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日本兵による人肉食事件 フィリピン・キタングラッド山 週刊金曜日1995.3.17

週刊金曜日1995.3.17 66号P21~25より引用。 永尾 俊彦
日本軍の残虐行為は敗戦後にも起こった。
敗残兵となった日本兵は、食糧の補給を断たれ「自活自戦」を強いられた。
敗戦を信ぜずに「聖戦」を続けるうち、
キタングラッド山ろくの人々を殺害し食べていったー。
敗望五〇年を間近にようやく三年前、フィリピンで裁判記録が公開され、
昨年末、被害者同盟が発足した。
日本でも兵士の証言は公になっているが、被害者の遺族に取材した筆者の報告。

敗戦後、フィリピン・ミンダナオ島北部のキタングラッド山(二九三八メートル)中で起きた旧日本軍による現地のヒガオノン族虐殺・人肉食事件は、三年前、フィリピン国立公文書館所蔵の戦争犯罪裁判の記録が公開されたことを契機に表面化した。私は昨年この記録を手にすることができた。
 それによると、キタンクラッド山にたてこもっていた陸軍第三〇師団第一五揚陸隊を中心とする日本兵三四人は一九四七年二月一四日に投降。そのうち一九人が四九年、マニラの軍事法廷に「四十数人を殺害、一五人を食した」かどで起訴(一人は起訴前に病死)、BC級戦犯として裁かれた。一〇人に絞首刑、四人に終身刑、四人に無罪判決が言い渡されたが、その後特赦で減刑、五三年に全員帰国している。(略)
 自活自戦の場だったキタングラッド山
四四年一〇月、フィリピン戦線で日本の連合艦隊はレイテ沖海戦に敗れ、制海権・制空権を失った。同年一二月下旬、大本営はレイテ島の放棄を決定。それ以降「本土決戦に備えた時間稼ぎのため、フィリピンの日本軍は捨て石とされた」(。踏みにじられた南の島』NHK取材班編・角川書店)。
 四五年に入ると米軍はミンダナオ島の南と北から上陸を始め、日本軍は挟み撃ちにされた。現在中部地方に住む元第一五揚陸隊軍医(七五歳)が自費出版した手記によると、同年五月一〇日、カガヤン・デ・オロに駐留していた同隊の総勢三八〇人は撤退を間始、キタングラッド山中に逃げ込んだ。食糧の補給を断たれ、「自活白戦」を強いられた。飢餓とゲリラの襲撃で多くの兵士が死んでいった。また絶望的な状況に発狂したり、自決する者もいた。脱走しようとした兵士は敵前逃亡の罪で銃殺された。偵察機が頭上を飛び、日本の敗戦を告げるビラをまいて行ったことがあった。しかし隊長は命令した。「『これは敵の策略である。決して投降などしてはならぬ。皇軍は決して敗れない。あくまで聖戦を続けよ。やがて大部隊がやってきて我々を迎えに来る。』我々は半ば信じて、その時を待った」。そういう中で、この事件は起こった。私はサレさんの家に厄介になり、奥地の村々を訪ね歩いた。以下取材したものの中から三つのケースとサレさんの証言を紹介する。
 証言1ニカノール・サレさん(44歳)
 一九四五年の九月から一二月の間のある日の早朝、コンチャさんら親子七人はカモテ(薩摩芋)やバナナなどの食糧をさがしに行くために家を出、午前六時頃スミラオ郡スミラオ村から南東へ一〇キロほどの地点にさしかかった。突然七人の日本兵が現われ、親子七人は捕えられ、近くの廃屋に連行された。
 日本兵はフィリピン軍を欝戒するためなのか、廃屋の竹の壁を壊し始めた。父親のユーレテリオ(当時四〇歳)だけは廃屋の柱に縛られたが、残りの六人は一か所に集められた。
 一人の日本兵が、庭のコゴン革を一本引き抜き、七つの違う長さにちぎった。それを全員が一本ずっ引いた。一番長いのを引いた兵士は軍手をはめた。最も短いのを引いた兵士は監視役になった。コンチャさんの兄のレオポルド(当時一八歳)が、地元の言葉でアンボンと呼ばれる竹籠のようなしょいこをしょわされ、六人の日本兵と一緒に山の方へ連れられて行った。日本兵は英語で「カモテを取りに行く」と言った。五〇メートルくらい行った時、レオポルトが「タイ(お父さん)!」と絶叫した。
 それから一時間ほとして六人の兵士は帰ってきた。レオポルトは帰ってこなかった。一人の兵士がレオポルトがしょわされていたアンボンをしょっていた。アンボンは肉で一杯だった。見覚えのあるレオポルドの胸、すね、ももなどが見えた。
 それから日本兵達は壊した廃屋の竹の壁を使って焚火を起こした。肉を日本兵全員に均等に分配し、各自がそれぞれの肉を焚火にくべて焼いた。ガビ(里芋)も一緒に焼いた。三〇分くらいで焼き終えると、バナナの葉を皿代わりに食べ始めた。彼らは箸を持っていた。鉄製のコップも持っていて、水を飲み、談笑しながら食べていた。父は、日本兵に今まで人肉を食ったことがあるのかと聞いた。日本兵は「イエス」と答えた。一時間くらいで食べ終わると一人を見張りにし、日本兵達は昼寝を始めた。数時間後、昼寝から日覚めると日本兵達は父を連れてどこかへ去った。コンチャさんらはインパソゴン村の親戚の家へ逃げた。
 七日後、父親は脱出に成功、インパソゴン村で家族と再会できた。日本兵のキャンプに運行され、柱に縛りつけられていたが縄をこすり切り、隙を見て脱出した。父親によると、日本兵達は食べ残した人肉を干して乾燥肉にしていたということだった。(略)
 発足した「ブキドノン悲嘆者同盟」
 最近サレさんや地元の弁護士が行なった聞き取り調査では、八九人が人肉食の犠牲者とされている。私はそのほとんどの証人に会って話をきいたが、八九人という数字はかなり信憑性の高いものだと感じた。
 裁判記録によると、起訴された一八人のうちほぼ全員が人肉食の事実を認めている。沖縄県に住む元兵士(七四歳)の供述では、一週間に一回は人肉を食べだとされている。中には現地のヒガオノン族だけではなく、病死したり、脱走罪で銃殺された日本兵の死体を食べた供述も見られる。人肉に手をつけた理由として、先に紹介した手記を著わした元軍医は、供述書の中で食糧不足による栄餐失調と並んで塩の不足を挙げている。元兵士達の供述には塩を求めて民家を襲った事が何度も出てくる。人体に
は約〇・七パーセントの塩分が含まれていると言う。(略)
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ながお としひこ 一九五七年東京都生まれ ルポライター 著書に「市民と自民の真中で(第三書館)」
(引用終わり、全文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります)
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再訪 中国の旅 平頂山、万人坑 本多勝一 週刊金曜日1995.8

hone1-2.jpghone2.jpg週刊金曜日1995.7.14 第82号より引用。
再訪中国の旅1
P9盧溝橋
(略)中国を私が初めてたずねた二四年前(一九七一年)にはここに特別なものはなかったが、八年前(一九八七年)に「中国人民抗日戦争記念館」が完成した。(略)
P11-裏庭には別棟の展示場がいくつもあり、ハルビンでの当時「世界最大の人体実験場」だった七三一部隊をはじめ、細菌爆弾の実験、拷問のための刑具などが、写真や実物で示される。ペスト菌班・結核菌班・冷凍実験班・媒介昆虫培養班・ネズミ増殖貯蔵班をどの分担も、そのリーダーの実名とともに表示されている。人体実験・細菌実験などは七三一部隊だけでなく、藩陽の。満州医科大学」の例はすでに。中国の旅』で紹介したが、そのほか長春の「満州一〇〇部隊」とか北京の「北支甲一八五五部隊」、南京の二六四四部隊」、奉天(港陽)の「五一六毒ガス部隊」など何か所にもあったことが図表で明らかにされている。(略)
P12平頂山
今回ぜひ再訪したかったひとつに、撫順郊外の平頂山がある。一九三二年(昭和1)にここで起こされた無差別虐殺事件については『中国の旅』で報告したとおりだが、二四年前には現場がまだ発掘されていなかったので、道路ぎわの土を手で少し掘ると人骨がたくさん出てきた。のちに発掘されて記念館ができ、日本人旅行者で見てきた人も少なくないので、機会があれば再訪したいと思っていた。(略)

週刊金曜日1995.7.21 第83号
P38 再訪中国の旅2
平頂山
 いまから六三年前(1932年)の平頂山虐殺事件について、生還者の一人、李偑珍さん(八六)が語った体験は次の通りである。
 李さんの実家は平項山にあるので、夫の一家とともに実家に逃げこんだ。食事にしようとしたところへ、日本兵が現れた。外に出てみると、兵隊たちがいっぱいだ。住民を次々と退いたてている。李さんたちも、銃剣をかまえた日本兵らが両側に立つなかを、村の西側にある丘のふもとへと歩かされた。逃げようとして射殺される者もいた。
 集められた群衆のうち、李さんがいたのほぼまんなかあたりだった。住民のなかに朝鮮系の民族もいたらしく、それを呼びだすような声を聞いた。機関銃の一斉射撃が開始されたのは、それからまもなくだった。わきおこる阿鼻叫喚のなか、李さんはひざまずくような姿勢ですわらされていた。機関銃弾が左肩に命中する。前の人の上に倒れる。動頴していて痛みもわからない。
P39 機関銃掃射が終ると、日本兵たちが銃剣をもって死体の山を調べにかかった。生存者を刺し殺して歩く。八歳になる姪が李さんを呼ぶ声。二、三人へだてているので姿がみえぬ。「たまってうつぶせになりなー・」と李さんが答え終わらぬうちに、姪は絶叫とともに刺殺された。その直後に李さんも刺された。うつぶせの姿勢で右脇腹をやられた。そのまま意識を失ってしまった。
 何時間くらいすぎたがわからないが、気がついたときは深夜だった。霧雨ぎみの天気は晴れて丸い月が出ている。たぶん午前二時ころと思われた。肩と脇腹の重傷で血まみれの李さんは、天に助けを求めて祈ったが、かなえられる徴侯は何もなかった。
夜があげると、血だらけで身重の李さんは、なんとか立ちあがっ現場を脱出し、近くの村の農家に助けをもとめた。(略)このとき殺された李さん一家は次の三人である。父(李従文士=ハ二)・夫/(周徳忠=二七)・夫の弟(二三)・長兄(四一、二)・その妻(四〇?)・その長男(一七)・その妻一九)・その次男(一三?)・その長女(二カ月?)・次兄の長女(八)三兄の妻(二三)・その長男(五)・その次男(三)
兄は李さんを撫順の病院につれていったが、満室で入院できず、瀋陽まで行って手術を、うけた。しかし肩の銃弾はとりだせないまま現在にいたっている。
(略)血まみれの死体ばかりで見つからぬ。死体には赤ん坊や妊婦もあって、なんとも形容できない惨状だった。楊少年より小さな子どもが、這いずりまわって親をさがしている。(略)
(注)平項山以外の村の情況についてはあがらぬことが多い。たとえば曽おばさんの海も(朝日新聞社朝日ジャーナル臨時増刊号』・一九九二年)の読者・班忠義氏の父母も、隣りの千金堡にいて危うく難をのがれている。班氏はこの記録で、この無差別虐殺の指揮責任者とみられる井上清一中尉が、処罰どころか金鵄勲章をもらっていることに強い衝撃をうけている。また澤地久枝氏の『昭和史のおんな』(文芸春秋一九八〇年)は「井上中尉夫人『死の餞別』の章でこの井上中尉についてかなりくわしくふれている。その後『追跡・平頂山事件』(田辺敏雄・図書出版社・一九八八年)という本が出たが、これは当時の守備隊長K大尉の類(娘婿)にあたる筆者のせいか、侵略とか無差別虐殺などについて一切の反省のない立場から書き、虐殺者数を四〇〇〜八〇〇と過小評価している。これを批判する立場から書かれた本に『平頂山事件』(石上正夫・青木書店・一九九一年)がある。
さらに、右の班忠義氏の記録でも引用されている『リポート「撫順」一九三二」(撫順問題調査班=文責・小林実=都立書房一九八二年)もこの事件を追っている。

週刊金曜日1995.7.28 第84号より引用。
再訪中国の旅3
撫順
 二四年前の『中国の旅』の取材旅行中、撫順市で初めて「万人坑」という言葉をきいた。以来東北地方ではよくきくことになる。要するにこれは、死体をたくさん捨てた所を意味し、数百人であれ何千人であれ、象徴的な数として「万人」とよばれるのであった。正式な墓に埋葬されるのではなく、適当な場所にゴミ捨て場のようにして人間の死体が遺棄されることだ。したがって炭鉱だの大規模工事現場だの、危険な重労働をともなうところの周辺に多い。そうした現場で働く労働者には、強制連行者や囚人として、あるいは遠方からの出かせぎとして来ている例がほとんどなので、死んでもいいかげんに扱われやすかった。
そのような〝ヒト捨て場〝としての万人坑が、撫順には大小三〇カ所もできたと、二四年前に革命委員会の孫徳驊氏は言った。あのときの話では、日本占領の四〇年間に二五万〜三〇万人の中国人労働者が使い殺されたとのことだから、もしその死体が三〇カ所の万人抗に捨てられたとすれば、平均はまさに一カ所一万人ちかいことになるだろう。けたはずれに古い歴史と、けたはずれの広さと、けたはずれの人口をもつ中国には、日本では想像もおよばぬことがあるとはいえ、三〇カ所の万人抗はいかにも多すぎるような、あくまで「感じ」としてそんな気がする。本当だろうか。
実際、撫順にいた日本人たちの団体「撫順会」は、こうした万人坑の存在に全く否定的である。それに「…また一部は家や工場建築の邪魔になるために除去されましたから、全部は残っておりません」とあのとき孫氏は語ったものの、「全部」といわず一カ所くらい実物があってもよさそうなものではないか。(略)
P41 ところが、撫順市社会科学研究院の趙立静氏によれば、やはり万人坑は大小三〇カ所以上、正確には三三カ所にあったという。小は三桁(何百人)から大は「万」にいたるまで確実にあったと。それに「万人坑」という言葉は戦後にできたので、戦前の日本人が聞かないのも当然だというのである。そして趙立静氏は万人坑の実態をつぎのように語った。万人坑に捨てられる労働者は、およそ三つの場合が多かった。
①炭坑で負傷したりして廃人同様になった者。
②伝染病などによる死亡者。
③大部屋のひどい生活環境と悪い食事のため、栄養失調などで衰弱しきった者
 撫順には八つの炭鉱かあって、それぞれで毎日のように死者が出たので、それに応じた大型万人坑も八カ所はあり、それは断じて「墓」ではないという。墓は別にあると。そして各炭鉱には「死人把頭」とよばれる雇われ中国人がいて、これはいわば死人を捨てるための管理係りであった。(略)
P42 万人坑はヒト捨て場だから、そのための建築物や設備の類があるわけではもちろんない。ときにはまだ絶命していない廃人も捨てられたし、死体を食う犬もたくさんいた。、解放戦争(国共内戦)まではこのあたりに民家も何もなく、人骨が折りかさなっていた。その後この丘の上に工場や住居ができるようになり、平らに整地されったが、その作業のときも人骨がたくさん出てきた。(略)

週刊金曜日1995.8.4 第85号より引用。
再訪中国の旅4
P40 『中国の旅』で紹介した写真は虎石溝万人坑である。ぺつに”観光ルート”として開放されているわけではない。それに中国にはよくあることだが、政府の政策によっても開放したり閉めたりする。たとえば「日中友好」を強調するときには、こうした日本による侵略を訴える記念物をあまり開放しなくなる。現在も日本人旅行者に自由に見せてはいない。
 虎石溝万人抗は、二四年前と基本的には変らなかった。基本的には」と表現したのは、骸骨の累々たる光景そのものや、それぞれの位置などはむろんそのままだからである。しかし、これは仕方のないことなのであろうが、人骨の風化が明らかに進んでいる。平項山のように何らかの措置をしなければ、いずれは消滅の運命にある。条件にもよるが、土中にあるほうが風化がおそいのが普通だ。したがって二四年前よりも「生々しさ」が消え、それだけ〞霊気〞のようなものが少なくなって、変な言いかただが「迫力」も減少しているかにみえる。洪水の被害にあったというのもわざわいしている。ともかく個別によく観察してみよう。針金でしばられた遺体とか、二人がつながれていたらしい例、ひとつの箱(棺?)に複数の遺体が入れられている例など、墓地と強弁するにはあまりにも無理がある。また、骸骨が何重もの層をなしている部分をよくみると、これは意外に短期間の「層」らしい。石器とか化石が出土した場合には、出土層とそれより上の層の問に相当期間の差が認められるものだが、ここではそうした違いがほとんどないようだ。ということは、骸骨が埋まっている層が厚くても、それを埋めている土は人工的な力にょるか、自然としても洪水などによる比較的新しい堆積かもしれなともあれ再検証の結果は、これが墓地だなどということは到底できないと考える。(略)
ーーー(引用終わり、全文はこちら。再訪2再訪3再訪4<ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります。)

中国側と三菱マテリアル 強制連行3700人超 和解へ

img362.jpgimg363.jpg東京新聞2015.7.24
対象者は計3765人と日本企業による戦後補償として過去最多。補償総額80億規模。日本の最高裁が賠償請求を認めなかった中国人被害者に対して、日本企業側が自主的に謝罪し、包括的な金銭補償に踏み切るのは初めて。
右、韓国でも、三菱重工業など日本企業を相手に元徴用工が損害賠償を求めて訴訟を相次いで起こしているが、六五年の日韓請求権協定で韓国人の個人請求権は消滅したとする日本政府の見解に基づき、請求に応じない立場を示している(共同・辰巳知二)
ーー
上、共同通信のスクープだそうだ。
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東京新聞2015.6.25
韓国の女子挺身隊賠償訴訟光州高裁 三菱重工敗訴
太平洋戦争中、朝鮮女子勤労挺身隊員として三菱重工業の軍需工場(名古屋市南区)に徴用された韓国人女性や遺族ら五人が、同社に慰謝料などを求めた訴訟の控訴審で、光州高裁は二十四日、一審と同様に、同社に対して賠償を命じる判決を言い渡した。(引用終わり)
ーー
朝鮮人強制連行者は膨大な人数で賠償額もけた違い。65年の日韓条約を言い訳に個人補償を認めないが、傍目からは民族差別に見える。日本政府は中国も含め一切の個人賠償を認めない。五輪競技場や自衛隊への軍事費への浪費分を回せば、どれだけ東アジア周辺国への平和外交につながることかと考える。きな臭い、米国追従で冷戦思考の安倍には馬の耳に念仏か。

「慰安婦」展 新座市が一度拒否 8月開催へ 

東京新聞2015.6.30 埼玉県新座市の市民団体「にいざジェンダー平等ネットワーク」が「慰安婦」をテーマにした中学生向けのパネル展を市施設のロビーで開催しようとしたところ、市教育委員会が拒否した問題で、別施設の「市生涯学習センター」で八月にパネル展を開催することを市が許可したことが二十九日、分かった。
教育施設は「不許可にできない」

自治会集会所が選挙事務所 東京都府中市

img349.jpg2015.6.22東京新聞 特定候補の利用疑問 基準なく手続き透明化を 
四月の市議選の最中には建物を取り巻くように安倍晋三首相の写真入りのポスターが張り巡らされた。自民党現職候補(40)の選挙事務所だったからだ。
各地で散見されるのは間違いないようだ。(引用終わり)
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市民運動の後援、俳句の掲載は政治的でだめなのに、公民館の使用はなぜ自民党ならOKなのか。自民党に媚びているとしか思えない。

9条俳句作者が提訴へ 埼玉

img351.jpg 左 東京新聞2015.6.11九条俳句拒否から1年 正念場
平和思う自由を さいたまで市民集会 「九条俳句はなぜ排除されたのか・それは政治性と無関係ではない」
「ものが言いにくい社会であることは間違いないが、弱い立場で表現者を、公的機関が守らなくてどうするのか」と訴えた。
平和とは自由に何でも発言できることだ。
右 2015.6.23 東京新聞 「九条俳句」提訴へ 公民館使用拒否違法判決も 弁護団司法判断に期待

img350.jpgimg352.jpg左2015.6.23東京新聞1面「梅雨空に・・」作者が提訴へ俳句なかったことにされるのは許せない 「表現者の自由侵害」さいたま市に掲載求め 「見過ごしてはいけない」決断
「私はどこにでもいる普通の主婦。思ったことを発言するくらい当然の自由と思っていた。けれど、そうではなかった。」
右2015.6.26東京新聞 「表現の自由のために」 「俳句の中身に立ち入って『ダメだ』と言うのは許せない」

宮古島に慰安婦悼む像 読谷村に朝鮮人「軍夫」像

東京新聞2015.6.21
沖縄戦の痛み共感 だから寄り添える
アリラン碑(宮古島
沖縄の女性史家らの調べでは、県内の慰安所は延べ百四十カ所以上と推定される。人数は確定できないが、証言や陣中日誌によると、朝鮮半島出身者が多かった。沖縄の女性も慰安婦にさせられた。

読谷村 恨の碑
侵略の加害性隠せぬ 反戦平和の魂残したい
辺野古建設強行 悲しい

加害に向き合わぬ日本 朝鮮半島出身者が強制徴用されたとみられる産業革命遺産7施設

東京新聞 2015.5.20
産業革命施設 世界遺産勧告に勧告反発 強制徴用 説明ごく一部
朝鮮人労働者 壁に「天は見捨てない」
観光業者「楽しい旅行にそぐわない」
「隣国の痛みや悲しみ伝えるべき」
朝鮮半島出身者が強制徴用されたとみられる7施設
 ・三井三池炭鉱、三池港(福岡県大牟田市、熊本県荒尾市)
 ・官営八幡製鉄所
 ・三菱長崎造船所
 ・端島炭鉱(通称軍艦島)
 ・高島炭鉱

9条守れ青空にこだま 横浜3万人集会 

東京新聞2015.5.4
戦争する国になったら後悔 大勢の人で埋め尽くされた憲法集会の会場 横浜市西区の臨海パークで
首相の「わが軍」9条で迎え討つ

練馬区教委 後援断る2015.5.2東京新聞

「九条の会」共催上映会
「知事選で政治活動」
護憲団体の催しをめぐる自治体の後援拒否の動き
2014年 千葉市、長野県千曲市、神戸市、鳥取市、栃木県佐野市
2015年 調布市、東京都練馬区

img343.jpg神戸市の後援拒否 政治的と批判 護憲派市民団体が集会 2015.5.3東京新聞

群馬 朝鮮人追悼碑 不許可訴訟初弁論 2015.2.5東京新聞 ほか

img331.jpg左、撤去反対請願を不採択 朝鮮人追悼碑問題で県会常任委2014.12.9東京新聞、 右 不許可訴訟初弁論「県は表現の自由無視」市民団体側「堂々と憲法議論を」2015.2.5東京新聞
img332.jpgimg333.jpg左、原告「公園は意見述べる場」2015.5.14東京新聞
朝鮮人追悼碑 都は設置条件付けず 都によると、設置許可を出した際、県内の碑のように「政治的な行事をしない」という条件は付けなかった。追悼集会には毎年、都知事や墨田区長が式辞を寄せている。都の公園課は「公園内も表現の自由が基本的にあり、追悼集会で政治的な発言があっても問題はない」との見解を示す。2015.6.11東京新聞
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ためていた記事あっぷ。地域、時代により行政の見解が異なってよいのだろうか。

間違いだらけの「中国脅威論」 田岡俊次 週刊金曜日2008.1.11号

週刊金曜日685号 P18か~19より引用。
無知からか、あるいは意図的にか、ここ数年タカ派ならぬ「パカ派」が論じている「中国の脅威」は、国際常識と軍事的視点から見てこっけいだ。しかし自衛隊も悪乗りして、予算獲得の名目にしている。
田岡俊次
終戦しばらくブラジルの日系人に、「勝ち組」と呼ばれる人々がいた。第二次世界大戦が終わってもまだ「日本が米国に負けるはずがない、戦争は続いている」と信じ、敗北の事実を認めるべきだとする「負け姐」との問に対立抗争事件まで起きた。現在冷戦がとっくに終わったにもかかわらず、いまだに「中国脅威論」や新冷戦説を唱えている論者たちは、現実を見ることを拒否し、冷戦型思考から脱却できないという点で、「勝ち組」に似ている。
 彼らのおかしさは、いまだに「中国は共産主義だ」と思い込んでいる点にある。中国は憲法を改正して私有財産保護をうたい、上海と深センには証券取引所がある。実態は「共産主義」どころか、露骨な資本主義だ。その結果腐敗が蔓延したため、是正するためにかつて批判された儒教が奨励されている。中国政府が日、米、西欧、アジアの大学と連携し、五四カ国に一五六校も開いている中国文化センターは、「孔子学院」と名付けている。江沢民前国家主席は、一九九九年に孔子廟に参拝している。こんな「共産主義」があるのか。
冷戦期には、米国を中心とした西側と、旧ソ連や東欧の東側が対立したが、有力資本主義国の一つとなった中国が米国と対立しているのか。中国には米国から進出した企業が二万二〇〇〇社あり、中国の対米貿易黒字の大半はそれが貢献している。また中国は日本に次ぐ米国債の保有国で、五〇兆円以上ある。保有している一兆三〇〇〇億ドル以上もの外貨は、ゴールドマン・サックスやメリルリンチといったウォールストリートの巨大金融横関に運用を任し、米国側にとっては最大の顧客だ。
 米国の軍事企業の中核を占める航空横産業を見ると、中国はボーイングの旅客機を年一五〇機も買っている。ウォールマートをはじめとする巨大流通産業は、安価な中国製品に支えられている。米国経済の主流である金融も軍需産業も流通も、中国と極めて密接な関係にあるのた。さらに中国からエリート大学生を中心に年二〇万人も米国に留学し、工科の博士号を取るのか二〇〇〇人以上いる。しかもその多くが帰国せず米国の企業に就職しているから、錯局ヒト・モノ・カネで中国は米国を支えていると言っていい。
 一方、中国にしてみれば、輸出依存度が三七%と日本に比べて二・五倍以上高く、輸出総額の二一・四%を占める米国の巨大な市場に頼らざるをえない。いまや米中は共存共栄関係にあり、軍の関係にも反映している。両国の海軍は、初歩的レベルだが共同軍事演習もやっている。米太平洋軍司令官のティモシー・キーティング海軍大将は、二〇〇七年五月に訪中した際、「中国が空母を保有しようとするのは当然。できるだけお手伝いをしたい」とまで発言している。
 六者協議でも、米国は議長国の役割を中国に委ねた。アジアの盟主として中国を認めたに等しく、対立関係にあるなら米国は決してそのようなことはしない。ところが日本はいまだ冷戦思考のままで「日米韓が連携し北朝鮮に圧力をかける」といった構図にとらわれ、孤立化して失敗したのは記憶に新しい。
 米中は台湾の現状維持でー致 
米国は当然ながら、台湾問題で中国と事を荒立てたくはない。そのため、台湾の陳水ヘン総統のように民族主義的発言をしたり、「独立」を口にして中国との関係を悪化させるのは迷惑この上ない。中国をとるか、台湾をとるかという選択を迫られるのは避けたい。
 台湾では、中台関係について「現状維持」を望む世論が八割以上で圧倒的だ。「独立」派や国民党の一部のような「統一派は、少数派に過ぎない。中国も一見勇ましいことを言うが、〇五年三月に制定された「反国家分裂法」をよく読むと、「これ以上何かやると許さん」と言っているだけで、本質は現状維持法だ。米国は台湾について中国と利害が一致しているから、陳水ヘンに対してば厳しいスタンスで
臨み、「独立」めいた動きに対して北京より激しい非難声明を出す。今や中国にすり寄る「媚中・叩頭外交」を最も展開しているのは、米国ではないかと思うほどだ。
 ところが日本には、「中国は台湾侵攻を狙っている」「米国と共に台湾を守ろう」などと主張している論者が大勢いる。そもそも、経済発展を第一の目標とする中国が、いったい何の益あって台湾を制圧するのか。台湾の最大の投資相手国はもちろん中国で、七一%を占める。二〇〇万人もの台湾人が大陸で企業経営や技術指導を担っている。侵攻など企てればそうした貴重な経済関係や生産設備を互いにダメにし、さらには華僑や外国資本の逃避も始まる。これまでの経済成長が一挙に無となろう。
 しかも、軍事的に侵攻はまず無理だ。台湾は現役だけで三〇万人の兵力を有し、予備役を動員すれば軽く六〇万人を超える。すると攻める側の中国側は最低で六〇万人以上を台湾海峡を越えて送り込まなければならない。「史上最大の作戦」と呼ばれるノルマンジー上陸作戦でも、上陸したのは一七万人だ。中国の揚陸能力は、二万〜三万人。六〇万人の兵力を送る上陸作戦は、途方もない話だ。当面は、近代的軍事能力の差から制空権も制海権も握れまい。仮に海上封鎖のような行動に出たら、現在は海運が多国籍化しているので世界中を敵に回す結果になる。
 よく指摘されるのが「中国の軍事費の急増」だが、どの国でも経済のパイが膨れれば財政規模も、軍事費も伸びる。中国の軍事費の伸びは、高度成長期の日本の伸びより若干低い程度だ。「急増」なら、九〇年代の台湾の方がもっとすごかった。約一〇年間で新型の戦闘機を三四〇機買ったため、訓練、整備に支障をきたしたほどだった。
 予算目当てで浮上した「島蝶防衛」 よく「中国海軍の脅威」も語られているが、〇七年一一月に東京湾に「友好訪問」した中国駆逐艦・深センに乗船してみて驚いた。日米は太平洋戦争中に火災で多くの艦を失った経験から、艦内から極力可燃物を排除する。ところが深センは、可燃物だらけなのだ。部屋のドアは木製で、廊下や下士官室にはアクリルのカーペットが敷いてある。テーブルなど家具も木製で、すべて金属製の日、米の艦とは大違いだ。中国は、一八九四年の日清戦争の黄海海戦以降、本格的海戦の経験がない。こうした笑いたくなるような海軍が、「日本を軍事挑発」するだの、「米海軍に挑戟」しているなどといった昨今の論議は、海軍に関する無知から来る。だが近年、陸上自衛隊が「島摸防衛」と称し、明らかに中国海軍を念頭に「西南諸島が占拠される」といった事態を想定している。中国が台湾に侵攻するにも力不足なのに、わざわざ日本の離島を攻撃し、日、米を敵に回すことがあろうか。
 自衛隊のレンジャー(特殊部隊)でもハワイあたりの小島を米国の油断を突いて一時的に取ることは可能かも知れないが、制制海権も制空権も欠いていれば、その後どう維持するのか。だが、笑い話ではすまない。「島嶼防衛」用にC130輸送横を改造し空中給油装置を取り付け、ヘリコプターにも受油装置を付ける予算がつけられた。
 陸上自衛隊は作戦計画を毎年作るが、冷戦が終わって「脅威」がなくなり、困っていた。作戦計画を基に装備を開発したり、部隊を摘成する。作戦計画を作るには、敵を決めなくてはならない。敵を必死で何とか探さなくてはならない。それで旧ソ連の後任に中国が登場した形だが、軍事的にはまったくナンセンス、政治的、経済的には国益上有害だ。中国の唯一の脅威は核ミサイルだが、六五年からある。それを知りつつ日本は国交を樹立し、核不拡散条約にも加入した。今になって騒いでも、どうにもならない。
 今後さらに世界は相互依存関係が深まり、米中はますます接近する。米軍のアジア離れも始まり、沖縄から第三海兵師団、韓国からは第八軍を撤退させる計画だ。二〇一二年までに米軍が韓国軍に有事の指揮権を返還するのも、「もう米軍は朝鮮半島では戦わない」ということを意味する。そんな時代に、わざわざ中国を「脅威」に仕立てるのは愚の骨頂だ。
(談)
ーー
たおか しゅんじ・軍事アナリスト。 (以上引用終わり)
ーー
安保論議が喧しい昨今、元AERAスタッフライターの田岡元帥のご高説もウォッチします。パッキンジャーナルも終わり、最近TVで見ないですね。

「戦争」というマスコミ用語にだまされてはならない

本多勝一集18ジャーナリストP98~104(朝日新聞社)より以下引用。
戦争に反対する。戦争が悪の根源である。戦争をなくそう。二度と戦争にならないように。息子を戦争に狩りだされまい……。
こういった表現が、いまの日本の良心的市民のあいだで、何の疑間もなく使われています。新聞の投書欄などでもこの種の表現が一般的です。けれども、実はこうした表現には重大なごまかしがあることをここで指摘したいと思います。こうしたごまかしの表現を、良心的市民が普通に使うようになってしまった主要な原因は、たぶんNHKをはじめとする大放送や大新聞による教育の〞成果〞に求めることができましょう。それではまず、その大新聞の一つから最近の社会面のトップ記事を、実例として以下に全文引用いたします。
 失ったもの。本名と両親と、ふるさと、そして中国語。
 得たもの。日本人の妻と子と日本語、そして平和の尊さ。
中国人、光俊明さん、三十六歳。彼の人生ドラマの演出者は、人間が生み出した最大の怪物、戦争である。この人生ドラマが、本物のドラマになる。東宝が、岡本喜八監督を起用して、近く映画化することが決った。
 七歳の捕虜
今は、神戸の貢易商社員として平凡な生活を続ける光さんは、こういう。「平々凡々な生活の方がどんなにいいか。単なる戦争ドラマには、してもらいたくないなあ」
昭和十八年六月、日本軍の第三十七(光)師団は、中国・河南省大爺廟で、約五百人の中国兵を捕虜にした。その中に、自分の名前もよくわからない、七歳の少年がいた。光少年である。父母と別れ、戦乱の中で学校教育を受けるため、中国軍の将校に預けられていた。
「日本軍のおそろしさを、いっぱい聞かされ、また実際に見てきているので、(中略)日本軍の中にいっしょにいるのが不安でならなかったのです」(ニトリア書房刊『七歳の捕虞』から)
光師団は九州出身者で編成されていた。勇猛ではあったが、素朴な人情にもあふれていた。
「七つか。オレの子どもと、あまり変らないなあ」兵隊たちから、オニのようにこわがられている下士官たちが、とりわけ少年を可愛がった。中国人がつけたという俊明の名をとって「トシ坊」の愛称がつけられた。慰問品のおもちゃをもらったり、日本語を教えてもらったり。いじっぱりなトシ坊の警戒心は、日本兵たちとの交流の中で徐々に和らいでゆく。
 南下軍
日本軍のマスコットになったトシ坊はやがて、南下する部隊と行動を共にする。戦場の兵士たちにとって、父母の愛に飢えた一人ぼっちの少年の存在は、人間らしさ、を取戻す心の糧でもあったのだろう。「日本軍を頼って生きてゆくよりほかしかたがないと考えたのです。彼らも果てしなく続いている戦争とともに歩いて行く兵隊でしたから、安心できる頼り場所とはいえないのですが…」(同書) 南京、武邑、桂林、ハノイ…。ある時は米軍機に襲われながら、ある時は、病魔にとりつかれながら行軍と駐屯を繰返した。サイゴンで終戦を迎え、パンコク郊外の収容所で英軍の捕虜としての生活を終えるまで、丸三年。七千キロの長い旅は終る。
 旧兵士
引揚げが決った時、「トシ坊」は十歳になっていた。連合国への引渡しを泣いてこばんだ。迎えにきた中国兵をまいて、ジャングルの中に逃げこんだりもする。加地正隆陸軍医が養父を買って出た。師団司令部の再三の交渉で、英軍当局もついに「トシ坊」の日本渡航を許可する。そして引揚げ-。
 熊本市の加地さんの実家に引きとられ、師団の別名「光」がそのままトシ坊の姓になった。彼の戦後は穏やかな日々の積重ねであった。一家や周辺の人たちの愛に包まれて、小、中、高校と進学した。昭和三十四年には、地元の熊本帝大を卒業する。
 昭和四十四年、いまは消防署に勤める辻伍長の世話で、吉田範子さん(二六)と結婚した。阿久根曹長(鹿児島)、石川上等兵(大分)、宮浦上等兵(宮崎)らもかけつけた。新婚旅行は九州南部へ。旧兵士たちが、車で次々とリレーした。一円もかからないハネムーンであった。“その代り、二人だけの時間なんて、全然なかっったです」
 映画化を決めた東宝映画のプロデューサー、馬場和夫さんはいう。「中途半端に扱うと、中国ブームに便乗しただけの上すべりなものになる。あんな侵略戦争を起し、残虐行為を働いたのも人間だし、こういうドラマを生むのも人間です。人間とはいったい何か、深く考えさせるような映画にしたいと思う」
光さんに昨年、長女の美也子ちゃんが生れた。残る夢は、もう一度、中国の土を踏んで、父母に再会することである。「父は兵隊にとられたからとっくの昔に死んでるかもしれませんねえ。母は、きっと生きてます。顔もだいたい覚えてるような気がするんです」
(『朝日新聞」“一九七二年一月一五日)
 右のような記事について、一般的日本人は、あまり違和感を覚えなくなってしまいました。しかし、これを「全くふざけた記事だ」と怒り、東宝に対して、このような視点での映画製作に抗議している人々もあるのです。
その声をきいてみましょう。以下は発表されなかった私の記事として読んで下さい (まえがき省酪)。
 中国帰還者連絡会(正統)事務局長の塚越正男さん(溶接加工)は、まず「すべては〝戦争〞が悪かった」とする立場を、侵略者の考え方として批判する。-「なにもかも『戦争』のせいにするんだったら‥ベトナムに侵略した米軍に対して抵抗する解放勢力の戦いも、侵略軍の戦争と同列に『悪い』ことになってしまうじゃありませんか。悪いのはあくまで『侵略』であり、『帝国主義』『軍国主義』であって、その結果としての『戦争』という現象を悪いというのは、本質をはぐらかすケンカ両成敗的な侵略者側の発想ですよ」と指摘する。
 そして、光俊明さんのような子供が日本軍について歩いた例は、「皇軍による恐るべき残酷な作戦としていくらでもあったことだ」と、塚越さんのほか同会の鵜野晋太郎さん(新日本通商)や小林栄治さん(機械振興協会技術研究所)らは、自分たちの作戦体験から次のように語った。
-中国にいた日本軍が、いわゆる「警備態勢」から「作戦」なり「討伐」なりに移るときは、まず駐屯地付近の村のひとつを急襲し、農民を強制連行してくる。行動開始は夜が多い。目的地をひそかに急襲するため、とくに豪雨の夜などが好まれる。このとき弾薬運びや糧秣運びに使われるのが、狩り集めておいた農民だ。猛烈な「皇軍」の「行軍」に、重荷をかついでついていかされる農民たち。兵隊は訓練でなれた〝プロ〃だが、農民はこんな行軍など〝アマ〞だし、重い荷をかついでいる。一夜でその顔には死相が現れた。
 そのような村人たちの小さな子供が、親から離れじとついてくる。作戦のどさくさが終わるころ、馬よりひどく扱われた死相の人々は、まず半分以上が死んだり殺されたりしている。孤児になった幼児が残る。
 作戦地へ往復する途中の村々が、また悲惨だ。豪雨でサルマタまでぬれた兵隊は、十分か十五分の小休止があると、近くの農家へ手当たり次第にとびこむ。農民を外へ追い出すと、そこいらにあるイスなどの家具を集めて火をつける。ぐしょぬれの服は、猛火でたちまち乾く。上官は「おいおい、手りゅう弾が火で爆発せんよう気をつけろよ」などといっている。歩きだすとまたぐしょぬれ。小休止でまた農家の家具。貧乏な農民にとっては、宝のように大切な家具が、次々とタキモノにされる。
 こうして襲った目的地が「敵性地区」*であれば、村人はさらわれて、行くときの有事で死んだ村人や馬のかわりに、帰途の荷をかつがせられる。機関銃など四人でもブラフラするはど重い。ここでまた村の子供らは、連行される親にしがみつく。親たちは、生きては帰れないだろうことを知っているから、わが子に「村に残って待ちなさい」と叱るが、子供らは手をかたくつかんで離さない。そのまま拠点へとついてゆく。
 帰途の「行軍」は往路よりひどい。敵に退路で待ちぷせなどされないようにと、さらった村人に一番の近道を案内させる。夜道にゲリラがかくれられないようにと、途中の民家に片端から放火して、周囲をあかあかと照らす。「どうお家を燃さないで下さい、と手をあわせんばかりに拝みながら、そのかわりにとワラの束なんかを持ってくる農民たちの必死の顔が、今でもまぶたにうかびますよ。そんなものはしかし一切無視して、どんどん放火しましたが」と鵜野さんはみずからの体験を涙ぐみながら語る。
-こうして日本軍の駐屯地まで帰ると、馬がわりに連行してきた村人は、たいてい「秘密保持のため」として殺された。また孤児ができる。これは兵隊たちが個人のドレイのように連れて歩いた。ハンゴウなどを持たせたり、水くみなど雑用に使ったり、ペットみたいな感覚のマスコットにしたり。だから「太郎」「花子」ときには「ポチ」などという名がつけられた。
「中国に行った日本人戦争経験者なら、そんなこと常識ですよ。涙もかればてて、おそろしい日本兵の列の間を歩いている子供の姿は、今思うと泣けてきますよ。あの〝トシ坊〞などは、生き長らえただけ幸いだった珍しい例でしょう」と、塚越さんは語り、安易な姿勢の映画化に強い疑問を抱くのである。
 以上の〝記事〞を読んだ上で、冒頭にあげた実例の記事を考えてみましょう。たとえば「彼の人生ドラマの演出者は、人間が生み出した最大の怪物、戦争である」というような文章。果たして、そうでしょうか。
 いま私たちの目前で行われているベトナム戦争を例とします。ベトナムに五〇万の大軍を、はるばる太平洋を越えて送りこんだアメリカ合州国政府。タイや沖縄やグアムの基地、それに第七艦隊のたくさんの空母から、地球はじまって以来の大量の爆弾を、せまいベトナムに連日注ぎこんでいる合州国政府。これに対して、ひたすら自国民の解放勢力のみで、また、ひたすら「防衛」や「抵抗」の範囲のみで、延々と戦いつづげるベトナム。かつて一度たりとも、ベトナム側がアメリカ合州国を攻撃したことのなかったこの戦争。これはいったい何でしょうか。ベトナム人が毎日無差別虐殺をされているこの現象の「ドラマの演出者は、人間が生み出した最大の怪物、戦争である」のでしょうか。
 べつにむずかしい問題ではないと思うのです。やけくそ気味の右翼文化人は別として、この「ドラマ」の最大の原因は、合州国政府が太平洋をはるばる越えて、ベトナム侵略してきたことにある点は、もはや一般的日本人の常識に定着しています。強盗に押し入ったのは、合州国政府の側であって、ベトナムが合州国に強盗に出かけたのではない。ベトナムが強盗された側であることは疑問の余地があ。ません。そうであれば、その強盗と、された側との問で行われている格闘をみて「悪いのは格闘だ。ケンカが悪いのだ」と解説する馬鹿さかげんもまた、疑問の余地がありません。悪いのは、「格闘」自体ではない。強盗に押し入った行為が悪いのであり、強盗自身が悪いのです。強盗の側が一方的に悪い。強盗にはいられた側の抵抗は、一〇〇パーセント正しい。
 では「悪いのは敢争だ」とする思考法は、どういう結果をもたらすか。これは「悪いのは格闘だ。ケンカが悪いのだ」という馬鹿さかげんと全く同じことになります。ます。すなわち、悪いのはアメリカ合州国政府でもなく、帝国主義でもなく、侵略でもない。「戦争」が悪いのだ。「人間が生み出した最大の怪物、戦争」にこそ、悪の根源があるのだ。だから、悪の根源は、憲でもなく、帝国主義でもなく、軍国主義でもなく、アメリカ合州国政府でもない。だから、合州国政府代表のニクソンは、ホー=チ=ミンファン=バン=ドンと同じていどに悪く、従って同じていどに正しい。「戦争」さえよせばいいのだ。侵略はよさなくてもいいし、帝国主義や軍国主義もよさなくていい。従ってまた、ニクソンがモスクワで「ターニャ物語」を放送することも正しい。(余談ですが、戦争は「人間が生みだし最大の怪物」ではありません。昆虫界では、アリの社会が猛烈な残酷戦争をやります。)
 もはやこれ以上の説明は不要かと存じます。悪の根源を、侵略や、侵略の背景としての軍国主義や帝国主義に求めずに、「戦争」に求めるやりかたは、ニクソンをたいへん喜ばせることになる。大放送も大新聞も、今後このようなやりかたを続けてゆくでしょうが、私たちはこうした教育にうっかり乗せられないようにしたいものです。そのためには、侵略された側がどう考えるかといった視点を、常に持ちつづける努力を忘れないことだと思います。本書『戦争の不条理』は「戦争」を扱っていますから、ここに編集された各文章も、こうした視点をいつも投影させながら読めば、それが侵略する側の論理か、される側の論理かを見破るための、ひとつの指標となるかもしれません。
 悪の根源は、戦争ではありません。侵略であり、それをもたらす帝国主義社会体制の側にあります。帝国主義は、どうやら近頃では資本主義国だけにあるものではないようですが。
(三省堂「人間の発見シリーズ」第三巻『戦争の不条理』巻頭文から=一九七二年春・記)
ーー(以上、引用終わり)
安倍首相が70年談話で「侵略」の言葉を入れるかが話題になっているが、なぜ韓国、中国が注目するのか改めて理解した。

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