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第二次世界大戦の日本軍の侵略、飢え死、捕虜について(週刊金曜日1993.12.3 第5号 藤原彰 )

img134.jpg「犬死」の歴史的背景 藤原彰 週刊金曜日1993.12.3 第5号P6~P15より引用。

日本の戦争は侵略戦争だ
(前略)日本政府はかつての日本の戦争が侵略戦争であったことを、対外的にはすでに承認していたのである。
一九五一年のサンフランシスコの対日平和条約の第一一条は、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾」となっている。日本は講和にさいして、満州事変以来の日本の戦争を侵略戦争とした東京裁判の結果を受け容れているのである。
国際的な定義に照らしても、かつての日本の戦争は侵略そのものである。一九七四年に国際連合総会は「侵略の定義」 についての決議を行い、「一国による他国の主権、領土保全若くは政治的独立に対する、又は国際連合憲章と両立していない方法による武力の行使」を侵略であるとした。そして(a)として「一国の軍隊による他国の領土に対する侵入若くは攻撃、一時的なものであってもかかる侵入若くは攻撃の結果として生じた軍事占領、又は武力の行使による他国の領土の全部若くは一部の併合」以下(g)に至るまでの七項目を例示した。日本の戦争はそのことごとくに該当する。そして日本はもちろんこの総会決議に質成した(注2)。
(注2)この点について私は家永教科書裁判第三次訴訟の一審で、原告側証人として証言した。そのさいの私の意見書「日本の侵略と日本軍の残虐行為」は、本多勝一編「裁かれた南京大虐殺」(晩聲社、一九八九年)に全文が収録されている。
また、歴史的な事実に照らしてみれば、何も後世の歴史家を待たなくても、まともにこの戦争を研究した歴史家ならば、侵略戦争であったことを認めないはずはない。私もこの時代の歴史を専門とする者として、繰り返してそのことを論じてきたので、ここでは今さら詳しくは述べないが、侵略戦争であったことを歴史家としての良心にかけて断言するものである。

P8日本軍の死者の大半は、戦局の帰趨に全く関係のない、役に立たない死に方をしていたのだということを明らかにしたいのである。
  日本軍死者の半数以上が餓死
二年前に私は「第二次大戦における日本軍の餓死について」 (注3)という論文を書いた。そこで私は日本軍人軍属の死者二三〇万人の半ば以上が、ひろい意味での餓死者であることを問題にした。
戦闘行動による戦死者よりも、補給途絶による餓死者の方が多いことを、ガダルカナル戦、モレスピー攻略戦、インパール作戦、フィリピン防衛戦、それにメレヨン島守備隊の場合を例示して論じた。そこでは「聖戦」に殉じた「靖国の英霊」の半ば以上が、実は悲惨きわまりない餓死だったということをどう考えたらよいか、という問題を出したのである。
(注3)藤原彰「第二次大戦における日本軍の餓死について」(「女子栄養大学紀要」第二二号一九九一年)
(中略)
国体護持のための戦争完遂 (前略)
敗戦必至という判断をもった重臣たちが、せっかく東条内閣を倒したのに、何故はっきりと戦争終結にむけての政策転換をしようと努力せず、何も知らずに戦争完遂を叫ぶことになる小磯首相を誕生させたのか。それは昭和天皇と陸海軍の中枢部の大勢が、戦争継続論だったからである
(中略)
 彼らは世界戦局の動きも、太平洋戦線の絶望的な状況も、さらに国内の軍需生産や輸送力の危機的な状態も、ほぼ正確に認識していた。それにもかかわらず彼らは、和平交渉での有利な条件を獲得するためにも、もう一度の最後の一戦での局部的な勝利に望みをかけていたのである。その条件とは、最終的には「国体の護持」つまり天皇制の維持であった。その点では天皇白身も、まったく陸海軍統帥部と同調していた。「何とか戦果をあげてから」和平をはかるというのが、天皇が最後まで持ちつづけていだ意向であった。このことを論証したものに、山田朗、纐纈厚の二人の軍事史家の「遅すぎた聖断-昭和天皇の戦争指導と戦争費任-」という著書がある(注6)。
(注6)山田朗・纐纈厚「遅すぎた聖断ー昭和天皇の戦争指導と戦争責任ー」(昭和出版、一九九一年)
なお同じく「遅すぎた聖断」というタイトルのテレビ特集番組が、琉球放送で一九八八年に放映された。これには著者の二人とともに私も関係したが、この番組は沖縄県民の立場から、天皇の終戦の「聖断」がせめて一九四五年二月の近衛の上奏のころに行われていたら、沖縄戦の悲劇は避けられたのにという観点で制作されたものであった。(後略)
三一〇万人の日本人の戦没者の大部分は、このあとの一年間に生じたものである。それこそ、無用な戦いの犠牲者たったのだといえよう。

見すてられた前線部隊(前略)
 この決戦ラインを本土、南西諸島、フィリピンの線に下げると決めた七月二四日の直前の七月二一日に、米軍はグアム島に上陸し、また二四日にはテニアン島に上陸した。しかしすでに見すてられている両島には、何の救援手段もとられず、グアム島一万八〇〇〇、-テニアン島八〇〇〇の守備隊は玉砕するのにまかされた。
決戦ラインを本土、フィリピンの線まで下げ、乏しい国力、戦力をそこに集中するということは、それより前方の太平洋地域の陸海軍部隊、ラバウルやニューギニアや中部太平洋のトラック諸島やパラオ諸島に残された軍隊が、いわば軍中央から遺棄されてしまったと同じことになったのである。米軍は九月にはパラオ諸島に乗攻し、九月一五日にはぺリリユー島 九月一七日にはアンガウル島に上陸した。九月一五日パラオ島地区集団にたいし、その上部指揮官
である寺内南方軍司令官は訓電を送って、「唯憾ムラクハ徒二貴集団ノ孤軍奮闘二俟ツノ已ムナキヲ惟ヒテ断腸極リナシ」と、何もしてやれない苦悩を述べている。両島守備隊は、勇戦敢闘して玉砕した。
 このような玉砕部隊は、ともかくも敵軍と戦闘を交えたのだが、それより前方、米豪軍からいえば背後には戦力を失って敵軍から無視された数十万の日本軍が取り残されることになったのである。要塞化したラバウルを中心に、ビスマルク諸島 ソロモン群島方面に約一五万、東部ニューギニアに約一五万をはじめとして、トラック島、メレヨン島、ヤップ島など中部太平洋の諸島に配備された守備隊は、何の補給も受けられない状態で取り残されたのである。それらの部隊は、戦局にはもはや何のかかわりをもつこともできなくなっていたといってもよい。
 この原稿を書いている今日の『朝日新聞』(九三年一一月一八日)社会面に、「戦争末期のニューギニア戦線 日本軍が人肉禁止令」という記事が載っている。その内容は、オーストラリアの戦争博物館や国立公文書館から、メルボルン大学の田中利幸助教授が発見した史料で、日本軍の歩兵団長が人肉食を禁じた命令書など押収文書の翻訳や、人肉食にか
かわるBC級戦犯裁判記録が含まれているという。記事には同戦線の体験者の証言も載せて、想像を絶する飢えだったと語らせている。
 東部ニューギニアの第一八軍の降伏時の残存兵力は一万三〇〇〇、戦後も栄護失調やマラリアで死亡する者かつづき、内地に帰還した者は一万人に過ぎなかった。一〇万人を超える死亡者の大半は、餓死か体力消耗によるマラリアなどの病死だった。ニューギニアからの生還者による戦記や体験記が何冊も書かれているが、そのどれもが極限状況の
飢えを記録している。戦局の全体に関係のなくなった地域で、こうして悲惨な出来事が展開されていたのである。

くりかえす最後の決戦 (前略)
レイテ決戦は大敗北に終るのである。小磯首相は国民に向かって、レイテの戦いは天王山だと訴え、その奮起をうながした。しかし連合艦隊が敗北し、やっとレイテ島に送りこまれた陸軍兵力も、制海権、制空権のない状態で補給が途絶えて戦力を失った。レイテ決戦を叫びつづけていた大本営も、一二月中旬には決戦方面をレイテからフィリピン全域にひろげることにしたが、それは決戦をあきらめたことであった。米軍は四五年一月九日ルソン島リンガエン湾に上陸したが、第一四方面軍は主力をレイテ島に送ってしまったあとなので、マニラを放棄し、山中にこもって持久戦をつづけることになった。レイテ馬、ルソン島をはじめとするフィリピン諸島には六〇万を超す陸海軍の大部隊が送りこまれていだが、これ以後いっさいの補給を受けないまま山中を逃避することになる。 
 厚生省援護局は一九六四年三月にフィリピン方面の戦没者の数を四九万八〇〇〇名と計算したが、おそらく死亡者の合計は五〇万人になるであろう。しかもその大半が戦局が決定してしまったあとの、一九四五年に入ってからの死者である。

P14軍人の死者が最後の一年間に集中しているのに対し、一般国民の犠牲者は最後の半年に集中している。戦局が決定的になってしまってからあとの、これこそまったく無益な死であったといわざるをえない。

何故玉砕しなければならないか
 戦局の大勢が決定してしまってからあとの、結果としては無用無益な死が多かっだだけではない。個々の戦闘をとってみても、日本軍には避けることのできた犠牲、戦局にもはや関係のない無駄死が非常に多かっだ。それは玉砕の場合にもいえるのである。
 一九四三年のアッツ鳥、マキン島、タラワ島、ニューギニアのブナ、バサプア、四四年にはクエゼリン、ルオツト、ブラウン、サイパン、グアム、テニアン、べリリユーの諸島嶼、ビルマ戦線のミートキイナ、雲南省の拉孟、騰越、四五年に入ってからは硫黄島と日本軍の玉砕がつづく。そのほとんどは、日本軍側には制空、制海権がなく、救援や補給の途は絶無で、守備隊は自らの運命を自力で決する以外はなかった。多くは戦力が尽きたあと、死ぬことだけを目的とした最後の突撃をして玉砕した。(略)。
 しかしなぜ全員が必ず死ななければならなかったのだろうか。
 こうした玉砕の場合よりははるかに人数が多く、しかも言いようもないほど悲惨なのは餓死である。ガダルナカル島の戦いやインパール作戦、さらにニューギニアやフィリピンの戦場で膨大な餓死者を出したことは前にも述べた。住民の多いフィリピンの場合のように、日本兵が住民の食料を奪い、ついには食べるために殺すという地獄図を演じたことも大岡昇平の『レイテ戦記』をはじめ、多くの参戦者の記録がある。そうした中でも孤島に取り残された部隊の場合はもっとも凄惨な様相を呈した。
そうした中でも孤島に取り残された部隊の場合はもっとも凄惨な様相を呈した。中部太平洋では、米軍の主攻線から外れ、爆撃だけで戦力を失って取り残された多数の珊瑚礁の小島があった。その中で比較的多数の守備隊が置かれていたのは、ウオッゼ、マロエラップ、ウェーク、クサイ、モートロック、メレヨン、ヤップなどの諸島である。珊瑚礁の平坦な環礁で農耕に適せず、補給が絶えたあとはただ餓死を待つだけという状況が現出した。
 その中でも知られているのはメレヨン島の場合である。トラック島南方のこの島は、四四年中に爆撃を受けただけで取り残された。この島には陸軍の独立混成第五〇旅団、海軍の第四四警備隊あわせて六四二六名余の部隊が配備されていたが、食物の絶対的不足から餓死、栄饗失調死が相ついだ。また食糧をめぐって盗難、統制のための処刑、さらには死刑も行われた。四五年六月に海軍の司令が書いた報告の原稿には、「一日平均二十名近ク病死者アリ、全部栄養失調症ヨリ来ル衝心脚気ニヨル餓死ナリ」「私刑ガ極メテ多ク、絶食、吊シ首、絞リ殺シ等ガ平然卜行ハレ居り憂フへキ状態ナリ」と記されている。
 この島の守備隊六四二六名中戦死(空襲)三〇六名、病死四四九三名、生還者一六二六名で、実に七割までが病死すなわち餓死である。また陸軍の生還者の比率は将校六七パーセント、准士官七六パーセント、下士官三五パーセント、兵一八パーセントで、将校、准士官が七割も生還したのに、兵の生還者は二割にもみたなかった。厳しい食樋統制や違反者の処刑が行われたことも、その理由であったと考えられる。戦局に関係がなくなってしまった島で、飢えて死んだり処刑されたりしたのは、普通の感覚でいえば名誉の戦死ではなくて、無用の死であり犬死であろう。

捕虜を認めぬ非人間性
何故このような無用の死、犬死が強制されたのか。それは昭和期の日本軍に、降伏を許さず、捕虜になることを認めないという非合理な思想が存在したからである。(略)
 一九一六年九月の仔虜収容所会議で、伴虜情報局は次のように訓示している。国民教育上注意すべきことだとして、「西洋二在テハ名誉ノ仔虜タリト雖モ本邦二在テハ最モ恥辱トスぺキ俘虜タリ。吾人ハ敵国ノ勇士ヲ遇スルニ其途ヲ以テスルコト我武士道卜合シ又国家ノ体面上大国民タルノ襟度ヲ表示スルノ上ニ必要ナル要件タルコトヲ信ズルト同時二、一面又帝国国民トシテハ最後二至ル迄如何二力戦奮闘スルト雖モ死ノ栄アツテ俘虜タルノ恥辱ナカランコトラ期セザルベカラズ」と述べ、だから収容所を見学する小学生たちに決して俘虜は名誉だなどとの感想を持たせてはならないと主張している。
 満州事変以後、天皇主義、精神主義がいっそう強調されるようになると、捕虜は最大の恥辱だとされ、もし捕虜となって送還された場合には自殺が強制された。一九三二年の上海事変で重傷を負って捕虜となった空閑昇少佐が、捕虜交換後に自殺したこともこの風潮を強めた。ノモンハン事件でも多教の自殺者が出ている。一九四一年はじめに東条首相が全軍に布告した「戦陣訓」も、捕虜となることを強く戒めている。どんな状況の場合でも、軍隊としての降伏を託さず、個人として捕虜となることを認めないというこの日本軍の建て前が、どれだけ多数の無用の死を生んだがを考えてみなければならない。侵略戦争であったか、なかったがという問題を離れても、この大戦での大量の犠牲の多くが「無用の死」、つまり「犬死」であったという事実に、きちんと目を向けなければならないと思う。

・・・・・・・・・・・・
藤原 彰(ふじわら あきら)
一九二二年東京生まれ。陸士五五期生。中国戦線で三年半歩兵の小隊長と中隊長。一九四九年東大卒。一九八六年一橋大学教授を定年退職。日本現代史専攻。著書「天皇と軍隊」、「日本軍事史上・下」など。 [以上引用終わり] 追記1999年死去 80歳。

ーー(著作権は週刊金曜日にあります)
全文はこちら→リンク先 ダウンロードページを表示する<19931203fujiwaraimg138.pdf をクリック<ファイルを開く、または保存
ーー
少し長かったが、勉強になった。横井さんや小野田さんがフィリピンから生還した背景が判った。藤原先生の著書も読みたいと思う。大和だ、ゼロ戦だと太平洋戦争を美化する風潮が最近は強いが、戦争最前線部隊の実態を伝えていきたいものです。
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