本多勝一 週刊金曜日 応援、侵略を考えるサイト

本多さんの新しい日刊紙の創刊を応援、侵略を考える。 平和憲法が危ない、改憲を阻止、警戒しよう。 あなたは戦争に行きたいですか。This site supports Honda Katuichi .

週刊金曜日とDAYSJAPANを応援するサイトです。九条を中心に日本国憲法を「改正」しよう
とするあらゆる団体に警鐘を鳴らし,日本国憲法を守るという1点で手をつないでいきましょう。
daysDAYS JAPAN 世界を視るフォトジャ-ナリズム雑誌
週刊金曜日tail週刊金曜日の紹介(既刊目次、久野収さん創刊の辞など) 週刊金曜日バックナンバー常備店
本多勝一さんの日刊新聞構想XY新聞
「タブー無き第四権力、新しい日刊新聞のために(日刊紙の詳細)、(前文
本多勝一XY新聞創刊実現掲示板 編集委員が語る週刊金曜日
2011.9.10週刊金曜日創刊18周年記念講演会(福島原発事故,本多勝一講演あり)
週刊金曜日創刊から現在までの歴史(2008.11.22大集会の冒頭映像)
本多勝一 動画(週刊金曜日創刊15周年大集会のあいさつ2008.11.22)
筑紫哲也の追悼ビデオ(2011.11.22大集会) 週刊金曜日講演会本多勝一「天才と秀才」(1994年頃)
貧困なる精神 自衛隊、旧日本軍の侵略行為(日中戦争、戦犯他)
南京大虐殺 従軍慰安婦 アメリカの侵略(ベトナム戦争など) 新聞研究地方紙、朝日など)その他、分類別は左欄のカテゴリを参照。 

本多勝一さんの提唱するXY新聞に共感しています。 応援いただける方は 本多勝一XY新聞創刊実現掲示板へ書き込みお願いします。
できることから動いていこうと思います。

平和の棚の会

img273.jpgimg274.jpgheiwa1.jpg
週刊金曜日の6月分に平和の棚の会のカタログが入っていた。安保法制、可決の物騒な世情で夏休みの読書リストに加えてみましょう。
https://twitter.com/heiwanotana
http://www.gaifu.co.jp/2013heiwanotana_all_items.htm
2015特選リストのリンクもブログに貼ってほしいですね。
リストで注目した本、NHKが危ない
籾井(安倍政権の手先)が占拠してNHKの劣化が激しい、なんとかしたいものだ。
ーー
「平和の棚の会」からのご挨拶
20の出版社が集まって「平和の棚の会」を設立したのは2008年です。その1年前に、東京・新宿のジュンク堂書店に画期的な棚が生まれていました。「反戦平和棚」です。こういう本の並べ方があるのかと出版社仲間で話題になり、約1年の検討・研究期間を経て、この会が発足しました。私たちが選書の基準にしているのは「積極的平和」という概念です。戦争がなければそれだけで平和なのか-という根源的な問いがその根底にあります。ノルウェーの国際政治学者ヨハン・ガルトゥングが提唱し、いまやノーベル平和賞や「気候変動に関する政府間パネル(HCC)」にも反映されている考え方です。それは、武器輸出を緩和し、平和憲法を改正しようとする安倍晋三首相が唱える「積極的平和主義」とは、まったく異なります。(略)
書店の店頭には多種多様な本が並んでいます。だからこそ、自分では気づかなかった本に出会えます。これはインターネットによる検索ではあり得ない、リアル書店の最大のメリットです。近代の知識はこうした書店店頭から生まれ、育ってきたと言っても、過言ではありません。本は隣にどんな本があるかで表情が変わります。たとえば社会問題の隣に文学書がある棚を想像してみてください。そこから未知の本への新たな興味が生まれる可能性があります。超大型店に行ってコンピュータで本を探すという皮肉な状況もありますが、それでもリアル書店であれば 目的の棚に行くまでに左右の書棚を見たり周辺の本を見ることが可能です。書店の棚には、人間の思考が本という装いをまとって並んでいます。ジャンルを超えた多様な本が並ぶことで読者の視界が広がり、新しい思考に出会える機会が生まれるはずです。(略)
ーー
都会の人はリアル書店のフェアを見れるが、田舎ではなかなか。フェア書店?のサイトでも買えないかな(アマゾンはX)。
スポンサーサイト

皇軍毒ガス作戦の村 最終回 週刊金曜日第80号

週刊金曜日1995.6.30号P64~67より引用。 石切山 英彰
北坦村虐殺事件・加害者の証言
虐殺の村・北坦での聞き取り取材を終えた筆者は日本での調査にとりかかり、作戦を指揮した大隊長が毒ガス使用を明記した文書を発見、さらに戦闘に加わった元兵士から毒ガス戦の生々しい様子を聞き取った。そして元大隊長を捜し当て、その自宅を訪ねたー
 一 毒ガス戦の決定的文書
(略)「大江部隊の掃蕩治安戦にて特筆大書すべき戦闘は定県、安国を警備中大隊の全力を以て毒瓦斯(筆者注‥毒ガス)を利用し共産軍第一大隊を包囲殲滅せる北坦、南坦(召村南側河の南側)付近の○○戦なり。(略)
 二 作戦に参加した元兵士の回顧
大日本帝国軍において少なくとも命令系統のトップにいた昭和天皇ヒロヒト氏さえ、かつてのアジアの貧しい民衆をイジメ尽くし、殺しまくった責任の一切を問われず、またそれによる罪悪感にさいなまれて発狂することも一切なく、日本人の主流に「心優しいお方」と「慕われ」て一九八九年にいい気なジイサンのまま死亡できたことを考えれば、彼の厳格な指揮下にあった大日本帝国軍の命令系統の下で個々の侵略作戦のお先棒を担がされた末端の軍人の「侵略責任」を問うのは、少なくともヒロヒト氏に対する日本民族としての「処罰」をきちんと済ませた後であるべきだ、と私は考える。(略)
 翌日、私はこの大隊長宅を訪問したが、その様子を報告する前に、同じく神戸在住の第一大隊関係者で北坦村毒ガス戦に参加した元日本軍兵士(七五歳)が私との三〇分あまりの電話のなかで話した証言を紹介したい。彼は、「北坦では、〞あか筒〞を便うたから殲滅できた。このことは、みんなが知ってますよ」と私にはっきりと言った。現場を経験した兵士の言葉として、北坦村における日本軍の毒ガス「あか」の使用が明確に証言された。歳のわりに若々しいよく通る声で、彼は以下のように私に語った ー「北坦では一千人ほど殺したでしょうね」「あか筒というやつは、普段からよく持って歩きましたですけどねえ。普通の兵隊にも、みんなにあか筒が配られた」。懐中電灯のような形でしたか? 「そうそう!」「赤いのと青いのと、持たされた」(「あか筒」と「みどり筒」のことであれば、中国側資料にある上坂勝連隊長の供述と一致する)。「あか筒のガスはトウガラシのきついニオイがした。嗅ぐと涙が出て、クシャミがひどかっだ」(毒ガス「あか」に関する粟屋教授の説明と一致する)。「北坦村の抗日勢力を殲滅後、部落に入って一軒一軒、残党狩りした。農家の庭でモミ殻をのけると、地下トンネルの入り口となっていた。私は北坦村で初めて坑道を知った。おっそろしいですよ。あんな恐ろしい穴に入る訳にいかないから、あか筒使った」「ある家のなかでは、一七〜一八歳の娘さんとその母親が奥でワナワナ震えていた。残酷やなあ、と思った」。(略)
 三 作戦を指揮した元大隊長の回顧
(略)大隊長は、ステテコに薄い白の肌じゅばんの姿で出て来た。茶色のセルロイドメガネをかけている。私は、玄関を入って右側の部屋に通された。テレビの置いてある六畳ほどの部屋で、居間のようだった。大隊長は、カメのぬいぐるみが二つ置いてあるキャメル色の長いソファーに、ぬいぐるみを右側に腰を下ろし、私はその正面に座った。アゴが重くガッシリしているのが非常に、印象的だった。いかにも「ブン殴られて、ブン殴られて鍛え上げられた」帝国日本軍人のツラ構えだと思った。太いマユ毛に白い毛が混じっている。鼻筋がまっすぐで、頬がややたれている。耳が大きい。黒髪の少し混じる頭は、上の方が少し薄い。全体的にややでっぷりとした体格で、腹が少し出ている。ドッシリと重い視線で、真っすぐ私を見てぐる。ややしわがれているが、力のある声が腹から響く。語尾にときどき関西弁の「ーや」「ーや」がついた。-北坦村で毒ガスを使ったと、中国現地の取材で聞いたんですが。「シナ人はみんな、そう言う」「あれは発煙筒。火事の煙と同じ」「とにかく発煙筒。空気が希薄になるので、死ぬのは当たり前」「共産党か、キミは?」(私は共産党員ではない)。最初は、こうしたダンコとした否定の姿勢だった。
 しかし、時間をかけて質問を繰り返すうちに、こういう言葉がチラホラと出始めた-「私は、陸軍習志野学校(筆者注:毒ガス運用に関する将校、下士官の教育機関)で教官を務めたが、習志野学校では、あか筒なんぞは毒ガスと認めておらんかった」「イペリットガスやセイサンを本当のガスと言う」毒ガス「あか」を使ったことを前提に「あか」の殺傷力の弱きを弁護するような言葉が続く。「対戦車の時は、セイサン使う。ものの二秒で、人間は死ぬ。ボクは使ってないが」「あか筒ば、クシャミガス。致死カはなく、一時的な効果しかない。従って、兵器としての価値なし。我々は毒ガスと言わずに、《ケムリ》と呼んでいた。吸い込んだ場合に、銃の照準合わすのが不便になる程度だ」「発煙筒と同じ。密閉したから、窒息して死んだだけ」「かわいそうだったのは、今でも目にちらつくが1日(涙ぐみながら語る)ー兵隊も死んだが-お母さんが一歳くらいの子供を抱いて穴(筆者注:地道のこと)から出て来た。窒息して倒れた母親の乳をその子供がなお吸っていた」「これは向こうの兵隊が巻き込んだ。むごい。兵隊だけで戦えば、こうはならんのに」。生活するその場を日本軍に包囲急襲された北坦村の農民たち。彼らが戦闘に巻き込まれない訳がない。「あか筒使ったかば、記憶ない。命令しとらんから」。声がよどんだような気がした。最初の頃の非常に強い否定の姿勢からかなり変わって来た。「その後のその子供のことは、覚えとらん」。私から初めて目をそらした。語気が弱くなったと感じた。(略)
 さらに波状的に質問を重ねるとー「使ったかどうかは別として、兵隊はあか筒持っとったでしょうねえ」と、あか筒の所持を婉曲に認めた。言いながら、タンがひどくノドにからまった。タンを吐きに部屋を出た。歩行がややおぼつかない。
ー毒ガスを実験的に使い、その後報告書を出すよう師団命令を受けた、と上坂さんの供述記録にあるのだが。「師団から命令あったとすれば、当然、歩兵はあが筒持っとるでしょう。ボクは、上坂さんから実験的に使えとの命令は受けてないが」。しかし、その直後、「あか筒使ったかもしれない」。あか筒の使用をほのめかした。彼はこのあやふやな言い方を何度も何度も私に繰り返した。私が確認しようとさらに質問を重ねると、「(あか筒を)持って行けとも、行くなとも言えない。中国人が記録しているなら、使ったかもしれない」と明言した。
 上官命令に絶対服従だった当時の日本軍。国際法で使用が禁止された毒ガス兵器の携行に関して、大隊長が一般兵士に「持って行けとも行くなども言えない」などということは、常識的にあり得ない。決定的証拠となる先の回想文書の「毒ガス」記述を待つまでもなく、日本軍が北坦村で毒ガスを使用したことは大隊長からのこの聞き取りによっても確認できたと考えていいのではないか、と私は思った。(略)
ーー
いしきりやま ひであき 一九六〇年生まれ。一九八五年から中国・北京大学に留学。現在、会社員。
(引用終わり、全文はこちら。ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります。

従軍慰安婦 まず謝罪、そして補償を考えて 宋神道 週刊金曜日第80号

週刊金曜日1995.6.30号P60~61より引用。
まず謝罪、そして補償を考えて 宋神道
在日で唯一名乗りをあげている元「従軍慰安婦」の宋神道さん。政府の戦後補償政策について、
「悪いことをやって、なんで謝罪できないのか」と、怒りをあらわにする。
 金の問題じゃない
宋さんは現在、日本で暮らす「在日」の朝鮮人元「従軍慰安婦」としてはただ一人、日本政府に謝罪と補償を求める裁判を起こしている人だ。「慰安婦」問題を考える上での象徴的な存在でもある。「とにかく政府に謝罪してもらわないと、オレ、うまくないんだよ。オレはとにかく、謝ってもらいたいんだ。(慰安婦の女性)一人一人に『申し訳なかった』って謝ってもらわなければ、死んでも死にきれない。
 なんで自分の国が戦争するのに、朝鮮の男や女を連れてきて、『戦争だ』といって日本のために働かせるの。それで今さら桶償はしない、謝罪もしないってことは、当たり前に戦争して当たり前に人を使ったっていう気詩ちしかないからだろ。ああでもない、こうでもないと理屈ばかり並べているの、政治家が入れ替わり立ち替わり……。盗人よりひどいよ」
「国のためだからって、お金も国防献金に持ってかれる。体を詐さなきやはたかれる。どうする、あんた? 忘れられるかね? 忘れられねえよ。経験した人間じゃないとわからないから。民間基金であれ何であれ、お金のことじゃない。オレ一人じゃなく、何百人という人間をデタラメに連れていって、『従軍慰安婦』だったおなごたちはみんな、疲れまくっているじゃないか。ばばあになってさ。使い物にならないじゃないか。こんなことしといて、自分たちが黙っているとはなんだと言っているのよ。『二度と戦争はしません』となんでで
きないの。
 昔は軍国主義で、朝鮮人が苦労したってわかってて、なんで謝罪できないの。謝罪しないってことは、またいくさで戦いたいんだよ、政治家野郎どもは。とにかく先決は謝罪問題。何年かかっても謝罪問題!」
 日本での戦後
「一六歳のときに慰安婦にさせられて、二三歳まで中国に残って、終戦になってから帰ってきたんだよ。七年間ずっと、毎日軍人の相手をさせられて、すごかったんだから。処女からやられて、殴られ、蹴られ、刀抜いて切られ、しまいには腕に『金子』って名前の入れ墨を入れられた。軍人たちが遊びさ来たとき、名前がわかるようにさ。紙に書いておいてもわからなくなっちゃうべ。だから腕に入れ墨入れて。これは私が慰安婦だった証拠になるんじゃないかなって気もするの。格好惑いから消すべと思っても、消えないんだよ」
 親に決められた結婚に反発して家を出た乗さんは、「御国のために戦地に行って働けばお金が儲かる」とだまされて「慰安婦」にさせられた。中国の武昌をはじめ、揚子江中流域沿岸各地の慰安所で働かされ、ときには日本軍とともに移動する。日本の敗戦で途方にくれていたとき、一人の日本人軍人から「一緒に暮らさないか」と誘われ日本に来たが、捨てられてしまう。そんなときある朝鮮人男性と知り合い、一緒に暮らし始める。
「そのときのオレは体中シラミだらけでみじめな体して。何のために戦地に行ったと開かれるんだけど、格好悪いもんだからしゃべれなかったの。毎日酒飲んでばっか。じいちゃん死んじゃったけど、花だけは供えるんだわ。この人がオレのこと助けてくれなかったら、とっくに死んでいる。オレはこの人のために生きている人間だから」「オレ、一〇〇も生きるよ、くたばんない。生まれたかいがあるよ。生きたかいがある。オレは心は汚れてねえ」(談)
ーー
ソン シンド一九二二年、忠清南道生まれ。
一六歳から二三歳までの七年間、「従軍慰安婦」として連行される。現在、裁判係争中。
(以上引用終わり。著作権は週刊金曜日にあります)

花岡事件とは何だったのか 週刊金曜日第80号

週刊金曜日1995.6.30号P52~57より引用。
企業が抱える戦争責任 野添憲治 花岡事件とは何だったのか 
五〇年前、秋田県花岡鉱山の鹿島花岡出張所で、強制労働に耐えかねた中国人たちが蜂起した。
蜂起は失敗に終わり、その後間もなく日本は敗戦を迎えた。
強制運行、強制労働、そしてその後の鹿島の態度ー花岡事件には戦争中に日本が行なったことが凝縮されている。
花岡事件五〇年目にあたる今年六月、鹿島に謝罪・補償を求め、生存者や遺族が提訴した。
 50年目の花岡事件提訴 (略)
 労働力として連行された
 (略)政府は財界の主張を受け入れ、一九四二年に各省庁から人選して華北労働事情視察団を結成し、大陸を視察してくと、中国人を国内に連行してくる計画をまとめた。これに基づき東条内閣は、「華北労務者内地移入二関スル件」を閣議決定し、「昭和一九年度国家動員計画需要数」のなかに三万人の中国人労働者を計上し、本格的に国内への導入を実施した。
 日本に連行してくる中国人は、中国内で労工狩りという方法で集めた。これは兎狩り作戦ともいったが、真夜中に一つの集落を日本の兵士やカイライ軍が囲み、夜明けとともに包囲をせばめ、男たちは捕えて後ろ手に縛った。また、家畜、食料、資材などは奪い、軍隊に持ち帰った。女たちが犯され殺された集落は、証拠が残らないように焼き討ちにした。このため一夜にして多くの集落が消えたが、有名なのに「平頂山事件」がある。また、焼き討ちにされなくても、夫や子どもを連れ去られたうえに、食料や家畜を奪われ、家庭は破壊した。
 捕えられた中国人は、周囲を電流を通じた鉄条網で囲んだ収容所に入れられた。八路軍や国民党の捕虜とも、収容所で一緒にされた。食料が少ないうえに、病気になっても看護はなく、死亡する人が続出したという。この人たちを貨物船に乗せて日本に運ぶと、国内の一三五事業所に配置し、重労働の日々を課した。日本に強制連行された約四万人の中国人を使役した三五の企業のほとんどは、巨大企業としていまも生きつづけている。
 重労働と虐待の日々
その事業所の一つに、秋田県の花岡鉱山で工事を請負っていた鹿島組(現鹿島)花岡出張所があった。当時の花岡鉱山は藤田組(現同和鉱業)が経営していたが、一九四四年に七ツ館坑で落盤事故があり、日本人、朝鮮人それぞれ一一人が生き埋めとなった。(略)しかし、この他にグム工事も請け負っていた鹿島組では労働者を集めることができないので、政府が強制連行を決めた中国人を使うことになり、一九四四年八月に第一団の二九七人(途中で三人が死亡)を花岡出張所に連行してきた。(略)
P55花岡鉱山の冬は寒く、雪も深い。初冬に薄い作業服一組が中国人に支給されたが、それだけでは寒さを凌ぐことができなかった。背中に雪よけの莚をまとい、足にはワラを巻き、凍った水に腰までひたって働いた。冬には沢山の人が凍傷にかかり、死ぬ人も多くでた。
 長い冬が去ると、鹿島組花岡出張所に連行されてきたなかで九〇人ほどが死亡し、三〇人ほどが病室に入っていた。どうにか働ける一七〇人では工事ができないので、また中国人を連れてくる計画をたてた。そして一九四五年五月に五八七人、六月に九八人を連行してくると中山寮に入れ、さらに少なくなった食料をあてがい、重労働をさせた。
 中国人が残忍非道な虐待に祝して蜂起したのは、一九四五年六月三〇日(七月一日との説もある)の夜である。それまでに殺されたり、病死したのは、第一次が二九七人のうち一一三人、第二次が五八七人のうち二三人、第三次が九八人のうち四人だった。このほか、約五〇人近くが病室に入っており、「このままでいると全員が殺される」と中国人は考えた。
 こうしたなかで蜂起が耿諄大隊長をはじめ、少人数で綿密に計画された。たくさんの中国人を死なせた現場監督を殺したあと、連合軍俘虜と連行されていた朝鮮人を解放し、駐在所を襲って銃や軍刀を奪い、遊撃戦をおこなうというものだった。六月三〇日の深夜に蜂起は計画どおりに進められたが、現場監督たちが逃げないように事務所を包囲する直前に一人が早まって実行に移したため、四人の監督は殺したものの、四人には逃げられた。その監督たちが出張所や鉱山事務所に逃げ込んだため蜂起がわかり、サイレンや半鐘が鳴り、鉱山町は大騒ぎとなった。
 逃げた中国人を捕えるために地元の消防団員や在郷軍人などのほか、弘前憲兵隊などからのべ約二万人が動員され、四日目には全員が集められた。捕えられた中国人は二人ずつ後ろ手に縛られ、共楽館前の砂利の上にしゃがんだまま放置され、炎天下のなかで三日二晩も水や食料をあたえられず、ここで約一〇〇人が死んだ。五日目に蜂起の主謀者として耿諄隊長たち一三人が秋田市の秋田刑務所に送られ、生き残った中国人はトラックで中山寮に運ばれた。寮のまわりに有刺鉄線が張られ、武装警官が寝ずの番で巡回するなかで、また重労働がつづけられた。食料などは蜂起する前と、まったく変わらなかった。
 裁かれなかった鹿島
 (略)鹿島組花岡出張所には三回に分けて九八六人が強制連行され、このうち四一八人が花岡の地で死んだ。花岡事件は「捕虜虐待」で戦争犯罪に問われ、連行されてきた中国人のうち二三人が証人として日本残留を命ぜられたが、残りの人たちは二月に帰国した。鹿島組は一銭の労賃も渡さなかった。(略)なお、横浜法廷(BC級戦犯裁判所)は一九四八年に鹿島組の三人が絞首刑、一人は終身刑、警察の二人は重労働二〇年の判決が言い渡されたが、のちに全員が減刑となって出獄した。(略)
ーー
のぞえ けんじ二九一二五年生まれ国有林作業員、ラジオキャスター、非常勤講師などを経て著述生活に。主著に「聞き書き花岡事件」「村の風景」「秋田杉を運んだ人たち」(御茶の水書房)、「花岡事件の人たち』(評論社)、「ドキュメント出稼ぎ」(教養文庫)などがある。
ーー(引用終わり、全文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります。

従軍慰安婦にされたハルモニの思いー絵筆に託して 週刊金曜日第80号

img257.jpgimg259.jpgimg260.jpgimg261.jpg週刊金曜日1995.6.30号P45~51より引用。かつて従軍慰安婦にされた女性達自身が一昨年から絵筆を執り始めた。
(著作権は週刊金曜日にあります)

皇軍毒ガス作戦の村3 週刊金曜日79号

週刊金曜日 1995.6.23号P48~50より、引用。 石切山英彰
北坦村毒ガス作戦の記録
日本軍が毒ガスを使用して一〇〇〇人にも及ぶ村民の命を奪った北坦村虐殺事件ー三光作戦」の文書資料がほとんど残されていない中、大虐殺に至ったこの作戦に関する日本軍側の記録を筆者は発見した。中国側による資料とも合わせて、文書に刻まれた毒ガス戦の実態に迫る。
1日本軍側の資料から
P49この連隊史のなかでも、『北支の治安戦(2)』-の場合と同じ大隊長が北坦村の戦闘を記述している(332ページ)「兼ねてより北坦村には地下坑道あり、隣村に通じているとの情報を得ていた。大隊長は各隊長に命じ、隣村に通ずる坑道の探索遮断出入口の発見を急かせた。数カ所の出入口を発見し、通訳を通じて降伏を勧告したが、応じない、日没も間近い止むを得ず発煙筒の殺人を下命した。」
 第一大隊の日本兵が地道のなかに下りて行って抗日勢力を殲滅した訳ではなく、地下の密閉された空間に向けて、武器となる「気体」を地上から投入したことまでは書いてある。その効果により、「敵は苦しまざれに一人又一人、穴の中から這い上がり次々と先を競って出て来た」。さらに地道の中から出て来た中国人たちについて、「便衣に着替えて『我的老百姓』(筆者注‥ウオータラオパインン、私は一般人であり軍人ではない、という意味の日本軍式中国語)と言うものもいた、本当の住民もいたであろう」と認めている。
 しかし、発煙筒の煙といえば、ガスの素人から考えても、化学兵器である毒ガスとは程遠い。私は毒ガス戦の権威、立教大学の粟屋憲太郎教授に電話で問い合わせた。
その際、中国側資料『河北文史典資料選集』の北坦村虐殺の項目や李徳祥さん証言にあった毒ガス吸引者の症状や、李徳祥さん証言にあった毒ガスの匂いや味、吸引後の症状をともに以下のように伝えた。
 症状:クシャミが出る、嘔吐する、涙が出る、鼻水が出る、全身が発熱する、ツバがひどく出る、ノドがひどく渇く、セキが出る、精神状態が不安定になる。ガスについて:トウガラシのきつい味と匂い、火薬の匂い。
これに対する粟屋教授の答えはー 日本軍が最も多く使用した毒ガス「あか」の可能性がある。化学名は「ジフユニールシアンアルシン」。発煙筒の煙に「あか」を混ぜることもあったが、もし発煙筒の煙だけなら、クシャミなどの症状は起こり得ないー。
 日本軍の毒ガス戦記録をまとめた『毒ガス戦関係資料』(「一五年戦争極秘資料集第一八集」。粟屋憲太郎、吉見義明編 不二出版)に目を通すと、日本軍が実は中国の至るところで毒ガス戦を行っていたことが分かった ー 「日中戦争が開始すると日本陸軍は、中国戦線各地で、催涙ガスのみならず『きい』(イペリット)、『あか』(ジフ三一-ルシアンアルシン)などの毒ガスを使用することになる。陸軍は毒ガス作戦が明らかに国際法違反であることを知っていたが、極秘にこれを実施したのである。日本軍の毒ガス作戦にたいし、中国国民政府や中国の各新聞は、抗議したが、日本側はこれを強く否定し続けた。」(15ページ)略
2中国側の資料から
P50(略)それによると上坂氏は、北坦村の戦闘に先立ち毒ガス兵器「赤筒」「緑筒」(筆者注:みどり」は催涙ガス)を傘下の大隊に配ったこと、その毒ガス兵器を第一大隊が使用したことを認めた上、(1)毒ガスの使用は、一六三連隊の上に位置する二〇師団(師団長‥飯沼守中将)の師団命令を受けたものであること(2)作戦終了後は必ず毒ガス効果を報告するよう師団から命令されたことを明らかにしている。また「この戦闘で、私が指揮する第一大隊は八路軍および住民およそ八〇〇人以上を殺害した」と述べている。さらに毒ガス使用の理由について、「漸次性の毒ガスであっても窒息により大きな殺傷力があることを、当時知っていた。日本軍がこうした毒ガスを使用したのは八路軍の地道戦に対応できず苦しんでいたからであり、窮余の一策であった。実験の名義で毒ガスを使用しただけでなく、これにより地道に避難した八路軍と住民を大量に虐殺することを図ったものであった」と供述している。
 この作戦が中国人民に与えた損害は、死者およそ一一〇〇名、家屋の破壊一〇榛、家屋の焼却三棟、家屋四五〇棟を奪い一〇日間使用したほか、中国人二四〇名を八つの砲楼の修築に一〇日間駆り出したという。(略)つづく。
ーー(引用終わり、原文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります)

皇軍毒ガス作戦の村2 週刊金曜日第78号

週刊金曜日 1995.6.16号P40~42   石切山英彰
北坦村虐殺事件の証言
中国・河北省にある北坦村では地道(地下トンネル)が掘られ、日本軍の侵入はことごとく退けられた。
しかし一九四二年五月二七日、掃討戦に出た日本軍は抵抗線を突破。そして多数の村民が潜んでいた地道に毒ガスが投入された。
村の民兵隊長だった季徳祥さんが語る虐殺の日ー
P41(略)。日本軍は、食料や物資を奪いに来た。日本軍が村を攻める時は、まず中国人を日本人兵士の前方に立たせて先に歩かせ、その後ろから来た。中国人に中国人を撃たせた。中国人を防波堤に使った。(李さんの声のトーンが上がり、語気が強くなった。表情は引き締まり、背筋をビンー!とさらに伸ばした。リンとした物腰。話しながら、右手を大きく何度も振り上げた。)(略)
 日本軍が準備を重ねて北坦村に襲い掛かった毒ガス戦の状況について、李徳祥さんは、続けて以下のように私に語った。
一九四二年五月二七日(旧暦四月一三日)夜明け前、日本軍はやって来て、北坦村を包囲した。明け方四〜五時頃、日本軍と私たちとの問で戦闘が始まった。私たちは武器でははるかに劣っていたが一歩も譲らず、激しい戦いは長く続いた。我々の県大隊班長の王老年(当時二六~二七歳)は、地雷を抱えて敵の中に突撃し、李国生の家の近くで敵と爆死した。青年抗日先鋒隊の班長、李孟甲(当時二〇歳)は、李化民の家の前で戦死した。昼。昼一一〜一二時頃が最も激烈だった。この日は、雲一つない晴天。風がなく、暑い日だった。
 私たちは、日本軍の攻撃を七度退けだが、八度目の突撃があった時、すでに弾丸や手摺弾、地雷のすべてを使い果たしてしまっていた。とうとうこらえ切れず、日本軍の村への侵入を許してしまった。
 日本軍は、村に入ると、地道の入り口数カ所を発見して、地道に毒ガスを投入した。毒ガス容器の形状は、ちょうど懐中電灯のような円筒形で、鉄製だった。長さは二〇センチ、直径三〜四センチほど。フタの部分も含めて全体が灰色だった。筒状の本体部のややフタ寄りの所に円周に沿って赤い線が一本入つていた。
 私は、民兵隊長として最後の最後まで地上で反撃したため、地道に入ったのが一番遅い方だった。
 地道にもぐり込んだのは午後一時ころと覚えている。そのためガスにおかされる時間が他の者より短く、地道の中での中毒死を免れた。
 ガスを吸引すると、ノドが乾き、嘔吐し、息が詰まった。地道の中で、多くの仲間が毒ガスで殺された。
 午後三時ころだったと思う、私は地道から引きずり出された。毒ガスにおかされて瀕死状態になった年寄りも子供も、民兵も、地道から地面の上に出された後、殺された。
私は、まだ生きている赤ん坊を日本兵が火の車へ放り込んで焼き殺すのを、この目で見た。王というこの時の赤ん坊の母親は、いまだ保定市内に健在です。また日本軍が村の女性を強姦する所を目撃した。一つの井戸は、死体で埋められてしまった。
 李洛油という男は地道から引きずり出された後、日本兵に頭を撃たれて殺される所だった。しかし、弾が右耳の後ろから右唇のはしへ抜けて一命は取り留め、戦後も最近まで生きていた。(李洛油の息子の李小三が「生前の父に直接聞いた」として私に語った所では、李洛油は一人に腕をつかんで躓かされちょうど振り返ったところを別の日本兵に後ろから撃たれた。日本軍が村を去ってから、八路軍の医者を探して治療した。)
 私は、東北(旧満州)では日本人の家で働いたことがあり、日本語をいくつが知っていた。毒ガスを吸い込んだせいでノドが猛烈に乾く。カタコトの日本語で「大君(タイジュン、日本軍を指す)、いたい、いたいデ、みずー」と日本兵に水を求めた。日本語がしゃべれる奴ということで、日本兵は私を殺さなかった(「水」「痛い」を李さんは日本語で私に言った)。この毒ガス戦で、およそ一〇〇〇人の同胞が日本軍に殺されたー。
 一九五六年、藩陽で行われた中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷で、私は北坦村の毒ガス虐殺の生き残りとして、一人でおよそ三〇分間証言した。法廷には他に、河北省満蒙潘家峪虐殺の生存者や、承徳での虐殺の生存者もそれぞれの事件の証人として出席していた。北坦村の毒ガス虐殺を命令した日本軍の上坂勝が出席し、私の証言内容が全くの事実であると、大体次のように認めた。
「李徳禅の証言内容は、全く事実である。私がその虐殺を直接に命令した。定県の東南部五〇華里ほどの地域は赤匪の根拠地だった。私の命令により、この地域で人間の目玉をくり抜き、鼻をそぎ、耳をそいで、殺した」
 上坂勝は、遼寧省の撫順戦犯管理所に入れられた。 北坦村のもと民兵隊長、李徳祥さんは、以上のように私に語った。(つづく)
ーー(以上、引用終わり。原文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります。

ルポ皇軍毒ガス作戦の村(一)週刊金曜日77号

週刊金曜日77号1995.6.9 P20~25より引用。
中国・河北省における虐殺事件 石切山英彰
中国で日本軍が行なった三光作戦の生存者への聞き取りを進めた筆者は、北京から一〇〇キロにある北坦村での虐殺事件の証人に出会った。
この事件は日本軍が毒ガスによって一〇〇〇人に及ぶ村民を殺傷したものだった。
北坦村での取材に加え、毒ガス使用を明記した軍関係文書、作戦を指揮した大隊長の証言など、日中双方での裏付けを初めて行ない、非人道的な日本車の所業を追及する。
 中国を侵略していた日本軍の第一一〇師団第一六三連隊第一大隊は、「冀中作戦」中の一九四二年五月二七日、北京市の西南およそ二〇〇キロに位置する河北省定県北坦村で毒ガスを使用し、地下壕に避難した中国人八〇〇〜一〇〇〇人を虐殺した。この毒ガス使用は、ハーグ宣言を含む戦時国際法に違反する戦争犯罪である。
 私は、この事件に関して中国側では現場の北坦村を訪れ、毒ガス戦をかろうじて生き延びた村の元民兵隊長から「毒ガスが使われた」とする証言を聞き取る一方、日本側では同作戦を現地で直接指揮した日本軍大隊長の直筆記録から「毒ガスを使った」ことを明記している決定的文書を発見して上記の歴史事実を立証した。さらに同大隊長を捜し出し、自宅で大隊長自身に三時間のインタビューを行った。
 毒ガス戦の権威、立教大学の粟屋憲太郎教授は、北坦村で日本軍が使用した毒ガスの種類特定に関し、中国側のいう吸引者の症状などから判断する限りでは、とした上で(1)当時の日本軍が最も多用した「ジフェニールシアンアルシン」、通称「あか」の可能性がある(2)毒ガスの混じっていない発煙筒の気体だけを地下壕に投入したのであれば、中国側のいう「くしゃみ」などの症状は起こり得ない ー と私に回答した。同作戦に参加したもと日本軍兵士は、私の電話インタビューに対し、北坦村では「〝あか筒〝(毒ガス「あか」の携帯型兵器)を使うだから残滅できた。みんなが知ってますよ」と答えた。(略)
一 北坦村毒ガス戦の背景
(略)北坦村での虐殺が関係する日本軍の侵略行動は、日本軍により「冀中作戦(三号作戦)」と呼ばれ、一九四二年五月一日〜同年六月二〇日に行われた。「冀」は河北省の別称であり、「冀中」とは河北省を概念的に東、西、南、北、中央、の五地域に分けた場合の中央平原部を指す。「冀中作戦」は、この中央平原部を根拠地として日本侵略軍に対する頑強な抵抗を続ける共産党軍の残減を狙った「掃蕩」(サオダン、討伐)作戦だった。
(略) 侵略した日本側の立場からこの作戦を記録する資料として、『戦史叢書北支の治安線(2)』(朝雲出版社)がある。(略)
 同様の状況は、作戦終了後の以下のようを報告からも分かる-「沙河、水道溝河に沿う地区(筆者注:北坦村の属する地区)は、中共側が平原地拠点のモデル地区と称していた所であり、交通壕、地下壕の構築がはなはだしく進捗しており、ほとんどの部落が地下施設を設け、三力村約七〜八粁の間を地下壕で連接した所さえあった。また部落民の抗日意識が強く、半農半兵の状態で、老
幼婦女すら何らかの抗日団体を組織しておりために各隊の実施する粛正はきわめて困難であった。」(164ページ)
「不期に遭遇するか、あるいは追いつめられたときの戦意は相当に強く、特に部落による防御戦闘はきわめて靭強で、最後の一人になるまで抵抗した例は珍らしくない。」(171ページ)
 平原地帯でのこうした頑強な抵抗を可能にした一つの重要を理由は、引用文中にもあるように、抗日根拠地が地下壕(中国側はこれを「地道(ティータオ)」と呼んだ)を有したことだった。山岳地帯のように谷間など遠方まで逃げ延びるのに使える地理的な起伏をもたない河北の大平原地帯にあって、日本軍の侵略行動から命を守るため、民衆は地下に隠れ場所、「地道」を作った。地道は、最初は農作物を貯蔵する地下洞と地下洞を連結した簡単なものだったが、日本軍の暴行が熾烈を極めるに従い、中国人民衆もこれに対抗して、かなり大規模な地下施設に発展させた。『北支の治安戦(2)』は、「本作戦についての所見と教訓」として冀中作戦への参戦者の所見を総合整理するなかで、地道について次のように描写している-
「中共軍は平原地帯の抵抗拠点として各種の地下施設に最大の苦心を払っていた。たとえば、各家屋内床下に地下室を設けて相互に連接し、更にこれを部落外の秘密連絡点まで坑道で連絡するか、時には部落間に連絡用暗路を設けた所もあった。地下室は大小様々のものがあり、百数十名の兵員を収容できるものから、軍需品の一部を隠匿、格納するためのものまであった。坑道の入り口を発見するのは非常に困難であり、社寺院、廟、古井戸、堆肥小屋、堤防、物置、森林の中などによく秘匿されていた。このほか、畑などの凹道とか、丘の中腹等には潜伏用の横穴がたくさん設けられていた。」従って、北坦村に対する日本軍の「掃蕩」では、中国側の地道戦法への対処が成否の最大のカギだった。(略)
 二 現地、北坦村へ
(1)虐殺の記念碑
(略)北坦村で泊めてもらう農家へのお礼に、タバコ二カートンと酒二本を買う。中国での贈り物は、偶数が好まれる。これに加えて、中秋節(十五夜)が近いので月餅(十五夜まんじゅう)を買った。
(略)私はまず、村長の王慶珍さんの家を訪ねた。日本軍が毒ガスを使った虐殺事件の「幸存者」(シンツンシャ:九死に一生を得た人)に直接話を聞きたいこと、宿を都合して欲しいこと、などを告げると、快く引き受けてくれた。王さんは、虐殺の時四〜五歳。虐殺の日は地道の中に逃げ込んで一晩そのまま隠れ、翌日になって地上に出た。家族はすべて助かったという。李徳祥さんについては、当時の村の民兵隊長で、村にいた家族六人のうち本人を除く五人を殺されたと言った。今も健在と分かった。
 宿となった王さんの家に荷物を置き、早速、王さんと虐殺の記念碑を見に行く。村の中を歩きながら、「ここら辺りの路上には、当時、死体がごろごろころがってた」「この道の上にもー」と説明してくれる。地道は深さ二メートル、高さ二メートル足らずで幅一メートルほどのかなり大きなもので、だいたい村の中の道に沿ってその下部に掘られたという。
記念碑は予想以上の規模だった。石板で作ったさまざまな形の碑がいくつも、木立のなかに建っている。雑木林の一部を刈り込んで、敷地を作った感じだ。人を埋葬した後に土を盛り上げて作る土まんじゅうをコンクリートで作ってある。その周囲に桂を立てて裾の反り返った中国式の屋根をしつらえ、右手を振り上げた抗日兵士の人形をてっぺんに乗せてある。碑の周囲にコンクリートブロックやレンガを敷いてある他は、敷地内の地面は土で、雑草が茂っている。敷地の広さから言えば、「霊園」と言ってもいいほどだ。郷里のお宮さん(八幡神社)の境内のような雰囲気だった『しかし、ここは日本軍国主義の侵略によって殺された人たちを記念している場所だ。雰囲気が似ているといっても、よく考えれば、かつて中国人を殺した日本軍国主義の強力な精神的よりどころだった神道の「お宮さん」は、この霊園とは正反対の極に位置する。
 虐殺の被害者名を彫り込んである石板は四枚あった。白い石に北坦村を含む周辺村落の死亡者の名前がびっしり縦書きしてある。名字では李、王、采が多く、名前では「洛」字のつく人が多く目につく。被害者数何百人とか何千人とか数字で聞くよりも、実際に亡くなった人たちの実名をこうして突きつけられると、人間を殺したという事実に圧倒される思いがした。
 被害者への弔文が、別の石板にこう刻み込まれている- 一九四二年の「五二七」(五月二七日)は、一〇〇〇人の英雄たちの血の海の一日だ。「五二七」、それは偉大な民族解放戦争が敵味方の互いに譲らない段階に入ったなかでも最も悲しみの大きな一日だった。人を喰らう猛獣、日本侵略者とその走狗は、冀中の長期的統治の確保を狙い、華北に戦闘用の溝や堅塁を構築し、人民に対して血も凍る虐殺を展開した。定県の民族の愛国者八〇〇人-優秀な中国共産党員と勇敢な戦闘指導員、民兵、農民たち-は、まさにこの日、民族の不滅のために日本鬼子(リーベングイズ、侵略者としての日本人に対する蔑称)という獣どもと頑強に戦闘するなかで栄光の戦死を遂げた。我々が「五二七」の惨状を忘れることは、永遠にあり得ない。まだ母親の懐を離れない多くの乳飲み子と彼らの母親が、ともに虐殺された。烈士たちの鮮血は、黄土を赤く染めた。八〇〇人の遺体は、北坦村内の通りいっぱいに横たわった。子供らは父母を探し、父母は子供らの安否をたずねた。流れる熱い涙で人々の目は赤くなった。この恨みと傷心の日、それが「五二七」だ。だれがこの日を忘れられようか!ー
 日本軍による毒ガス使用は、以下のように描写されているー親愛なる死者たちよ。あなた方は、民族の自由と解放のために日本侵略者の壊滅的な「蚕食掃蕩」(カイコが葉を喰うようにジワジワと、日本軍が抗日勢力を包囲して撲滅を進めた様子を形容する言葉)を粉砕した。我々の故郷をまもるため、あなた方は勇敢にも武器を持って立ち上がった。我々の武器は手製の銃であり大砲であり、自家製の手溜弾や地雷だった。一方の日本鬼子は、これに一〇〇倍も勝る機関銃や大砲、戦車、毒ガス(原文:毒瓦斯)を持っていた。あなた方は郊外で、家屋の上で、地道の中で戦った。銃弾が雨あられと降るなかで、また毒ガス(原文:毒気)が充満するなかで、あなた方は激しく頑強に戦いを堅持した-。(略)
 (2)民兵隊長、李徳祥氏からの聞き取り
(略)李さんの帰りを待ちながら、奥さん(六八歳)から抗日戦争中の話を聞いた。彼女が一七歳の冬、日本子(リーベンズ、「日本鬼子」より弱い蔑称)はやって来た。掃蕩(サオダン)だ。(彼女は、日本軍が機関銃を撃つ音を擬音語で「グルグルー、グルグルー」と表現した)最初、だれだか分からなかったが、「おかしい、中国人じゃない。話してる言葉が日本語らしい」とみんなあわてた。奥さんによると、この後も日本軍は、北坦村に何度も来た。しかし、地道があって抗日勢力が頑強に抵抗したため、日本軍は村に入れなかった。そこで日本軍は兵力を集中し、今度は毒ガスを使って北坦村を襲った。これが北坦村の大量虐殺だという。
 河北平原の村々は、日本の侵略中そこらじゅうで地道を掘ったが、北坦村で掘り始めたのは一九四一年ころと彼女は覚えている。最初はやま芋を貯蔵する地下倉庫を互いに地下でつなげただけの簡単なものだった。地道ができると、自分たちの命を守る最後の逃げ場所だから、家の中のどこに地道口(地道の入り口)を作ってあるかは、めったに他人には知らせなかった。
「地道っていうのはね」と奥さんは、こんなふうに話してくれた「-抗日勢力を村に包囲した日本軍が、撃ち合いに優勢になったから、サアッ行くぞ!と突撃して村に踏み込むと、それまで猛烈な勢いで撃ち返して来ていた民兵らが影も形も見えない。これが地道戦(ティータオ・ジャン)さ。「だから敵は、〝八路(パールー)は神兵だ〞って言ったんだよ」と奥さんは笑った。(略)つづく
ーー
いしきりやま ひであき一九六〇年、静岡県生まれ。一九八五年から中国・北京大学に留学。現在、会社員。
ーー
引用終わり。全文はこちら。ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります。

 | HOME | 

文字サイズの変更

プロフィール

XY新聞

Author:XY新聞
過去の事実を率直に見つめ、現代の改憲の動きを止めよう。
早く本勝さん新聞が読みたい!
週刊金曜日最新号は下のリンクメールニュースから↓

FC2カウンター

最近の記事

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

週刊金曜日ヤフーニュース

カテゴリー

タグリスト

共謀罪 朝鮮 原発 慰安婦 強制連行 基地 週刊金曜日 憲法 改憲 参院選 朝鮮籍 在日 前文 津波 震災 交通事故 動物 戦後補償 南京大虐殺 本多勝一 毒ガス 731部隊 徴用 ダム 泰緬鉄道 侵略 東北 橋下 オウム 沖縄 米軍 憲法9条 筑紫哲也 久野収 南京 XY新聞 米軍再編 ルポ A級戦犯 日刊紙 

リンク

このブログをリンクに追加する

ブログ内検索

金曜日刊行物

47NEWS言葉ランキング

金曜日1

金曜日3

貧困なる精神

本多勝一著作集1南京他

著作集2

著作集3

著作集3

最近のコメント

最近のトラックバック

FC2掲示板

RSSリンクの表示

月別アーカイブ

カウンター

無料カウンター

FC2Ad

Template by たけやん