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従軍慰安婦に返還されない軍事郵便貯金 週刊金曜日26号

週刊金曜日26号1994.5.20 P24~29より引用。
「お金が欲しいわけではない、私の貯金が持つ歴史を考えると、日本に置いておくのが辛いのです」。
第二次大戦中、軍事郵便貯金をしていた韓国人の元従軍慰安婦が六月初め、預金の返還を求めて提訴する。
そこに至るまでの郵政省との交渉の内容から、日本の戦後処理のあり方と、これからのアジアの国々とのつきあい方を問う。 廣崎リュウ
  「慰安婦の貯金まで奪って、日本は金持ちになったのか」
 アジア太平洋戦争の最中に性奴隷とされ、加えて生きるために貯えた貯金も返してもらえない。その返還を巡る交渉の席上、怒りに震えた彼女の口から発せられたこの言葉に、郵政省側も市民側も沈黙せざるを得なかった。敗戦から半世紀、郵政省との二年間の交渉をもとに、彼女の貯金の担う重い歴史を問い、郵政省=日本の杜撰な戦後処理を告発する。
 一九九二年三月から五月にかけて、山口・北九州各地の市民団体が、軍隊慰安婦にをることを強制させられた韓国人、文玉珠(ムン・オクジユ) さんをお招きして当時の話をしていただいた。その際彼女から、「慰安婦をさせられながら兵隊からもらったチップを貯金していた。『お前の貯金の本社は下関にある』と軍人から聞かされた」との証言を得た。調査の結果、彼女がしていた貯金は〞軍事郵便貯金〞であることがわかった。
 貯金にいたる経緯
文王珠さんは、一九二四年四月三日に韓国慶尚北道達城郡で生まれた。四二年七月、「食堂で働けば金が稼げる」とだまされ、「楯八四〇〇部隊」付きの強制軍隊慰安婦として、ビルマのラングーンに連行された。部隊の移動でマングレー、アキャブ(現シトウイ)、ブローム、タイのバンコクなどの最前線を軍用トラックで転々とした。そしてアユタヤの野戦陸軍病院で看護婦をさせられていた時に敗戦を迎え、解放された。
 九〇年、「従軍慰安婦は民間業者が連れ歩いた」という日本政府の発言に、韓国の女性団体が反発。一一月には、真相の究明と問題解決のために韓国挺身隊問題対策協議会(以下、挺対協)が結成され、文王珠さんは慰安婦であったことを挺対協に申告した。また九一年一二月、韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会が提訴した戦後補償第二次訴訟の原告団のひとりでもある。
 文王珠さんは当時軍人からもらったチップを貯金していたという。彼女の記憶によると、「文原吉子」名義の貯金をマングレーかラングーンの野戦郵便局で始めた。途中通帳をなくしたが再発行してもらった。故国の父母にも五〇〇〇円を送金したことがあり、帰国後、父母に聞くと送金されていたという。残高は六〇〇〇円から七〇〇〇円。通帳は四年後再びなくした。「貯金は下関の本社にしている」と軍人に教えられており、下関に寄港するという引き揚げ船に乗ったが、結局、下関には向かわずそのまま韓国に到着。今日まで引き出す機会はなかった。では、その貯金=軍事郵便貯金とはどういうものなのか。
 軍事郵便貯金とは 
 軍人・軍属を利用対象とした軍事郵便貯金制度は、日清戦争中の一八九五年に創設され、日露戦争の勃発した一九〇四年には、「軍事郵便為替貯金規則」が施行、法制化された。その後、第一次世界大戦、日中戦争を経てアジア太平洋戦争における日本の敗戦までの間、占領各地に開設された野戦郵便局で軍人・軍属の給与の預金、支払い業務が行なわれた。(略)しかし「貯金はほとんど上官の命令」であって、総じて強制的であったとの元軍人の証言を得ている。当然の国策として「貯蓄心をがん養させる」というよりは、兵の給与を貯蓄させることにより、国家財政の疲弊を陽止し、潤沢な戦費を確保する意図があったことは否めない。
 野戦郵便局は、「中国の北京、蘇州、広東、香港。旧オランダ領東インド地域ではスマトラ島。北部仏印ではハノイなど約四〇〇ヵ所に開設された」(九二年四月八日参議院予算委員会/松野春樹政府委員答弁)。敗戦時の貯金残高は、約三一五万五〇〇〇口座、約一〇億三八二〇万四〇〇〇円であった。
 約二一億五〇〇〇万円が未払い (略)
 貯金の払い戻しを求めて
(略)文玉珠さんは、「慰安婦の貯金まで奪って、日本は金持ちになったのか」「このお金は、私個人が体を張って貰ったお金なので、これは個人の私有財産だから、韓日関係の条約とは関係がないので返して欲しい」と訴えた。(略)
 三回目の交渉で郵政局側は、「文王珠」または「文原吉子」の原簿は発見できなかったとの回答書を提示したが、調査の方法を巡って追及したところ、ようやく「類似名」の存在を明らかにした。招く会は類似名原簿の公開を要求。郵政局側は当初しぶったが、結局公開に応じた。提示された原簿預払金詞書によると、類似名とは「文原玉珠」で、四三年三月六日から四五年九月二九日までの預金高が二万六一四五円。四六年四月から六五年三月までの利息を合計して五万一〇八円になっていた。
 また、調書には「(昭和)19・8・18忘失届出」の記入があり、彼女の証言と一致した。文玉珠さんは、日本植民地統治時代の除籍謄本(朝鮮総督府による創氏改名令により、「文」姓が抹消され「文原」姓が明記されている。要するに「文原玉珠」に改名されている)を提出し、郵政局、招く会双方が本人の原簿であることを確認した。
 貯金の名義に彼女の記憶違いがあったとはいえ、「文原玉珠」名義の原簿の存在をひた隠し、原簿が発見できなかったとの回答書をわざわざ作成して提示するという姿勢に、この国の問題の深さを痛感させられるのである。
 しかし、彼女の原簿の出現によって「軍人・軍属」と共に、「慰安婦」が軍事郵便貯金制度を利用していたことが明確になり、軍が「慰安婦」を統括していたことが、皮肉にも国側の証拠で裏付けられた意義は大きいのではないだろうか
 日本人へは積極的に払い戻し (略)
 旧植民地出身者への不平等な対応
 (略)払い戻し勧奨状が、日韓両国の最大懸案事項であった請求権についての取り決めで決裂するという、深刻な時期に発送されたことについて、実は次の重大を問題点を指摘せざるを得ない。
 払い戻し勧奨状を発送する際、国内外の旧植民地出身者を発送対象から除外する方法として、「姓名が日本名であるがどうかを基準にした」(郵政省貯金局業務課課長補佐、田口氏回答)という。しかし四〇年に朝鮮総督府が公布した創氏改名制度により、多くの朝鮮人が日本名を強要、改名させられており、姓名を基準にすること自体問題がある。この点を指摘したところ、「払い戻したのが日本人だけとは言えない」(前出田口氏)との回答である。当然そう答えざるを得ないのである。
 個人の貯金の支払いを国の都合で保管したこと自体、重要な問題性があるが、こういった杜撰な払い戻し業務によって、日韓会談の合意以前に、払われた者と、そうでない者を生み出すという、何とも不平等な結果になってしまったのである。(略)
 韓国以外には支払われる
 日本敗戦後、日本政府は旧植民地・旧占領各国と戦後処理条約・協定等を締結した。しかし、相手国、国民の財産、権利及び利益を一方的に消滅させる国内法を立法施行したのは、実は韓国とミクロネシアに対してだけなのである(ミクロネシアについての詳細は省く)。それ以外の条約・協定の締結国に対して、法一四四号(二六ページのコラムに詳述)に準じる国内法は現在存在していない。
 従って韓国国籍者以外(無国籍を含む)からの貯金支払い請求については「支払うことになる」(郵政省田口氏回答)のである。これまで、旧ソ連国籍者(朝鮮人)一件、台湾国籍者二件に支払われた実績がある。
 朝鮮は日本の胴喝的外交によって不当に日本に併合され、植民地とされた。また、強権、暴力的な植民地統治によって、人的・物的な被害は甚大だ。当然、韓国のあらゆる財産、権利及び利益が無条件に是認されるところを、逆に韓国に対してのみ国内法を施行して、権利消滅させたことの道義的責任は免れまい。
 郵政省は貯金原簿を公開せよ
(略)現在まで慰安婦の実態等を裏付ける資料の発掘が各方面で行なわれているが、文玉珠さん以降、挺対協の調査で新たに三名の慰安婦が貯金をしていた事実が判明し、内二名の貯金原簿調査が郵政省内で行なわれている。また、台湾の慰安婦二名(故人)の貯金通帳も確認されている。
 これらの事実からも、軍事郵便貯金原簿は、慰安婦関係の資料としては第一級の証拠資料的価値があるのである。(略)
 今アジアから問われていること
(略)「お金が欲しいわけではない、私の貯金が持つ歴史を考えると、日本に置いておくのが辛いのです」と訴える彼女の貯金が、将来日本の国庫に入り、我々や次世代の「幸福追及権」のために使用されるとすれば、間違いをく「確信犯的戦後犯罪」である。私たちはそれらを問い、貯金返還のために、一九九四年六月四日に山口地方裁判所下関支部に提訴をする。また、貯金の支払いの立法化を求める動きも始まっている。
 戦後補償という「うねり」の中で、個人の賃金、貯金の未払いは、「問題の一端」に受け止められがちである。しかしその「一端」を丁寧に解決する姿勢こそが、実はアジアから問われているということを、我々は文玉珠さんの言葉を通して幾度も確認するのである。
ーー
ひろさきりゅう一九六〇年、山口県生まれ。「文玉珠さんの軍事郵便貯金の支払いを求める会」代表。「戦後補償問題研究会」の「軍事郵便貯金」の項、「ハンドブック戦後補償(梨の木舎)の「軍事郵便貯金」の項を執筆。
ーー(引用終わり、全文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります)
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侵略の50年、敗戦から50年 週刊金曜日38号

週刊金曜日38号 1994.8.12より引用。 天皇制への書簡 
侵略の50年、敗戦から50年 大江志乃夫
 永い日本の歴史をふり返っても、伝説は別として、史料的に証明できる日本の外征戦争は、古代から明治維新まで二度しが記録されていない。最初は六六三年、百済の再興を支援するために朝鮮半島に出兵し、唐・新羅の連合軍に白村江で大敗した戦争である。二度目は一五九二年から一五九八年まで、豊臣秀吉による再度の朝鮮侵略戦争であり、朝鮮水軍が海上権を翻して日本軍の補給を絶ち、朝鮮各地に孤立した日本軍の敗勢が明らかなとき秀吉が病没したので、日本軍はいそぎ撤兵した。歴史的にみて、日本は決して外征戦争が好きな国でも、外征戦争が得意な国でもなかったことが、この事実から知られる。
 日本歴史のなかの特異な五〇年
 その日本に例外的な時代があった。一八九四年から一九四五年までである。今年、一九九四年からちょうど一〇〇年まえの一八九四年、日本は日清戦争の開戦で朝鮮侵略を開始した。それ以後、中国の民族反乱鎮圧の一九〇〇年の義和団戦争、一九〇四年開戦の日露戦争、一九一四年参戦の第一次世界大戦、一九一八年のロシア革命干渉のシベリア出兵、一九二八年の中国革命干渉の山東出兵、一九三一年の満州事変、一九三七年戦の日中戦争、一九四一年開戦の対米英戦争をへて、一九四五年の無条件降伏にいたる。(略)
 しかし、日本が近代国家として発展するために、戦争は必要だったのだろうか。
 日本とはほおなじ時期に欧米に国をひらいたアジアの独立国に、一八五五年にイギリスと通商条約(ボウリング条約)をむすんだタイがある。(略)アジア・太平洋戦争に際して、タイは日本の武力的強制により日本の軍事行動に追随したが、仏領インドシナ(インドシナ半島)との国境紛争における武力衝突を除いては、本格的を対外戦争を起こしたことはなかった。(略)
 一〇〇年前、一八九四年七月二三日
 近代日本の戦争と侵略の最大の被害者も朝鮮であった。日清戦争は朝鮮の支配をめぐって、朝鮮国内を戦場として開始された戦争であった。日本軍が最初に戦闘行動の対象としたのも、清国軍ではなかった。一〇〇年まえの一八九四年七月二三日未明、ソウル南部に駐屯していた日本軍は、連隊長が指揮する一個大隊に朝鮮王宮(景福宮)を夜襲で占領させた。王宮警護の朝鮮国軍は、当然、日本軍の奇襲攻撃にたいして抵抗し、戦闘がおこなわれた。日本軍が王の身柄を確保し、戦闘中止命令を出させたのち戦闘は終息した。対清開戦にあたって、日本軍の最初の作戦行動が、朝鮮王宮を占領して国王の身柄を約束するために、朝鮮国軍との交戦によって始められた事実は、もっと強調されてよい。(略)
 一九〇〇年から翌年にかけて、つまり一九世紀の最後の年と二〇世紀の最初の年に、地球上で、南アフリカでイギリスがオランダ系ボーア人の植民国家を併合するためのボーア戦争をたたかい、アメリカがスペインから解放されたフィリピン独立戦争を鎮圧するためにたたかい、日本軍を主力とする列国連合軍が義和団戦争をたたかった事実は、特筆すべきできごとであった。(略)
 イギリスは、ロンドンを世界の金融市場の中心たらしめている中国金融市場の保護を日本にたよることになり、一九〇二年に日英同盟をむすび、日本を「極東の憲兵」として、中国の民族運動とロシアの中国侵略の防壁にしたてた。その結果が一九〇四年に始まる日露戦争であり、旧露戦争は、公然たる朝鮮の日本植民地併呑戦争であった。それ以後、朝鮮国民の惨澹たる苦難の歴史が始まる。同時に、日露戦争によって、日本はロシアの利権であった中国東北南部(南満州)の利権を獲得した。朝鮮を「日本の利益線」とした日本が、南満州を「日本の生命線」とするにいたった。なぜ「生命線」なのか、「生命線」が日本の国家的存立にとってどのような意味をもつのか、説得的な説明がまったくないままに、日本は「生命線」を守れというスローガンのもとに満州事変を引き起こし、昭和の一五年戦争に突入した。
 日本の植民地支配を特徴づける「皇民化」
 (略)しかし、日本の朝鮮植民地支配の実態研究でさえ、十分にすすんでいるとはいいがたい。(略)
 たとえば、憲兵政治の全時期を一身に担った人物の経歴や業績さえも、いまだに明らかでない。第三次日韓協約締結後に「韓国駐箚憲兵に関する件」が定められ、内地および台湾の憲兵の任務が「主として軍事警察を掌り」と定められていたのにたいし、「韓国に駐箚する憲兵は主として治安維持に関する警察を掌り」と、その主任務が治安警察にあることを明示した。このとき第一四憲兵隊(韓国駐箚憲兵隊)長に任命されたのが、日露戦争中にヨーロッパで謀略工作に活躍した明石元二郎少将(注4)であったが、明石のもとで第一四憲兵隊副官に起用されたのが予備役憲兵少佐山形閑であった。
併合断行の前提として寺内が韓国統監に就任すると、明石が韓国駐箚軍参謀長から韓国駐箚憲兵司令官兼警務総監になり、山形はそのもとで高等警察の主任となり、明石は就任訓示で「当司令部に於ける高等警察の事務は主任を山形中佐とし…就中予の最も重きを置くものは、韓国の治安並に危険の予防なりとす。諸子須らく高等警察に深き注意を払ふを要す」とのべた(『明石元二郎』下)。 山形は間もなく憲兵大佐、総督府警務総監部の筆頭課長である高等課長となり、一九一七年四月の定年までその職にあり、少将に進級して退職した。山形こそは、朝鮮の憲兵政治時代の全期間を人格的に表現した人物であった。しかし、この山形という憲兵将校の経歴・業績がいっさい明らかでない。なぜなら、将軍にまで昇進した山形は一度も陸軍の現役将校であったことがなく、予備役将校のまま憲兵大佐にまで昇進したというめずらしい経歴の持主であり、陸軍現役将校の人事名簿にその名が登場しないからである。朝鮮植民地支配の現場の要の地位にありつづけた、この謎めいた高官の素性さえ明らかにできていないことに、現在の日本の植民地支配研究の立ち遅れた側面がしめされている。(略)
 この「皇民化」すなわち天皇の忠実な兵士となって戦場に送られ、死ぬことが朝鮮植民地支配の究極の目標とされ、したがってその実現をめざす政策を特徴づけた。天皇の軍隊の兵士となって死ぬことが「皇民化」の頂点であれば、戦争協力のための労働力として強勧徴用されて各地の鉱山や飛行場建設のために連行され、あるいは天皇の軍隊の兵士たちの獣的な欲望充足のために女性が強制連行されるのは、その対照としての底辺的な「皇民化」であり、これまた有無をいわさぬ強制であった。
 「公民化」の代償の残酷さ
(略)戦争末期に、私は九州の三池炭鉱で入坑をまつ、その多くが強制連行によると思われる朝鮮人労働者の無言の列に接したことがある。それは、これらの労働者群にもつうじる、残酷さと無念さであろう。ビルマ戦線で総くずれの日本軍が退却するにあたって置きざりにされ、シッタン川の濁流に飲みこまれて溺死した朝鮮人「慰安婦」の一群、太平洋の孤島の飛行場建設に駆りだされ、守備隊とともに「玉砕」を強いられた朝鮮人徴用労働者、いまなおサハリンに置きさられたままの朝鮮人強刺連行労働者、戦後に生きのこることができたこれらの人々の家族や仲間にとって、日本の「戦争の時代」の五〇年は、日本の降伏をもって終わらなかった。
 日清戦争に始まる「戦争の時代」の五〇年、日本の敗戦後の平和の五〇年という考え方は、平和と繁栄の戦後五〇年を享受した日本人についてのみ言うことができる時代の区切り方であり、日清戦争に始まる日本の侵略の苦難をなめた側には、いまだに日本の「戦争の時代」の二〇〇年がつづいている。この戦後五〇年の受止め方の違いに、日本人とアジアの諸国民の歴史感覚の相違があり、改めて日本の戦後責任、そして天皇の戦後責任が問われている。
 (注4)あかし もとじろう一八六四~一九一九 一九〇四年の日露開戦ではストックホルムで、革命下のロシア内情の諜報活動に従い、欧州各地の過激派と接触、革命家に資金を提供するなど、ロシアの後方撹乱工作を展開した。八年韓国駐箚軍参謀長、一〇年同憲兵隊司令部、警務長官を兼務、日韓併合時の朝鮮義兵運動を弾圧した。
ーーー
おおえ しのぶ・一九二八年、大分県生まれ。茨城大学名誉教授。著書に『靖国神社』『日露戦争と日本軍隊』『参謀本部』などがある。
ーー(引用終わり、全文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります)
一読した感想。
・国民に何の説明もないまま、自衛隊の海外派遣に猛進する安倍がダブル(なぜ国内に1年分の石油備蓄があるのにホルムズ海峡の掃海艇派遣が必要か)。
・「皇民化」すなわち天皇の忠実な兵士となって戦場に送られ、死ぬことが朝鮮植民地支配の究極の目標とされたが、いまや日本国民がそのターゲットになりつつある
・このような研究を続ける学者は自民党にとり都合の悪い存在であるため、人文学系学部の廃止を国立大学へ指示している。

ビルマの慰安所と商社 週刊金曜日第61号

週刊金曜日第61号 1995.2.10 P22~24より引用。
発見された旧日本軍の"史料" ビルマの慰安所と商社

これまで、ビルマの慰安所については公文書による裏付けがなかったが、昨年の夏、イギリスで何点かの史料が発見され、慰安所への軍の関与、さらに商社員の慰安所利用に便宜を図っていたことなどが明らかになった。戦後になっても身落とされていた史料について、発見者の林博史氏に解説、真相を究明してもらった。  林博史
 手つかずだった「慰安婦」調査
(略)「従軍慰安婦」問題については、国内でも警察や法務省などの資料が公開されていないし、海外の史料調査や関係者からの聞き取り・史料収集などやるべきことばまだまだ残っている。にもかかわらず、日本政府は真相解明はもう棚上げし、民間募金でけりをつけてしまおうというのである。
 さてアメリカの日本軍関係史料については、研究者やマスコミも注目をし、「従軍慰安婦」問題についてもいくつか貴重な史料が見つかっている。しかしイギリスについては手がつけられていなかかった。ビルマやマレー半島などは元イギリスの植民地であり、戦争末期にはイギリス車がインドからビルマに攻め込んできた。さらに日本の敗戦後には、マレー半島やインドネシアなどに上陸し日本軍の武装解除にあたったことから、これらの地域の日本軍関係史料をイギリスが詰っていることは十分に予想された。
 昨年の夏に私が訪英した際に、マレー半島の華僑粛清=虐殺などに関する更史料とともにビルマにおける日本軍慰安所に関する史料も見つけた。ここではこの慰安所に関する史料について紹介したい。
 軍と商社の結びつきを示す記載
 ビルマについては、これまで慰安所に関わる旧日本軍の公文書はまったく見つかっていなかった。多くの旧日本軍史料が所蔵されている防衛庁防衛研究所図書館からまっビルマ関係は報告されていない。もちろん日本軍関係者や慰安所の業者、元慰安婦の方々などの証言によりビルマの各地に日本軍の慰安所が設置されたこと、ビルマ人女性の慰安婦もいたことなどは明らかだったが、公文書の裏付けがなかった。そのためか、日本政府が一九九三年八月に発表した調査鰭果「いわゆる従軍慰安婦問題について」(内閣外政審議室)においては、「慰安婦の出身地」の中にビルマが入っていなかった。つまりビルマ人慰安婦の存在を、日本政府は認めていないのである。
 今回発見した史料は、ロンドンのインペリアル・ウォー・ミュージアム(大英帝国戦争博物館)の史料部に所蔵されている文書である。おそらく、ビルマ戦線でイギリス軍が日本軍から没収したものと推定される。
 この史料の表紙には、『昭和十八年 諸規定綴 第三六二九部隊』と書かれていた。第三六二九部隊とは、ビルマ中部の都市マンダレーに駐屯していた野戦高射砲第五一大隊のことである。この綴りの中には、マンダレー駐屯地司令部などが定めたさまざまな規定が綴じられている。その中に、慰安所に関するものが四点あった。交通の要衝であるマンダレーは日本軍の補給・集積・輸送の拠点であり、兵站など後方関係の部隊が駐屯していた。
 最も興味深い史料は、一九四三年五月二六日、マンダレー駐屯地司令部が定めた「駐屯地慰安所規定」である。これは全二三条、別紙二枚からなる規定である。これまで中国、フィリピン、マレー半島、沖縄などでの慰安所規定が見つかっているが、それらと比較して特徴的なことは、商社員らに慰安所利用の特別な便宜を図っていることである。まず関連する条項を紹介しよう。
 第二条 慰安所ハ日本軍人軍属二於テ使用スルヲ本則トスルモ軍人軍属ノ使用ニ支障ヲ与へサル限度二於テ左記各項ヲ厳守ノ上当分ノ中「マンダレー」在住ノ日本人ハ二四・三〇以降二限り特二登楼ヲ許可ス従ツテ二四・三〇以前二於ケル立入リハ之ヲ厳禁ス
  左記
l.軍人軍属ノ遊興ヲ妨害セサルコト
2.規則二違反シ又ハ風紀ヲ紊スカ如キ行為ヲナサゝルコト
3.登楼時刻以前二於ケル予約ヲ厳禁ス
4.料金ハ総テ将校ノ額トス
5.前各項二違背セル者二対シテハ許可証ヲ引上ケ爾後立入ヲ禁止スル外其ノ行為ノ如何二依リテハ其ノ商社ハモトヨリ日本人全部ヲ禁止スルコトアルへシ
 但シ奥地等ヨリノ来縁者ニシテ右ノ時間以降二登楼シ得サル特別ノ事情アルモノニ限り日本人会長ハ自己ノ責任ヲ以テ其ノ都度予定時間資格氏名等ヲ記入セル証明書ヲ本人二交付シ之ヲ楼主ニ明示スルニ依り開業時間内適宜登楼スルコトヲ得 
(略)
 日本の軍政下で日本企業進出
(略)マンダレーに関わりがありそうな事例をいくつか紹介したい。た
とえばビルマ物資配給組合が組織され、そこーで砂檻・塩・石炭・マッチ・タバコ・繊維製品・雑貨類などを扱った。この配給組合は当初、三井物産・三菱商事・日本綿花(のち日綿実業)・安宅商会・三興の五社で構成され、のちに東綿・江商・千田商会・鐘淵商事・丸永・大丸が加わって一一社で構成された。この配給組合の下に、金塔商会・東洋商会・大原商会など二社が卸商として配給に関わった。配給組合の支部の一つは、マンダレーにもおかれていた。
米の買付・集荷・保管・積み出しは、日本ビルマ米穀組合(三井物産・三菱商事・日本綿花の三社で構成)が担当した。綿花の栽培・集荷・綿花工場の経営には、日本綿花栽培協会(日本綿花・江商・富士紡績・中央紡績の四社)があたり、マンダレー地区は中央紡績が担当した。木材の開発・製材・配給は日本ビルマ木材組合(三井物産・三菱商事・日本綿花・安宅商会の四社)が担当し、マンダレー地区でも四つの製材工場を経営した。ほかにマンダレー地区では、高砂麦酒がビール工場(のちに物資不足のため味噌・醤油工場に転業)を、日南農林工業がマッチ工場を経営していた。またこのマンダレー地区での皮革なめし用のタンニン材料の買い付けは三菱商事が担当、原皮の開発・改善については兼松商店が担当し、日本原皮に売却していた。マンダレーから北東に入ったボードウィン鉱山は、鉛・亜鉛・銅などを産出する重要な鉱山で軍直営になっていたが、実態は三井鉱山が運営していた。ほかに各地の鉱山や工場などの経営が日本の企業に委託されているが、ここでは省略する。
 このようにさまざまな物資の買い付けや配給、事業経営に多くの商社をはじめ、日本企業が関わっていた。ビルマでは三井物産・三菱商事・日本綿花が深く食い込んでいたように見られる。これらの商社員たちの中で、中北部にやってきてマンダレーに立ち寄った者も多かっただろう。その彼らは、軍慰安所利用の便宜を受けられる立場にあった。
ビルマ軍政を担当した第一五軍司令官だった飯田祥二郎は、戦後ビルマ軍政を回顧した中で、(略)。さらに「彼らはビルマに在る利権は之を日本人の手に入れ、将来に亘り之を経営して行くものだとの基礎観念の上に立ち」、「ビルマ経済力増進強化のため、逐次ビルマ人にその方を持たせるように考慮を廻らすというようなことは、全然念頭にないというてもよい。このような日本人がどんどん進出してきて、各方面で威張りちらして働き出すのだから、ビルマ人の頭にこれが何と映ったであろうか」と述べている(『史料集南方の軍政』)。(略)商社が軍との関係を活用して慰安所を利用していたとするならば、当然、その責任も共有されなければならないだろう。軍と結びついて、ビルマから経済収奪を行なったこととともに。
 防衛庁にも関連史料が
 もう一つ興味深い史料は、一九四五年一月二日にマンダレー駐屯地司令部によって制定された駐屯地勤務規定の中に別紙として付けられている、慰安所の一覧表とその地図である。「軍指定車准指定食堂慰安所」と題された表には、飲食店八店とともに軍指定慰安所五軒と軍准指定慰安所四軒が掲載されている。ここに慰安婦の出身を示すと見られる項があり、指定慰安所の一つは「内地人」がおり「将校慰安所」となっている。残りの指定慰安所は「広東人」のもの一軒、「半鳥人(朝鮮人)」のもーの三軒となっている。准指定の四軒はいずれも「ビルマ人」であり、そのうち一軒は「ビルマ兵補専用」と記されている‥つまりこれら九軒の慰安所には日本人と朝鮮人だげでなく、中国の広東からも慰安婦として連れてこられ、また現地のビルマ人も慰安婦にされていたことがわかる。
 兵補とは日本軍が補助兵力として占領地の住民から採用したもので、日本軍の下請けをする植民地軍のような存在である。(後略)
・・・・・・・・・・
はやし ひろふみ一九五五年生まれ。関東学院大学助教授。日本の戦争貸任資料センター研究事務局長。主著に。『華僑虐殺』(すずさわ書店)など。
 引用終わり、全文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります。

731部隊を追って 最終回 週刊金曜日1994.11.25号

週刊金曜日1994.11.25号P40-P43より引用。 西野留美子

敗戦後、七三一部隊は戦争責任を追及されることなく、アメリカの細菌戦争に取り込まれていった。戦後の医学界は、七三一部隊の残党に支配され続けた。注目の連載最終回。
 731部隊とペンタゴン 
(略)一九七四年二月二三日、第七二回会衆議院予算委員会では、楢崎弥之助議員がアメリカのペンタゴンから研究費の供与を受け研究を委託されている日本の大学・研究機関の一覧表を提示し、その説明を求めた。
 研究の内容であるが、たとえば東京大学では、大気汚染性物質の動物免疫過程におよぼす影響に関する研究、京都大学では分子レベルにおけるウイルス宿主相互関係に関する研究、神経組織のミクロゾームの物理化学的生化学的研究、群馬大学では臭覚の受容機構に関する神経生理学的研究、国立癌センターではデング熱ショック症候群の場合の人体血清、補体成分の測定……という多岐にわたった内容である。(略)
 政府は隊員名簿を保管
 東京裁判で免訴された七三一部隊は、その全貌を国内にも明らかにされることなく歴史に潜行を続けたが、一九八二年四月に開かれた内閣委員会では、榊委員が軍人恩給に関連して、七三一部隊の問題について質問を行なった。今から二一年前のことである。
 榊 旧満州、つまり中国の東北地方にいました旧軍人のうちで、関東軍防疫給水部(七三一部隊)に所属していた軍人軍属などがいます。そ
のうち恩給官員、つまり恩給を受ける公務員、これは何人いたのか、それから非恩給官員は何人だったのか、資料はございますか?
 森山説明員(援護局業務第一課長) 関東軍防疫給水部、通称石井部隊という部隊でございますが、この部隊の復員者、つまりお帰りになった人のうちで恩給公務員の数、恩給公務員の数と申しましても、普通恩給の年限の資格があるかどうかわかりませんが、一応身分的に恩給公務員となるという人の数を申し上げます。私どもで保管しております留守名簿という名簿がございまして、これは昭和二〇年一月一日現在で外地に売った部隊所属名簿でございます。これは終戦後も残務整理で復員の記録などを書き込んだものでございます。これによりますと、将校が一三三名、准士官、下士官、兵、これが二五二名、それから文官と申しますが、これは技師とか技手、それから属官でございますが、これが二六五名、合計一五五〇名です。それから恩給公務員でない人、つまり雇傭人が主体でございますが、この方々が二〇〇九名。以上でございます。
榊(略)いまの数字を合計しますと、約三五〇〇名を超える数字が出てまいります。これは今までどこでも開けなかった新事実であります。(略)
 また、支部についても、政府はその人員を明らかにした。
榊 (略)ところでもうひとつお尋ねいたしますが、政府の持っておられる資料では、防疫給水部本部はハルビンに本部があって、そのほかに
五つ支部があったはずでありますけれども、これを合わせますと、そこの軍関係者はいくらいたのでしょうか。
森山 私の方に部隊略歴というのがございまして、これを見ますと、昭和二〇年六月一五日の時点でございますが、配置状況が書いてあるわけでございます。これによりますと、本部がハルビンにあったわけでございますが、ここに約一三〇〇名、それから支部がハイラル、これがー約一六五名、それから牡丹江約二〇〇名、孫呉約三二ハ名、林口約二二四名、大連二五〇名。約一三六名というのはちょっとおかしいのでございますが、これは書いてあるとおりに私申し上げているわけでございます。これを足しますと約二三〇〇ぐらいになるんじゃないかと思うのですが、これはいま申し上げました軍属なんかが入っていないのじゃないかというふうに推定しております。
榊 ほぼ明らかになつてまいりました。おそらくその二三〇〇名といのが、石井細菌戦部隊の終戦時の軍籍要員とでもいいますか、そういう者だろうと思います。それを含めまして膨大な二五〇〇名に上る陣容を構えていた。(略)
 これまで七三一部隊員は約三〇〇〇人と推定されてきたが、政府答弁により三五〇〇人という数がすでに確認されていたということになる支部を合あせれば約五八〇〇人。政府は少なくとも、こうした留守名簿とともに部隊略歴を持っているのだ。
 七三一部隊員の戦後
戦犯免責後の「七三一」の行方は、非常に関心が向けられるものである。七三一部隊の「軍神」石井四郎が喉頭ガンのために死去したのは、一九五九(昭和三四)年一〇月九日のことだった。新宿区若松町の自宅で激動の人生に終止符を打った彼はまだ六七歳という若さであった。
 一〇月一一日に青山葬儀場で行われた石井の告別式には、定刻より早い時間に結核・性病の研究班長であった二木秀雄や、植物研究班長であり教育部教官であった八木沢行正などが姿を見せ、式場は次第に訃報で駆けつけた元隊員の姿であふれた。葬儀委員長は、一時期七三一部隊長を勤めた北野政次であった。
 七三一部隊の戦友会は、現在も全国各地で毎年開かれている。その戦友会のひとつである精魂会が発足したのは、敗戦一〇年後の一九五五(昭和三〇)年のことだった。その二年後には、元少年隊を中心にした房友会が発足している。石井四郎が隊員たちの前で演説を行なったのは、おそらくその房友会の結成大会(一九五八年八月)が最後だったろう。「本日ここに少年隊の若さにあふれた元気はつらつたる姿を見て、大変うれしく思う。この機会に、七三一部隊の真の任務は何であったかということと、少年隊設立の意義を説明する」。挨拶に立った石井は、興味深い話を始めた。「第一に、七三一部隊の任務は、一口に言って日本国家、日本民族を救う研究機関であった。私は昭和二年より昭和五年にかけてイタリア、ドイツ、フランス、ロシアの各国へ秘密探偵として潜入した。(略)
隊長をはじめとして幹部クラスにいた隊員たちの多くは、戦後、大学や研究機関などの医学界に身を置いた。北野の場合、陸軍軍医学校の教官だった内藤良一や「七三一」の結核・性病研究班長だつた二木秀雄、濾水器や細菌入りの陶器爆弾を製造した宮本光らと、日本ブラッドバンクを設立した。後のミドリ十字である。
 凍傷実験や生理学研究班長だった吉村寿人は、京都府立医科大学の学長にまでなり、北野と共に南極観測特別委員となった。また、生体解剖などを手がげだ病理班の斑長岡本新造は、京都大学医学部の部長、近畿大学医学部の部長に、薬理研究班長の草味正夫は昭和薬科大学教授、孫呉熟などウイルスの研究を進めた笠原四郎は北里研究所へ、ざらに国立予防衛生研究所には、赤痢研究班長だった江島真平、植物班長だった八木沢行正らの姿があった。
 医学関係だげでなく、航空班の増田美穂は、防衛大学校の教授になっている。そのよしみで、戦後自衛隊に身内の就職の世話をしてもらったという元隊員もいる。
 一方、下級隊員たちはどうであったのだろう。彼らの戦後を調べていた私は、取材中に興味深い話を耳にした。それは元隊員が戦後、原爆被害による傷害状況を医学的見地から調査するアメリカと日本(国立予防衛生研究所=以下予研)の合同調査機関ABCC(Atomic Bomb Commission・原爆傷害調査委員会)に就職していたという事実であった。日本での細菌、ウイルスなどの研究のトップ機関であった予研に、いみじくも江島や八木沢の姿があったことはすでに述べだが、所長クラスをみていくと、その顔ぶれが「七三一」やその関連機関の中枢幹部たちであることに気づく。七三一の姉妹部隊のひとつ、南京の一六四四部隊に関わっていた東大伝染病研究所教授の小島三郎も、そのひとりだった。
 予研は戦後、四〇六部隊と言われていた在日アメリカ陸軍の「細菌兵器」研究部隊と密接な関係を持っていた。先に紹介した日本の研究機関に研究費を供与していた部隊こそが、この四〇六部隊であった。その予所はさらにABCCとの協力関係を作り、原爆傷害調査をしていたわけである。ABCCの研究員は複数の大学から派遣されており、その関係で京都府立医大にいた元七三一部隊凍傷班長だった吉村寿人も、たびたびここに姿を見せていたのだ。
(略)ここに詳細に書ききれないほどに、七三一部隊の戦後は、アメリカの細菌兵器研究機関などと陰に陽に密着し協力関係を作ってきた。
現在の生物兵器開発のルーツに「まさか」の戦慄を覚えるのは、私だけではあるまい。    (完)

にしの るみこ・ルポライター。七三一研究会事務局長。著書に。「七三一部隊の話」「従軍慰安婦のはなし」(明石書店)など。
ーー引用終わり、全文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります。

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