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南京大虐殺 杭州湾から南京へ3 週刊金曜日51号

南京大虐殺 杭州湾から南京へ3 週刊金曜日1994.11.18号 本多勝一 P52~53より引用。
 長興市が占領されたときの様子をつづけよう。
 馬巧林さんは一九歳だった。「むかしのことはあまり話したくありません」と、体験を語るまえに彼は言った。ー「話すと涙がでてしまうものですから。両親がころされて、・・・でもあなたは日本侵略軍の犯罪をしらべにきたとのことですから、あえて話します」
 母が強姦され、父も
(略)両親は家から二〇〇メートルほどはなれた墓地にかくれていた。村のあちこちで家に放火され、煙があがっている。自分の家がどうなっているのか気が気でなくなった母は、家がみえる位置まで出ていったらしい。日本兵につかまってしまった。家のまえの畑で強姦された。母の死体は下半身がはだかにされ、局部を切りつけた斧がそのままつきささっていた。
 母がもどらないので、父も墓地から出ていったが、日本兵が母をつかまえて何人もかこんでいる様子を遠くからみたらしい。動転した父は半狂乱となって泣きながら西のほうへむかう姿を村人たちはみていた。たぶん子供の避難先へゆくつもりだった。だが家から二キロほどはなれた桃家橋で日本兵につかまった。首を切られてころされた。
P53(略)いっばうあまりに悲惨な母の死体には 日本兵が去ってから村人らがとりあえずワラをかぶせた。ところが二、三日してまた日本兵があらわれたとき、このワラにも放火したので、上半身の着物も髪も焼けた。一カ月後に柩を用意して馬さんが家にもどったとき、母の死体はこんな有様のままであった。、馬巧林さんはこのようを体験を語った。このあくる年の六月、一五人が「蒸殺」(湯気で蒸しころす)される事件があったが、南京攻略戦後のことなので省く。
 妻が強姦され、娘も・・・
(略)方家浜村には、阿南省からきた馮毛頭という若い農民がいた。妻(25)と女児(3ツ)の三人家族だった。三人の日本兵が突然あらわれ、馮は逃げたが妻がつかまってしまった。
 夕方になって湾がもどると、家は焼かれ、妻は外で強姦されたあと腹部を銃剣で突きさされて殺され、その死体の上に三歳の娘も死んでいた。娘は心臓部をひと突きにされていた。外にひきずりだされた母を女児が追ってすがりついていたのではないかと、村人たちはあとで想像した。妻子の惨劇に衝撃をうけた馮毛頭は、すぐに方家浜(沼) にとびこんで自殺した。自殺したときは陳千忠という馮の隣人が目撃していて、あとで周さんに話した。
 広徳も占領・皇軍破竹
 (略)
つづく
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七三一部隊を追って第三回 週刊金曜日1994.11.18号

731部隊を追って 第三回 週刊金曜日1994.11.18号 P42~45引用。
魔界の記憶 西野留美子
 生体実験の犠牲になった多くは死刑囚だったが、裁判にかけられぬまま「特移扱」により、731に送られた。国家の作った「法律」によって、「実験材料」は供給されたのだ。
 しゃべることの重さ
(略)「たびたび飛行機で安達実験場に行ったよ。実験に使う『マルタ』を飛行機やトラックで運んだこともあった。安達で細菌の投下実験をするときは、逃げないように何メートル間隔かで『マルタ』を杭に縛りつけて立たせ、その頭上から細菌ネズミが入っている細菌弾を落下したわけだ。
 飛行機には、操縦していたわしの他に、整備士、観測士、通信士が乗っており、連携して作業にあたった。たとえば『高度一〇〇〇』と言うと、スイッチを押す。そうすると飛行機の胴腹から爆弾が落ちるわけだ。ヒュッヒュッヒュッって落ちていく。たいてい一個の爆弾に二五匹から三〇匹の細菌ネズミが入っておって、それを四、五個落とした。早くて四、五日おきに、一週間、二〇日と間を開けてやったこともある。通常の実験で使ったのは、三人から五人ぐらいの『マルタ』だ。
P43(略)731部隊石井三男班の労工として雇われていた方振玉さんは、こう話す。
「私の仕事は、あそこで飼っていた動物の餌を運ぶことでした。一九四四年のある日のことです。その日はいつもと違って、ものものしい警戒体制でした。荷物を届けにいった私は、衛兵所の建物に閉じ込められたのです」
 衛兵所の建物に閉じ込められてまもなく、貨車が入ってくる音がした。机の上に乗り、透明ガラスになっている部分からこっそり外を見ると、異様な光景が飛び込んできた。貨車の中から、ひとりの首ともうひとりの足が一緒に縛られた状態の二人一組が、次々に下ろされているのだ。彼らはまるで物体のように手押し車に重ねて積まれ、防薗衣を纏った日本人が彼らを中に運び込んでいった。
「縛られていた人の中には、頭を動かす人もいた。あれは死体ではなく、生きている人たちだったと思う」。全員の生死については分からない。この場面は、中国人労工の張喜財さんも目撃したという。
 「実験後」の人々
P44(略)現在東北烈士紀念館になっている建物こそが、当時のハルビン市警察であるが、ここにも「マルタ」にされる人々が収容されていたということになる。
 臨陣格殺
 ところで七三一部隊特設監獄に移送され、生体実験にさらされた人々とは、いったいどういう人たちだったのだろうか。言い換えれば、なぜ、このようをことが可能だったのだろうか。
 この質問を元隊員に向けると、彼らの多くが「実験に使われた大人は、死刑囚だった。死刑執行の場として、七三一に送られた」という。ということは、彼らは裁判あるいはそれなりの手続きを経ていたのだろうか。
 一九三八年一月二六日付、および一九四三年三月二日付で、「特移扱ニ関スル件通牒」が出されている。これにより、裁判なくして七三一送りが「法的」に可能になった。「特移扱」される対象者とは、「敵方のスパイの場合、何度逮捕されても活動を停止しない者、逆スパイとして利用が不可能な者、そして絶対に口を割らない者である。それ以外の人間の場合、思想犯、すなわち民族主義者および共産主義者で、罪状重く死刑が確定的な者、あるいは罪状は軽くても、その釈放が日本軍にとって不利となるような者」であったという(海鳴社『消えた細菌戦部隊』常石敬一)。つまり「特移扱」により、裁判にかけなくとも関東軍司令官の裁断さえ下りれば、彼らを七三一に移送することができたわけだ。
P44 性病研究
(略)「女には、特別の研究をしておった。二木班では、結核研究の他にも、梅毒など性病の研究もしておった。女に梅毒を植えつけて感染経過を観察したり、ときには直接感染実験といって、実験のためにセックスさせたりすることもあった。俺も『マルタ』どうしに性交させるのに立ち会ったことが、そうさなあ、二、三度あったかねえ。抵抗はできん。監視されておるわけで、拒否することも逃げることもできん。その結果、妊娠した女もおった。子供を産ませたり、その子供を実験に使ったことも聞いたさね。」収容女性には性病の実験が施れたというが、いったいなぜ、細菌部隊で性病の研究をする必要があったのだろうか。(略)
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南京大虐殺 杭州湾から南京へ2 週刊金曜日50号

南京大虐殺 杭州湾から南京へ2 週刊金曜日1994.11.11号 P56~59より引用。本多勝一
 湖州市に「東洋鬼が来た!」
(略)手伝いが帰ったあと、家族でブタ肉を卓上においたとき、はげしく戸をたたく音がした。ただごとではない様子に日本兵来寇を察知した五人は、あわてて寝台の下にかくれた。けれども戸を閉めてある横木が、観音びらきの隙間から鋸で切られはじめた。これでは危いとみて、楊さんたちは寝台の下から出ると、裏口から脱出した。しかし岳父の崔馮貴は非常な高齢だったのでそのまま残り、四人がバラバラに散っていった。叔父の楊老四は、竹垣を越えて一〇メートルほど走ったところで射撃された。「助けて」とさけぶ声を、叔父の妻も岳父もきいだが、助けに行ける情況ではなかった。叔父の妻は桑畑にかくれた。楊さんと弟の二人は西のほうへ走った。さきに避難した七人の家族がいる村を念頭においてのことである。ところがまもなく、腰をおろして休んでいる日本兵たちの眼前に出くわしてしまった。日本兵たちは、意味不明の動作をしながら二人に何か言った。よくわからぬが、どうも「あっちへ行け」とでも言っているらしい。弟もそう思ったのか自宅の方へ歩きだしたが、七メートルほど離れたとき、日本兵はすわったままの姿勢で発砲し、射殺した。
 日本兵はつぎに楊さんにも同じ動作をした。(本多注--遊び半分に標的にしていると考えられる。)弟と同様に射殺されると思ったので、どうしていいか判断もつかぬまま動けないでいると、日本兵の一人が銃の台尻で楊さんの頭をたたきのめした。倒れると同時に楊さんは気絶した。
 一部始終を、近くのにご(わら積み)にかくれて見ている「陸」という男がいた。陸によると、楊さんはこのとき銃で三回なぐられて大量に出血したという。これが正午ごろのこと、日本兵は午後三崎ごろ去ったが、もう殺したつもりだったのだろうと楊さんは考える。陸が楊さんの家に行って、無事だった叔父の妻と岳父(崔馮貴)に知らせ、三人で楊さんを家へはこんだ。楊さんはこのときまで気絶していた。叔父と弟の死体も三人がはこんだ。
 三日のちになって、死んだ二人のために柩を買いもとめ、裏のあき地に埋葬した。楊さんはそれから二年間ほど起きあがれなかった。(略)
 日本兵たちは捕虜を運河岸に並べると、まず丸はだかに余るよう命じ、ついで銃剣でおどして運河にとびこませた。あまり深くはないので溺死したりはしないが、寒さはかなりのものだから、ひどいことには違いない。要するにこれは「いじめ」が目的なのであった。
 日本兵は捕虜たちを運河から空地へあがらせた。虐殺がはじまったのはそのあとである三、四人の日本兵が刀をもって待つところへ、まわりの日本兵たちが裸の捕虜をつれてゆく。すわらせられた捕虜のうしろから、刀をもった日本兵が首を切る。こうして五、六十人の捕虜が皆殺しにされた。
 三日ほどあとのこと、柏少年の隣家の、一歳年長の少年が、運河ぞいに走って遊んでいたとき、日本兵に標的にされて射殺された。
その父親の「陳」がこれを知ってとびだしたが、少年のところにかけよる寸前に陳も射殺された。
 柏登高さんは以上のように語った。連行された父は一週間ほどで帰されたが、二年後(一九三九年)にまた連行され、こんどは二年間の強制労働で衰弱しきって帰り、その一一日目に死んだという。
P58 ありふれた放火・射殺
  「花姑娘」の強姦・輪姦
 湖州の次の西の都市は長興だが、途中に李家老という小さな町がある。ここで五人が語った体験は南京陥落よりあとのことばかりだが、強姦事件が非常に多い。一例として輪姦事件だけ報告しておく。
 程関法さんは一三歳だった。日本軍来寇の翌一九三八年三月ここから四キロほど東北の洪橋という村に程さんが避難中のことである。家の前の庭であそんでいたとき、三〇人くらいの日本兵が突然あらわれた。分散して「花姑娘」(若い女性)を求め、家々をさがしまわる。
 程さんがいた家の隣家から、一七歳の娘がひきずりだされた。三、四人の兵隊が連行していった。そのあとの光景は見なかったが、のちにおとなから聞いたところによれば、正午ごろ大勢に輪姦されたという。
 その夕方、娘は川にとびこんで自殺した。死体がひきあげられるところは程さんも見た。
 
 この年の六月、程さんと弟は李家巷にもどり、徐連法の三人家族(夫妻と一〇歳の娘)と一緒の家に住んだ。
 その六月中のある日の午後一時ごろ、酔っぱらった四人の日本兵があらわれた。例によって「花姑娘」さがしである。このとき程さんの父母は労働者なので不在、徐も不在だったので、家には徐の妻・王美姐(仮名・三〇代)と程さん兄弟しかいなかった。
 この王美姐が四人につかまった。この家の家主は別の所にいて、二世帯で一軒を借りているかたちなので、土間をはさんで二間と各台所があり、その一方が徐夫妻の部屋である。彼女は自分の部屋でつかまった。「救命!」(助けて)という大きな叫び声をきいた。しかしそのまま、その場で輪姦された。
 その後、王美姐は寝ついたまま何日も起きてこなかった。
 程関法さんは以上のような体験を語った。(略)
P59 切断された纏足の小山
 (略)あるとき「金蓮橋に纏足の足がたくさん切断されて積みあげられている」という噂を聞いたので、午前六時ごろ家を出て四人くらいで見に行った。長英駅から北北西七〇〇メートルほどにある金蓮橋には、午前八時ごろ着いた。同行者は途中からふえて一〇人ほどになっていた。
金蓮橋は、金蓮寺にゆく道にかかる大きな橋だが、問題の「鰹足の堆積」はその近くの「小金蓮橋」のほうにあった。金蓮橋のかかる川(運河)の支流にかかる小さな石橋で、長さ一メートル半、幅六、七十センチ。一枚の石の板である。そして纏足は、その橋の上にではなく、橋のすぐ横の路上に積みあげられていた。橋幅と同じ広さの通いっぱいの直径で、高さ数十センチの円錐状に積まれている。かなり整然とした円錐状で、頂に足が一本立てられていた。靴をつけたままの足からはだしの足まで、また靴の色やシシュウ模様もさまざまだが、血だらけで靴か裸足かわからぬものもあった。切断面の肉はまだ腐らず、寒いので匂いもあまりない。見に行った者たちは恐怖と気色悪さとで、まわりをかこんだまま身をふるわせた。(略)
 市内の老人の話では、両足を切断された女性の多くは出血多量で死んだ。葉銀天さんは以上のような体験を語った。
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731部隊を追って 第2回 「朕」の命令の絶対性  週刊金曜日 1994.11.11号

週刊金曜日 1994.11.11号 P46~49より引用。 「朕」の命令の絶対性 西野留美子
「お国のため」「戦争のため」
 戦犯免責と保身
P47敗戦三年後の一九四八年一月二六日、帝銀事件が起きた。伝染病が発生したときだった。帝銀椎名町支店に現われた厚生技官と名乗る男が、消毒するからと銀行員に「予防薬」を飲ませ、一二名が亡くなった事件である。あのとき捜査線上に、731部隊元隊員が浮かんだ。当時警視庁目白署捜査本部の捜査一課係長であった甲斐文助警部は、日誌に捜査状況メモを記録していた。
彼の記録では、四月二七日に七三一部隊長であった石井四郎に会っている。そのとき、石井はこう話したという。
「おれの部下に(犯人が) いるような気がする。一五年、二〇年(たっても)、おれの力で軍の機密は厳格であるので、(部下は)なかなか本当のことは言わぬだろう。いつでもおれのところへ来い」。
また、七月になって行なわれた事情聴取の際にも、石井は「(犯人は)軍関係に間違いなし。自分もそう思う。七三一の各研究所でベスト菌の人体実験の際、生前に三日、四日、五日の症状を見るために殺して解剖した」と語っているというのだ(一九八七年五月二〇日『中国新聞』)。石井は隊員たちに七三部隊の秘密保持を厳命していたというが、にもかかわらず、裏ではこうした言動を行なっていた。(略)
P48石井が引き揚げのときに行なった緘口令を証言する元隊員は少なくない。しかし帝銀事件の捜査が末端の元隊員におよんでいるのは、下級隊員を含めた隊員名簿が「ある程度」わたされ作成されていたのではないだろうか。一九四七年三月一七日GHQ法務部は、「ハルビン試験所関係者名簿提出」を要求していた。この要求は、「ハルビン試験所に所属した将校、下士官、民間人を含む全ての日本人人員の完全なリストを英語で提出するように」という内容だったという(笹本征男・若松征男「細菌戦の戦後処理に日本政府がかかわっていた」『エコノミスト』一九九四年八月二三日号)。
笹本・若松両氏の調査では、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)資料の中に「関東軍防疫給水部将校リスト」が発見され、そこに一〇〇人の将校が記載されているという。
しかしGHQは、民間人(軍人以外の軍属らを指すのだろうが)のリストも要求しているわけで、「将校リスト」以外の名簿も作成されていたのかもしれない。(略)
 特殊社会の異常心理
 七三一部隊の姉妹部隊である北支那派遣軍甲一八五五部隊第二分連隊にI氏が配属になったのは、一九四三年のことだった。配属前の四カ月間、衛生兵教育を受けることになっていたが、八月になって突如、北京市街を中心にコレラが発生したため、その「防疫」に駆り出され、配属されるまで四カ月の教育期間が六カ月に延長された。このときのコレラ流行は、長田友吉の自筆供述書によれば「一八五五部隊西村部隊が実験のためにコレラ菌を散布したものである。(略)
P49彼が配属された第二分連隊は静生生物調査所の建物を占拠したものであった。半地下、三階建て(三階部分は予備飼育室周の倉庫二棟がある屋上)の二階部分が、ノミの大量繁殖室になっていた。すでにいた兵隊と合わせて、一七名でノミの飼育にあたったのである(最終的には五〇人ほどになった)。
 ふんどしひとつになり、飼育室で一日を過ごした。石油缶の飼育箱の底には血粉を敷いた。乾燥して固くなった豚の血を屠殺場からもらってきて粉砕し、それを粉にしたものである。さらにふすまとエビオズの粉、豆溝の粉を入れ、カゴに入れたネズミを置き、ノミを放した。ノミは身動きできないネズミにたがって血を吸い、二八日周期で繁殖を繰り返していった。
 敗戦までノミの飼育を続けたI氏は、二度、そこに幌のかかった特別車で「人間」が運ばれてきたことを記憶している。(略)
 、それまでノミの飼育室として使っていた部屋は片付けられ、鉄格子のはまった黒く塗られた窓ガラスの部屋に、トラックから下ろされたわけです。監獄になった一角には行ってはいけないと言われていたのですが、私はどうしても気になって、こっそり行ってドアの覗き窓から中を見たのです。
 私は全身が固くなりました。部屋の床にはアンベラが敷いてあり、饅頭が二つのっている小さいテーブルがひとつ置いてありました。そこに、私と同じぐらいの年(二〇代前半)の中国人の男が座っていたのです。のぞいた途端、男はギョロッとした目で、黙ったまま私を見たのです。どのくらいの時間だったか……。一瞬のことだったのかもしれませんが、その光景は私の目に焼きつきました。戦後になって、私は何度も自分がその立場になった夢を見てうなされました」。
 非戦闘員を含めた人々を「実験材料」として細菌兵器研究を行ない、あるいは関連していたのは、平房の七三一部隊だけではない。その組織図は東京にあった陸軍軍医学校を頂点にして、各地に点在していた。関東軍防疫給水部(七三一部隊)をはじめとして、北支派遣軍の一八五五部隊(北京)、中支派遣軍の一六四四部隊(南京)、南支派遣軍の八六〇四部隊(広東)、南方軍の九四二〇部隊(シンガポール)、さらに関東軍下には、ハイラル(五四三部隊)、林口(一六二部隊)、牡丹江(六四三部隊)、孫呉(二六四五部隊・六七三部隊)、新京の関東軍軍馬防疫厳(一〇〇部隊)、さらに大連衛生研究所も密接に関わっていた。(略)
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強制連行されて日本で暮らす朝鮮人の実態を見る

 週刊金曜日1994.11.4号より引用。P51~P53 金蓉子
 神奈川県横須賀市でひとり暮らす在日朝鮮人、李周鎮さん(七二歳、朝鮮籍)は、一級障害者である。
戦時中の強制労働でのリンチがもとで右胸の肋骨七本を失い、右耳もよく聞こえない。右肺はまったく使えない状態で、肺活量は一000以下だ。当然、老齢福祉年金か障害基礎年金が支給されるはずである。だがそれば日本人であればの話だ。
 李さんは以前、横須賀市役所の窓口に年金支給を願い出て、門前払いを食ったことがある。「身体が弱り、病院に行くのに金がなくて困ってだんだが、『朝鮮人にはやれない』といわれた。妻が日本人だったんで、『じゃーあ妻の分を』というと、『朝鮮人と結婚したからやれない』という。『それは国の判断か、それともおまえの判断か』と聞いたら黙っておったよ」。(略)
 虫けらのように酷使され
 四三年、朝鮮総督府から兄に徴用令が送られてきた。一家を支える兄の身代わりになった李さんが連行されたのは、福岡県の三菱炭鉱だ。当時「行けば生きて帰れない」のが炭鉱だった。二一歳のときである。(略)
 ところが翌年の三月、今度は自分の名で徴用令が来た。「徴用から逃れることはできない。強制連行と同じことだ」。都庁舎に集まった中から一〇〇人が、迎えにきた間組(現ハザマ)の手に委ねられた。日本の官憲による斡旋である。
 釜山から下関へ。一昼夜汽車に揺られ、たどり着いたのは雪深い秋田県神代駅だった。李さんたちはここで、渓谷の斜面に夏瀬ダム建設工事のための道をつける、危険な作業に駆り出された。(略)
 一カ月後、ハッパの暴発事故で仲間が死んだ。ただの肉の塊が、李さんたちの目の前に落ちた。死体も負傷者も、飯場には戻ってこなかった。李さんは脱走を決意する。リンチを受けたのは、その脱走に失敗したときだった。
 植民地支配が人生を奪った
(略)横須賀の街頭で保健所職員に呼び止められたのは、戦後一年半もたってからだ。レントゲン写真の右胸半分は真っ黒だった。肋骨に無数のひびが入り、肋膜に水がたまって化膿していた。一〇年にわたる入院生活、六回の胸郭成形街の末、七二年に呼吸機能障害と胸郭変形で身体障害一級の認可を受けた。もう、肉体労働はできない。
(略)なぜ国を奪われ、虫けらのように蔑まれたのかを知ったとき、初めて李さんの全身を激しい怒りが貫いた。何に対して怒ればいいのかを悟ったのだ。
文字を知らぬば。歴史を知らぬば」。たぎるような向学心が、どん底の李さんに生き抜く力を与えた。印刷業を始めたのも、文字を覚えるためだった。
 いま、李さんは「近・現代史のなかの朝鮮民族史を語る会」を、日本人とともに続けている。不自由な身体であちこちの集会に顔を出して講演もする。「日本の近現代史は朝鮮、中国を抜きには語れない。強制連行で連れてこられた一人として、若い人たちに私の体験を語り継ぎたい」
 歴史を知らぬことの恐ろしさや愚かきを知る者の、確たる信念が生きる支えだ。
 年金を出さぬのは差別だ
 東京都江東区に住む李末龍さん(七九歳・韓国籍)も、徴用で日本に連れてこられた。。もう五〇年以上も足の神経痛に悩まされている。福岡県飯塚市の炭鉱で働いていた時の重労働の結果だ。(略)
 日当は二円だった。だが「天引きで故郷に送金するから」と言われて、手渡されたのは一銭から五銭の半端な金だった。煙草をいくらか買うとなくなった。言葉も分からない。字も知らない。送金されているのかどうか、確かめる術もなかった。
 大東亜戦争が始まっていた。一年ほど炭鉱病院に通ったが、足は直らなかった。同じ地方出身の知り合いと一緒に脱走して宇部に逃げ、その後は土方をして生きながらえだ。
「日本全国を点々と歩いたよ。ダム工事やケーブル、電線工事と何でもやった。神経痛が痛くてたまらなかったけど、ほかに朝鮮人がやれる仕事はをなかったよ」(略)
 もちろん末龍さん夫婦に年金は出ない。長男は年金の掛け金を納めているから二重の負担を強いられていることになる。「税金は納めてきたし息子も納めている。でも、朝鮮人に見返りは何もない。好きでこの国にきたんじゃないんだ」
 末龍さんと同じ言葉を、在日朝鮮人なら誰もが噛み締めてきた。生活が苦しいから年金をくれというんじゃない。日本人と同じように年金が出るのが当たり前なんだ。朝鮮人だから出ない、というのは差別以外の何でもない」「人生を返してほしい」
 植民地支配という日本の国策が奪った人生の代償は、福祉の次元でさえ、いまだ支払われてはいない。

きむ よんじゃ・雑誌記者。一九六三年、長崎県生まれ。
ーー引用終わり。全文はこちら、ダウンロード<開く

南京大虐殺 杭州湾から南京へ1 本多勝一週刊金曜日49号

杭州湾から南京へ1 本多勝一 週刊金曜日1994.11.4号P24~27より引用。
 いまから五七年前の今月五日未明、日本陸軍「第一〇軍」は、中国・杭州湾の一角・金山衛周辺に敵前上陸した。
以後、上海から西進した「上海派遣軍」とともに首都・南京占領まで一カ月余。
その全行程が「虐殺」で連結していた。
当時と時期を同じくする今週号から、南京占領にいたる行程を現地にたどって報告する。(略)
 南潯鎮の放火と虐殺
P25(略)運河と公路から侵入した日本兵は、一緒になると放火・殺人にとりかがった。(略)
 上海から避難してきた周世業という人がいた。この町の出身でこのあと一二月末までかかって死者数を調べ、報告書を書いた。それによると死体の数は約四〇〇人で、そのうち荘開伯という名の小学校の先生とその息子が殺された現場を燭は見ている。また張和孚という古参労働者(一九八二年に死亡)の認ぺでは、このうち逃げおくれた中国兵が約一〇〇人、市街地の住民が約八〇人、さらに農民も二〇〇人ほど殺された。これら農民は、日本兵に農村部から連行されてきた者と、疎開した町民の親類で荷をはこびだしに来た者たちであった。目撃者によれば、市内の道路はいたるところに死体がちらばっていたが、とくに西木巷から西柵にかけてと、中心部の唐家兜や栲栳湾に多かった。そのなかで集団虐殺の場となったのは百間楼で、技師・崔学興の家族が目撃したところだと三〇人ほど射殺された。
 範希仁さんはこのような内容を語った。
P26集団刺殺と強姦殺人
(略)虐殺はその直後に二人の眼前でおこなわれた。残った九人のうち、ひとりは逃げようとして射殺された。あと八人は銃剣でつぎつぎと刺し殺された。この光景をまのあたりにした伯父・沈金宝は、精神異常をきたして半年後に首つり自殺することになる。
 そのほか、義兄から次のような犠牲者たちの消息をきいた。
▽「阿銀」(男)は水路用の溝で死体になっていた。
▽「珍宝」(男)は厠にすわった姿勢で首を切りおとされていた。
▽「戴愛珍」(女、二〇歳代)は強姦ざれたあと刺し殺された。みつかったとき下半身はだかで七カ所に刺し傷があった。
▽「阿鳳」(女、二〇歳代)も強姦されたが死ななかった。
▽「巧雲」(同)も同様。
▽「戴財生」(男、二〇歳代の農民)は舟を漕いでいて撃たれ、一週間後に死亡。
 沈宝文さんは以上のように語った。
 日本兵が泊まった村
夜があけると、日本軍は村を出ていった。三人がもどってみると、
村の一〇〇問くらいのうち五〇間ほどはタキモノなどにして焼かれていたが、朱さんの家は無事だった。無事な家は炊さんなど宿泊の痕跡がそのままにされていた。村人のなかで、沈麻子という五五歳の男性がひとり、自分の家にいて日本軍につかまっていた。この家でも日本兵は泊ったのだが、家の中の様子や沈麻子の死体の様子から推察すると、日本兵は彼に炊事を手つだわせたらしい。しかし村を出る前に、大鍋の湯のなかへ彼の両手をしぼって放りこみ、かまゆでにして殺したのであった。
 あくる一九日の夜、朱さんの従兄(父の兄の息子)・米案祷(当時四八歳)は、避難さきの烏鎮から舟で村へ帰る途中、祜村で日本軍につかまった。三人乗っていたが、連行されようとしたとき一人は川にとびこんで逃げ、従兄ら二人は日本兵が岸に上らせてから射殺した。この様子は逃げた一人から聞いた。従兄の死体は、現場にあった肥だめから見つかった。
 朱従亮さんは以上のように語った。
 「若い娘」さがし 
三日後の二一日。北隣りの東遷村に駐屯していた日本兵が数人あらわれた。しかし彼らの目的はニワトリではなく、「花姑娘」(若い娘)であった。日本兵は陳家冬をつがまえると、女性さがしの案内をさせて家々をまわった。どこにも見つからなかった。日本兵らは腹いせに、陳を運河の岸辺で殺した。一部始終は残っていた老人が見ていた。
 村人だちがもどったとき、陳家冬はひざまずかされた格好で死んでいた。村の家々が焼かれなかったのは陳のおかげだと、村人たちは感謝した。日本兵らが陳をつれて一軒一軒さがしあるいたということは、もしそうしなければかれらは放火して女性を追いだした可能性が高いからである。陳はこの村の出身者ではなかったが、村人たちは手あつい葬式でむくいた。
 張天池さんはこのように語った。(つづく)
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七三一部隊を追って 五〇年目の平房 第一回 週刊金曜日1994.11.4号

週刊金曜日1994.11.4号 P20~23より引用。
 七三一部隊を追って 第一回 五〇年目の平房  西野留美子
関東軍防疫給水部、通称七三一部隊。民間人も含めた人々を「実験材料」に、防疫・医療の名目で生体実験や細菌兵藍の研究・開発などを行なった、戦争史上もっとも残虐な集団だ。731部隊とはいったい何だったのか。四週にわたり、その残映を追う。
 身ひとつで「満州」に
 五五年間の一九三九年。石井部隊は第二次ノモンハン事件に、碇常重軍医少佐ら二〇数名の「決死隊」を編成し、ハルハ河にコレラ、チフス、赤痢、馬鼻疽(馬などがかかる死亡率の高い伝染病で、他の家畜や人間にも感染する)などの細菌を投入する細菌攻撃を実施した。このときが、実戦における細菌兵器使用の最初であったといわれる。(略)
 七三一部隊の中には、ロの字の形で作られた本館の中に、七棟、八棟と呼ばれた特設監獄が作られていた。そこに中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人、その他の外国人が、「実験材料」として監禁されていたのである。彼らは「マルタ」と呼ばれていた。(略)
 生きているうちに謝りたい
 中馬城の証言者
(略)一九三三年、五常県の拉濱線背陰河に、関東軍防疫給水部の前身である細菌研究所が作られた。石井四郎率いるこの部隊の秘匿名は「東郷部隊」。近村の人々は、今も東郷部隊の本拠を「中馬城」と呼ぶ。城といわれるだけあって、建物のぐるりには堀が掘られ、さらに土壁と高圧電流が通った鉄条網が張り巡らされた。煉瓦造り平屋の建物群の建設にあたった中国人の労工は皆虐殺されたと、近郊の村(程家崗)に住む呉沢民さんは語った。(略)
 中馬城が完成してから周囲二五万平方メートルは立ち入り禁止になり、村人たちは近寄ることもできなかった。「城」には、大きな煙突がニョッキリ整えていた。「あの頃、そこに入れられた人は血を採られるらしいという噂があり、怖がって誰も近寄ろうとしませんでしたよ」。(略)
 一九三四年のある夜のことだった。呉さんは、その日の様子をこう語った。「その夜、家の外でガチャガチャ音がしました。その項、このあたりには土匪が多かったので、私たしは手製の鉄砲を構え様子をうかがいました。すると外から、自分たちは抗日地下工作員だが、日本軍に捕らえられ中馬城に連れてこられた。暴動を起こして脱獄してきたので助けてくれ』という声がするのです。
 出てみると、鉄の鎖の足かせをはめられたままの中国人の男たちがいました。兄の呉化民は農具のまさかりを取り出し、その人たちを家の裏に連れていき、石の上で足かせの両足首のリベットを叩き壊してやりました。
 はじめのうちは数人だと思っていたところ、同じような人が次々にくるではありませんか。もしも日本兵が探しにやってきてこんなところを見つかったら、自分たちばかりでなく家族まで殺されてしまいます。そこで一〇人ほどの両足をはずしてからは気が急いて、あとの七、八人は少し離れた場所に連れていって片足だけをはずしてやりました。いつ追手がやってくるかわかりません。そこで東の方は山賊が多いから、日本兵はいないだろう。そっちへ早く逃げろ』と言って、逃がしてやったのです。(略)
 古井戸に眠る足かせ
(つづく) 
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