索に出発、途中敗残兵等に会ひ、騎兵隊と共に射殺す。
敵弾の音の中を一時は潜り鳥龍山の近く迄捜索するも敗残兵少々の外、陣地に依る兵は見当らずに帰る。
本隊に帰るも、本隊はすでに前進をなし、非常に困難して本隊に追付く。夕方烏龍山に攻撃に向ふも敵の陣中にあると思えず、敗残兵を多数捕獲し、一部は銃殺す。夜十時野宿につく。
十四日
午前五時出発、南京近くの敵の残兵を掃蕩すべく出発す。攻撃せざるに凡て故は戦意なく投降して来る。次々と一兵に血ぬらずして武装を解除し何千に達す。夕方南京に捕虜を引率し来り。城外の兵舎に入る。無慮万以上に達す。直ちに警備につく。中隊にて八ヶ所の歩哨を正晴せしめ警戒に任ず。捕虜中には空腹にて途中菜を食ふ者もあり、中には二、三日中、食を採らぬ者もあり、喝(ママ)を訴える者あり。全く可愛想なるも戦争の上なれば、ある程度迄断乎たる処置をとらねばならぬ。夜半又々衛生隊が二百余の捕虜を引率し来る。巡警二〇〇余もあり、隊長もあり、相当訓練的にて人質をしらペる等、面白き事である。少佐とか参謀とか云ふ者もあり。通訳より「日本軍は皆に対し危害を与へず。唯逃ぐる等暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」との事を通じ、支那捕虜全員に対し言達せし為、一般に平穏であった。唯、水と食料の不足で全く平公(閉口の意-編集部)した様である。
十五日
一昨日来の疲れのため、下士官以下に警戒をたのみ唾眠す。本日も出発の様子なく警戒に任ず。
中隊は衛兵を多数出し、叉自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のために疲労す。
夕方より一部食事をやる。兵へも食糧配給出来ざる様にて捕虜兵の給食は勿論容易なものでない。
○二日間連続の大量虐殺○
十六日 警戒の厳重は益々加わり、それでも前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す。しかし其れも疎の間で午食事中俄に火災起り、非常なる騒ぎとなり、三分のー程延焼す。午后三時、大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し、之を射殺す。戦場ならでは出来ず、又見れぬ光景である。 十七日(小雪) 本日は一部は南京入城式に参加、大部は捕虜兵の處分に任ず。小官は八時半出発、南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加壮(ママ)厳なる史的光景を見(ママ)のあたり見る事が出来た。 夕方漸く帰り、直ちに捕虜兵の處分に加はり出発す。二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一、傷者二、に達す。 |
〇死体の処理〇
十八日(曇)
昨夜来の出来事にて晩方漸く寝に付く。起床する間もなく晝食をとる様である。
午后敵死体の片付をなす。暗くなるも終らず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。
十九日
昨日に引続き早朝より死体の處分に従事す。午后四時迄かゝる。夕方、叉捕虜の衣類の始末につき火災起る。少しで宿舎に延焼せんとしたが、引留む事が出来た。
明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かゝる。牛肉の油上迄作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす。風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。
(後略)
ーーー
日本軍の組織的な捕虜殺害『宮本省吾(仮名)陣中日記』解説 藤原彰
捕膚の監視警戒に当たる立場にあった宮本省吾(仮名)が記録した『陣中日記』は
偕行社編『南京戦史』が他の資料から引いた「捕虜の暴動がきっかけで射殺した」という説をあっさり覆し、捕膚虐殺が歩兵第六五連隊の組織的犯行であったことを明確に証言している。
(前略)
平均年齢の高い特設師団(注1)
この陣中日記は、第二一一師団歩兵第六五連隊第四中隊の宮本省吾(仮名)予備役少尉(当時)の、南京攻略戦前後の日記である。
第三一師団は、上海戦さなかの一九三七年九月に急いで動員され、同月下旬上海派遣軍に増援ざれた臨時編成師団である。
(中略)この日記の筆者である幹部候補生出身の予備役将校宮本少尉は、補充要員として召集令状を受けて一〇月一六日に若松の留守隊に入隊した。そこでの訓練の後、第六五連隊の第三次補充として、一一月一八日若松出発、二三日に宇品で輸送船に乗船し、二九日上海に上陸、それより補充兵を率いて行軍をつづけた。そして南京攻略直前の一二月五日に、江陰でようやく連隊に追及している。連隊に迎えられた宮本少尉は、第一大隊第四中隊に編入されて小隊長となった。第二二師団は一二月一〇日鎮江を占領した。師団主力はここから揚子江を渡って北岸に向うのだが、一二月一二日に第六五連隊は山砲兵第一九連隊第三大隊、騎兵第一七大隊ともに、歩兵第一〇三旅団長山田栴二少将の指揮下に南岸にとどまり、山田支隊となった。支隊の任務は、揚子江南岸沿いに前進して、南京下流の烏龍山砲台と、幕府山砲台を占領し、佐々木支隊(注2)の進出を助けることであった。支隊は一二月三二日に烏龍山、一四日に幕府山を占領するが、幕府山周辺で大量の捕虜を捕らえたのである。この捕虜の集団的な殺害が、南京大虐殺の中の大きな事例となっているのである。
現場で記録された第一次資料
宮本少尉は連隊にやっと追いついたばかりで、全体の状況に通暁しているとは思えず、またそれについての記述は多くはないが、白身の見聞についてはきちんと記録している。一三日には
烏龍山付近で「敗残兵を多数捕縛し、一部は銃殺す」とあり、一四日は、武装解除が「何千に達した」こと、域外の兵舎に「無慮万以上」の捕虜を入れ、その警備の任についたこと、一四、一五日にかけては監祝下の捕虜の状態とくに給食が困難だったことが書かれている。一六日には俄に火災が起ったこと、「午后三時、大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し、之を射殺」したこと、一七日は一部は入城式に参加し大部は捕虜の処分に任じたこと、入城式に参加した宮本も、夕方には帰ってこの処分に加わったこと、そして「二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出し」たことなどが、淡々とした筆致で書かれている。そして一八日、一九日の二日間は死体の処理に費やし、それが終って二〇日にやっと北岸に転進して師団主力に復帰するのである。
この捕虜の処分についての日記の記述は、現場で記録されたものであり、重要な第一次資料である。それはこの捕虜の処理が、南京大虐殺を肯定する側と否定する側との論争、それは論争という名に値するものとは思わないが、ともかくもそこでの問題点になっているからである。
山田支隊が一二月一四日に幕府山付近で、一万四千余の捕虜を得たということは、当時の新聞でも報道されており、参謀本部の。『支那事変陸戦概史』上篇にも約一万五〇〇〇名、防衛庁の『戦史叢書・支那事変陸軍作戦の<1>』にも一万四千余の捕虜を得たと記述されている。この捕虜を組織的に殺害したというのが、洞富雄『決定版・南京大虐殺』をはじめとする肯定派の主張であり、それにたいして否定派は、大部分の捕虜は釈放したのであり、暴動をおこし警戒兵を襲ってきた者を射殺したのだと主張している。『戦史叢書』では捕虜にした者一万四千余の中、非戦闘員を釈放し約八千余を収容した。ところがその夜約半数が逃亡した。一七日に残りを釈放しょうとして江岸に移動させたところパニックがおこり警戒兵を襲ってきたので、約一〇〇〇名を射殺し、残りは逃亡したと記述している。偕行社編の『南京戦史』は、この『戦史叢書』の説と、福島民友新聞社の『郷土部隊戦記』の説として一六、一七の両日にあたり暴動集団の主力を射殺したという両説と併記し、何れにしても「我が軍の機関銃射撃は、捕虜集団の暴動下において行われている」としている。
つまり否定派は、はじめから捕虜殺害を計画して殺害したのではなくて、暴動をおこしたからやむを得ず一部を射殺したのだとしているのである。捕虜を大量に殺害しはじめたので暴動がおこったのと、暴動を起こしたから殺したのとは、まったく別である。もちろん殺害した数にも大きな違いがあるが、捕虜を計画的に殺したのと、釈放しようとしたのに暴動をおこしたから殺しだというのでは、大虐殺かどうかの分かれ道となるであろう。この日記の記述は、明らかに前者、捕虜殺害を組織的に実行し、それに気づいた捕虜がパニックをおこしたことを示す史料であるということができる。
人間として扱われない捕虜
また捕虜の監視警戒にあたった立場から、捕虜にはほとんど食事も水も与えられなかった様子が書かれている。日本軍自身の食糧さえ補給できない状態の下で、予想もしなかった大量の捕虜を獲得したことは、捕虜の給食という思いがけない難問が生じたのである。捕虜の給食の困難が、始末に困って捕虜の処置、すなわち殺害につながったことをうかがわせる内容でもある。
それと関連することであるが、中国戦場での日本軍の場合、捕虜をほとんど違和感なく簡単に殺していることに驚かされる。「銃殺す」「射殺す」といった記述がくりかえされているが、それが国際法に違反しているとか、人道上の犯罪であるとかいう認識が、果してあったのだろうか。
これは日記の筆者だけでなく、上級幹部から兵にいたるまでの日本軍に、共通する問題である。
一二月一三日から一九日までの、捕虜の処理にかかわった期間を除くと、それ以外の日記、すなわち常熟から南京への行軍と、江北に移ってからの行軍と警備の期間の記事は、読めば明らかなようにほとんどが徴発の記録である。今日は物資が豊富で御馳走かつくれた、今日は何もなかったというような記事が毎日くりかえされている。後方からの補給が何もない状況で、小隊長としての筆者の関心が、もっぱら小隊全員に食べさせることにあるのほ当然のことである。補給のないままに作戦行動をつづげる日本軍にとって、「糧は敵による」以外に方法がない。徴発という名目での略奪が不可避だったのである。豚や鶏を殺され、保存してある穀物を奪われ、家具や家屋まで燃料にされる民家にとって、それがどんなに大きな災害であったかは想像に難くない。
筆者は歩兵であるが、作戦行動間の従軍記、陣中日記のほとんどに、兵種を問わず同じような記述がみられるが、この日記もそのような記録の一つとして、史料を積み重ねる意味があるといえよう。
さらにこの日記は、家族を愛し平凡な日常生活をおくっていた一人の市民が突然侵略戦争の第一線にかりだされ、短期間に境遇に慣らされて略奪、暴行や捕虜の殺害に何の躊躇も感じなくなっていくことの恐ろしさを、改めて考えさせる史料でもある。
(ふじわら あきら・元一橋大学教授)
(注1)特設師団は、現役兵と予備役兵を主とする一般の現役師団と比べると、後備兵が中心で平均年齢が高い上に、編成上も火力や機動力が十分でなく、戦力が劣ると考えられていた。
(注2)佐々木支隊は、第二六師団の歩兵第一三〇旅団長佐々木到一少将の指摘する歩兵第三八連隊が主体で、第一六師団の右側支隊として一二月一三日、南京城外の下関を占領し、大虐殺の一翼をになった部隊である。
ーー(以上、引用終わり)
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明仁天皇が年頭の感想で「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。」と述べている。いや、満州事変といわず日清戦争から日本軍侵略の歴史を大いに学ぼうではありませんか。
ーー
小野さんのドキュメンタリー、がある。「兵士たちが記録した南京大虐殺」(おれのは消されてしまったが)
、陣中日記に1937.12.18虐殺1万人の記述があり、奈良の33連隊か津の38連隊の関与が濃厚だとか。
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