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2011.9.10週刊金曜日創刊18周年記念講演会(福島原発事故,本多勝一講演あり)
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貧困なる精神 自衛隊、旧日本軍の侵略行為(日中戦争、戦犯他)
南京大虐殺 従軍慰安婦 アメリカの侵略(ベトナム戦争など) 新聞研究地方紙、朝日など)その他、分類別は左欄のカテゴリを参照。 

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週刊金曜日06.8.25号

<<『 週 刊 金 曜 日 』 メ ー ル ニ ュ ー ス >>  2006.08.25
___________________________________________________________『週刊金曜日』 【1】今週号のことばから
 【2】一筆不乱(編集長コラム)
 【3】注目の記事
 【4】今週号目次と次号予告
 【5】最近話題の「裏窓」
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【1】今週号のことばから
いくら有事法制ができても実働しなければそれは単なる画餅に過ぎない。(略)その精神動員の基軸になるものが靖国思想である。
(菅原龍憲 靖国合祀取消訴訟原告団長)
団塊世代の2割ほどが「何か事業を起こしたい」とギラついている。だが、こと起業に関しては、実はこの世代が一番危険なのだ。
(渡辺仁 経済ジャーナリスト)
「最近では、(田舎暮らしをしようと思って山林を買う)団塊の世代の方が増えていますよ」と屈託がない。山林売買は無法地帯だ。
(まさのあつこ ジャーナリスト)
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 【2】一筆不乱(編集長コラム)
首相の心にも、社会全体にも「のりしろ」がないこの国は、どこへ行くのか 小泉首相には、心の「のりしろ」がない。
(つづきはホームページでどうぞ)
[一筆不乱]はこちら
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 【3】注目の記事
■特集
再び「靖国」を問う
小泉首相は8月15日、現職首相として85年の中曽根康弘首相(当時)に続く2度目の「終戦記念日」の靖国神社参拝を強行した。
次期政権にも対応を迫るこの参拝問題が示すのは、戦後61年たってもいまだ国家神道に呪縛されているこの国の恥ずべき姿に他ならない。
小泉の「靖国」参拝
その本質的な意味を問う(菅原龍憲)
「返せこの手に/還我祖霊」
初の合祀取消し訴訟始まる(田中伸尚)
戦没した肉親が靖国神社に無断で英霊として合祀されているのは、苦痛で耐え難いと訴えてきた日本と台湾の遺族9人が8月11日、同神社を被告にして初めて合祀取消し訴訟を大阪地裁に起こした。
遺族らは合祀に組織的に関与した国の行為も問い、同神社と連帯して1人100万円の損害賠償を求めている。
米国も批判した首相失格の「異常」さ(霍見芳浩)
日本を拠点にアジアを支配しようとするアメリカにとって、中国や韓国と首脳会談もできなくなっている状況は好ましいものではない。
ブッシュの忠実な“ポチ”としては、最後にご主人の期待を裏切ったことになる。
詭弁・珍論がまかり通る「歴史認識」
「天皇メモ」で始まった右派の混乱(天野恵一)
外交無能の小泉首相が繰り返した靖国神社参拝で、パンドラの箱が開いたように同神社をめぐる論議に火がついた。
さらに先月公開された「天皇メモ」も加わり、そこでは右派の支離滅裂ぶりが明らかになってきている。
■特集「起業という夢」の行方
増殖する「起業バカ」
狙われる団塊世代(渡辺仁)
ホリエモン逮捕から7カ月。
起業成功者の象徴だった彼の転落は大きな話題となったが、その陰で、安易な考えで「起業という夢」を追い、身ぐるみ剥がれる起業バカが後を絶たない。
会社を退職した団塊世代が多いのも特徴だ。実態を追った。
それでも「起業をめざす!」
若者たちの今(天野一哉)
堀江貴文氏を始め、メディアに登場する起業家の特徴の1つが、その若さだ
。しかし、若い人が起業をめざす環境は、米国などに比べると4半世紀遅れていると言われる。
「起業という夢」を追う日本の若者と、それを支援する人の現状を取材した。
■シリーズ「この国のゆくえ」第21回
金大中事件
カネで裏取引した黒い「政治決着」(伊藤成彦)
内外で阻止した抹殺の企み(佐々木秀典)
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 【4】今週号目次と次号予告
ホームページ上で一部全文公開しています。
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P7.風速計 拝啓 浜四津敏子様(佐高信)
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P9.小泉から安倍へ負の遺産
再び「靖国」を問う
P10.その本質的な意味を問う(菅原龍憲)
P12.「返せこの手に/還我祖霊」  初の合祀取消し訴訟始まる(田中伸尚)
P16.米国も批判した首相失格の「異常」さ(霍見芳浩)
P18.◆詭弁・珍論がまかり通る「歴史認識」(天野恵一)
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P22.飛耳長目(6) 北方領土の拿捕事件で逃げる松田ロシア課長(佐藤優)
P24.ガザ地区住民の怒りの矛先は「経済封鎖」へ
日米欧の誤算が招いたガザの窮状(土井敏邦)
P28.メディアと司法のタブー
実父による娘への性虐待(柴田朋)
シリーズ この国のゆくえ 第21回 金大中事件
P30.カネで裏取引した黒い「政治決着」(伊藤成彦)
P34.内外で阻止した抹殺の企み(佐々木秀典)
「起業という夢」の行方
P51.増殖する「起業バカ」 狙われる団塊世代(渡辺仁)
P54.それでも「起業をめざす!」 若者たちの今(天野一哉)
P56.山林売買の裏に“ブローカー”の影
その田舎暮らしの夢、大丈夫?(まさのあつこ)
話の特集 第259集
P36.無名人語録(永六輔)
P36.身の上下相談(中山千夏)
P38.いろはうた(3)(和田誠)
P39.編集後記(矢崎泰久)
生活情報ページ   暮らし・くらし・KURASHI
P40.新・買ってはいけない(70)
日本ケンタッキー・フライド・チキン/フライドチキン(渡辺雄二)
P41.本日もオーガニックガーデン日和(7) さあ、ガーデニングデビュー!(曳地トシ&曳地義治)
P42.暮らしのニュース
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きんようぶんか
P45.読書/この3冊
『愛と暴力の現代思想』矢部史郎+山の手緑=著(本橋哲也)
『ドキュメント マイナーの誇り 上田・慶応の高校野球革命』辰濃哲郎=著(北村肇)
『むしのあかちゃん』伊丹市昆虫館=著(編集部)
P47.読み方注意!  『いわゆるA級戦犯 ゴー宣SPECIAL』(高嶋伸欣)
P48.
映華館『UDON』
音楽館『DUBAINU DELUXE』『ウランバン DX』『DANIEL』
観客席『夢ノかたち』
P50.きんようぶんか案内板・ビデオと過ごす
  『手をつなぐ人々 アメリカ・イラクの闘いをひとつに』
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P8.政治時評
 批判されたら「逆ギレ」 政治家と官僚がこんな態度で民主主義国家と言えるのか(吉田有里)
P27.経済私考
 石油価格高騰を招くブッシュとサウジ 過去から現在にある「たら、れば」(アンドリュー・デウィット)
P21.人権とメディア(362)
 全国戦没者追悼式 国家責任の回避にあまりにも鈍感(中嶋啓明)
P44.貧困なる精神(295) 醍醐聰さんと語る「NHK問題」(7)
 番組改竄問題を裁く法廷で出た新証言(本多勝一)
P59.自我作古(405) 広く、深く、遠く-政治とメディア(12)(筑紫哲也)
P2.日本国憲法(29)(写真・長倉洋海 解説・伊藤真)
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P4.金曜アンテナ
小泉流“暴挙”に国内外失望 本質語らぬまま次期政権へ(佐藤類/本誌取材班)
合祀取り下げ求めて連日キャンドル行動(鈴木義昭)
全国教研集会会場に対し所沢市が異例の過剰“防備”(宇江村静)
文科省、全国のPTAで教基法改悪を大宣伝(永野厚男)
原発推進に方向転換 民主党のお粗末戦略(明石昇二郎)
再処理工場の最終試験 第2ステップに突入(小山英之)
「幸輝」従業員に実刑 上層部の追及は必至(和仁廉夫)
東京で強制就学のアイヌ民族を供養(高波淳)
P64.読者会から/市民運動案内板
P66.金曜日から
P67.珈琲破壊(31)(岡本光博)
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P60.投書
放火事件に毅然たる批判を(奥村正男)
小泉の靖国参拝に抗議する(黒田恵裕)
首相参拝は憲法違反(加藤浩一)
憲法の視点から靖国問題の議論を(内川桂太朗)
憲法判断しない最高裁(中西由多嘉)
戦争責任究明がなぜ放置されてきたか?(倉富春成)
戦死者の霊は家族の元に、私は靖国へ参りません(大野圭子)
「口約」と「公約」は違う、嘘で仕上げする小泉政治(宇佐美睦朗)
「心の問題」なら何をしてもいいのか(桐生潤三)
歴史認識の欠如こそ問題(中田敏雄)
P63.論争
戦後61年経ても放置され続ける
   朝鮮半島強制連行犠牲者の遺骨(徐和浩)
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次号予告
◆ 安倍晋三官房長官の正体
◆ 集中連載「ニッポンの翼が危ない」(1)ボーイング777エンジン停止の恐怖
◆ 鎌田慧の「痛憤の現場を歩く」 石牟礼田子さんとの対話(上)
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 【5】最近話題の「裏窓」
東郷和彦さんの靖国モラトリアム論



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新老人よ戦争を語り継げ 

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日経新聞 2006年8月13日13面より引用
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「人を殺さなければ、自分が殺されるそれが戦争です。人を殺した人は、今も苦しみもだえています」
「最もひどい目にあったのは、戦争で死んだ人。生き残った人のうち、すざまじい戦闘体験をした人は10%もいない。そして、本当に悲惨な経験をした人はそれを語らない。」

蟻の兵隊 ~日本軍山西省残留問題

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映画「蟻の兵隊」を十三の第七劇場で見てきた。終戦後も日本軍の残留命令で中国山西省で国共内戦に従事したそうだ。命令した支那派遣軍第一軍の澄田中将は戦犯逃れのためにさっさと一人帰国し、日本政府からは兵士が勝手に残留したことにされ軍人恩給も支給されていなかった。2005年最高裁に上告されたが棄却された。
初日は監督や劇中の元日本兵奥田さんがティーチインして整理券を配るほどの満員であったそうだ。8月10日14:30も8割方入りなつかしそうな声が年配の方から聞こえてきた。
奥田さんは靖国神社で演説していた小野田さんに「侵略戦争美化ですか」と詰問し、映画の最後で「戦争の事情を知る者はまだたくさん生きているが、残り時間が少ない」と言われた言葉が記憶に残った。
参考にしたサイト
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060327
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/daiicigun_mokuji.htm
http://www7a.biglobe.ne.jp/~gwife/daiichigun_ari.htm

週刊金曜日 06.8.11号

   <<『 週 刊 金 曜 日 』 メ ー ル ニ ュ ー ス >>  2006.08.11
_________________________________________________『週刊金曜日
 【1】今週号のことばから
 【2】一筆不乱(編集長コラム)
 【3】注目の記事
 【4】今週号目次と次号予告
 【5】最近話題の「裏窓」
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 【1】今週号のことばから
天皇の参拝に道を開きたい靖国神社や靖国派の人々は、袋小路に入ったといえるんじゃないでしょうか。(高橋哲哉 東京大学大学院総合文化研究所教授)
いわば愛国者の代表である西郷を祀っていない靖国神社は愛国者が参拝すべき場所ではないということにならないか。(佐高信 本誌編集委員)
金正日ファミリーの子どもたちは、私のことを天功お姉さんって呼ぶんです。今でも月に数回は、お嬢さんたちは連絡してきます。(プリンセス天功)
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 【2】一筆不乱(編集長コラム)
「靖国」から見える、無責任体制の果てに架空の「敵」をつくる組織というもの
 毎日新聞の社屋は皇居の真ん前に建っている。
(つづきはホームページでどうぞ)
[一筆不乱]はこちら↓
 http://www.kinyobi.co.jp/KTools/hensyu_pt?v=vol618
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 【3】注目の記事
■特集 靖国
靖国は、戦前の軍国主義の象徴であると同時に、戦後国民意識の無自覚性の象徴でもある。
侵略を聖戦とし、戦犯を神と讃えるこの神社は、戦後社会と“違和感”なく共存してきたからだ。この事実から、改めて靖国の本質に迫る。
九段の大鳥居の奥に潜むのは、戦争を美化する忌まわしき思想装置に他ならない。
【対談】
「靖国問題」の本質 高橋哲哉vs.田中伸尚
西郷は愛国者ではないのか(佐高信)
世界が問う「日本の侵略神社」
韓国で開かれた初の靖国「国際シンポジウム」(本誌編集部)
なぜ侵略を賛美し、戦争犯罪人を神と祀るのか――。
いまアジアのみならず、欧米からも靖国神社に鋭い批判が寄せられている。問われているのは首相の参拝だけではない。
靖国のイデオロギーをいまだに断ち切れない、この国の無節操なのだ。
靖国と私
靖国神社―。
昭和天皇が「不快感」を示そうが示すまいがA級戦犯を分祀しようがしまいが戦争犠牲者の慰霊・鎮魂という建前を超えて、侵略戦争を美化し正当化する「装置」として機能してきた。この「靖国」なるものをどう見て、何を感じているのか。
各界の方から率直な声を寄せてもらった。
戦争の中心にあった象徴的存在(俳優 米倉斉加年)
見えないアジアの犠牲(エッセイスト 朴慶南)
感傷で覆い隠す呪詛の声(作家 目取真俊)
祀る裏側で戦争肯定(音楽家 小室等)
霊と御心と思考停止(精神科医 香山リカ)
靖国と被爆の連関マジックを解く(ノンフィクション作家 吉田司)
世界に誇れる憲法を守って(エロテロリスト インリン・オブ・ジョイトイ)
意味づけも約束もされたくはない(江戸時代研究者 田中優子)
ねじれた連立方程式を解けば(社会学者 宮台真司)
ラリーに教わったこと(作家 さいふうめい)
小泉の問題ですから(作家 中山千夏)
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 【4】今週号目次と次号予告
ホームページ上で一部全文公開しています。
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P7.風速計 雪崩のように(落合恵子)
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特集 靖国
P10.「靖国問題」の本質(対談 高橋哲哉・田中伸尚)
P17.  ◆西郷は愛国者ではないのか(佐高信)
P18.世界が問う「日本の侵略神社」  韓国で開かれた靖国「国際シンポジウム」(編集部)
P20.「靖国と私」
インリン・オブ・ジョイトイ/香山リカ/小室等/さいふうめい/田中優子/中山千夏
/朴慶南/宮台真司/目取真俊/吉田司/米倉斉加年

シリーズ この国のゆくえ 第20回 「日の丸・君が代」法成立
P36.世羅高校事件から国会へ(新島洋)
P40.ウソを重ね続ける文部行政(高嶋伸欣)
P44.あるべきアジア外交とは  真の歴史認識こそが平和構築の要(尹健次)
P46.戦後61年
 強制連行の「記憶」と「現在」 遺骨問題で日本が問われる「人間の尊厳」(成澤宗男)
きんようぶんか 読書
P55.2006年夏 戦場としての日本  書評委員が選んだ15冊(雨宮処凛・北原みのり・本橋哲也)
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P24.金正日が愛したプリンセス天功インタビュー
語られなかった「将軍様」と、その家族(小田切拓)
カラーページ
P27.あかるい農村(4) 新潟県山古志  復興という名の隧道(金子勝/平井康嗣)
P30.ピョンタくんの楽しい戦争  第16弾(石坂啓)
P32.《韓国美術100年展》と日本人  「アジア近代」の背理(山口泉)
生活情報ページ   暮らし・くらし・KURASHI
P52.消費者団体訴訟制度が始まる(水原博子)
P54.本日もオーガニックガーデン日和(6) 庭を楽しもう(曳地トシ&曳地義治)
━━━━━━━━━━━
きんようぶんか
P58.映華館『太陽』
音楽館『ロルフ&ヨアヒム・キューン・カルテット/イースト・ベルリン1966』
『ソフィー・ミルマン』『太田寛二トリオ/ブルー・ハイランド+1』
観客席「雨と夢のあとに」
P60.きんようぶんか案内板・非マスコミ紙誌『無防備地域宣言』
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P8.政治時評
 ゴーストライターじゃこんな薄っぺらで継ぎはぎだらけの原稿は書かないから本物だね (大藤理子)
P43.経済私考
 引き締めに変わった世界マネー潮流 原油高騰でリスク高まる金融危機(山田厚史)
P50.人権とメディア(361)
 昭和天皇「靖国メモ」 神話を再生産する「大御心」報道(山口正紀)
P51.自我作古(404) 不毛の対面-政治とメディア(11)(筑紫哲也)
P2.日本国憲法(28)(写真・長倉洋海 解説・伊藤真)
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P4.金曜アンテナ
ガザ侵攻で特殊兵器使用!?医師も戸惑う“謎の死”続発(大月啓介)
イスラエル大使館へ市民ら緊急申し入れ(田浪亜央江)
ワンマンから集団指導へ カストロ時代は終焉期に(伊高浩昭)
巻町住民投票10周年 大阪で記念集会開催(糟谷廣一郎)
暴利取り立てのカラクリ?全金連会長が「問題の会社」(北健一)
プレカリアートらが使い捨て労働にNO(雨宮処凛)
フリーターの雇用に強力な味方が登場!(雨宮処凛)
“自律的労働”に反対弁護士らが運動発足(清水直子)
ジェンダー本撤去受け大阪でブックフェア(宮本有紀)
P64.読者会から/市民運動案内板
P66.金曜日から
P67.珈琲破壊(30)(岡本光博)
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P61.投書
レバノン紛争の即時停戦を(石垣修)
田原氏は自分の言動に責任を持て(山田修)
高校生の会話と報道のあり方(豊澤郁香)
60年間を無駄にしないで(梶山久貴)
日本とは大違い韓国ドラマの歴史性(後藤和夫)
しがらみ選挙に敗れて(中村敬)
P63.論争
「寺西論文」に対する共感的反感
批判さるべきは御輿か担ぎ屋か?(井澤清一)
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次号予告 次号は8月25日に発行します。
     ◆ 小泉から安倍への負の相続 再び「靖国を問う」
  菅原龍憲/田中伸尚/霍見芳浩/天野恵一/佐藤優
◆ “起業ワナ”にはまる団塊の世代
◆ 金曜日版現代史「この国のゆくえ」金大中拉致事件
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 【5】最近話題の「裏窓」
「一字一会」にまつわるどうでもよくない謎

日中戦争6

03.jpg

日中戦争写真展より、このほか20枚以上載せておられます。
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15.虐殺遺体と日本兵
長江河岸の虐殺死体と日本軍人。南京占領から2週間後に撮影されたもの。
死体の中には、女性や子どもも含まれていた。

日中戦争5

02.jpg

日中戦争写真展より転載。
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2.両親を失って兄にとりすがる弟
1943年、河北省易県

日中戦争4

01.jpg
日中戦争の写真展のサイトを見つけた。よくまとめられていますので、
転載です。日中戦争写真展より。
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1.焼け跡で泣く子ども
1937年8月28日正午、16機の日本軍爆撃機が上海南駅の上空に飛来し、爆弾を投下した。駅には主に婦女子からなる何百人かの貧しい中国人が、杭州行きの列車を待っていた。爆撃によって赤ん坊15人を含む200人の民間人が殺された。
爆破された駅の構内でひとり泣き叫ぶ幼児の姿は、世界中のハースト系の新聞に掲載され、およそ1億人もの人々の目にふれたという。これによって反日感情は急激に高まった。

安倍 晋三 A級戦犯の孫

2007.3.17追記、A級戦犯の孫が1国の指導者になるなんて、欧米では考えられないだろう。日中戦争、太平洋戦争の反省と清算がなされていない証拠だ。ドイツが南米までナチスの残党を探しにいったのとは好対照だ。
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001.jpgA級戦犯の孫が首相候補だから怖い!靖国参拝もするわな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E4%B8%89 より引用
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安倍 晋三(あべ しんぞう、昭和29年(1954年)9月21日 - )は、日本の政治家。自由民主党に所属する衆議院議員。清和政策研究会所属。
親族の政治家として母方の祖父の首相岸信介、大叔父の首相佐藤栄作、父の外務大臣安倍晋太郎などがいる。学歴は成蹊大学法学部政治学科卒業。学位は政治学士(成蹊大学)。大学卒業後、神戸製鋼入社し、外務大臣秘書官を経て衆議院議員となる。官房副長官、自由民主党幹事長、同幹事長代理、官房長官等を歴任。
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http://www.asahi.com/politics/update/0804/001.html朝日新聞2006.8.4より引用
安倍氏、4月に靖国神社参拝 総裁選の争点にも
2006年08月04日11時16分
 安倍官房長官が今年4月15日に靖国神社に参拝していたことがわかった。複数の政府関係者が明らかにした。昨年10月の官房長官就任後の参拝は初めて。自民党総裁選では谷垣財務相が靖国参拝を控える考えを明らかにしており、参拝の是非をめぐる議論が熱を帯びそうだ。公明党の神崎代表は4日、安倍氏の参拝に不快感を示した。中韓両国の反発も避けられそうにない

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岸信介~安倍首相の祖父

000.jpg
Wikipediaより引用。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
岸 信介(きし のぶすけ、1896年(明治29年)11月13日~1987年(昭和62年)8月7日)は、日本の農商務官僚、政治家。第56、57代内閣総理大臣。正二位大勲位。

青年期まで
山口県吉敷郡山口町(現・山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世夫妻の第五児(次男)として生まれる(本籍地は田布施町)。中学三年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。

旧制岡山中学、旧制山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)、第一高等学校 (旧制)を経て、1920年7月に東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法学)を卒業。我妻栄、三輪寿壮や平岡梓(作家・三島由紀夫の父)たちとは同期だった。

高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄とは常に成績を争った。帝国大学では彼らの在学中に銀時計下賜を廃止しているため、正確な席次は不明。岸は憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧める一方で、周囲は大蔵省や内務省に入ることを期待。岸は官界へ進み、敢えて農商務省を選択した。

満州国時代
1936年(昭和11年)10月には、満州国国務院実業部総務司長に就任。満州国時代には、関東軍参謀長であった東条英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介など、軍部・財界の知己を得た。

東条政権入閣
1941年(昭和16年)10月に発足した東条内閣に、商工大臣として入閣し、東条内閣にいる間はアジア太平洋戦争中の戦時経済の元締となった。1942年(昭和17年)のいわゆる「翼賛選挙」で当選し、政治家としての一歩を踏み出す。1943年(昭和18年)、日本軍劣勢への対応策として商工省が廃止され、軍需省へと改組された。軍需大臣は東条首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所、国務相兼務)に就任。半ば降格とも思われる処遇は、東条との関係に溝を生じさせる。

1944年(昭和19年)7月22日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となる。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸内府と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東条内閣の打倒と、戦争終結内閣実現の工作が、密かに進められた。

1944年7月13日には、難局打開のため、内閣改造の意向を示した東条に対して、木戸は、東条自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東条は要求を受け入れ、内閣改造に着手。しかし、既に岡田啓介と気脈を通じていた現職閣僚の岸が辞任を拒否し、内閣総辞職を主張する。東条の側近である四方諒二東京憲兵隊長が岸の自宅に押しかけ、恫喝するも岸は折れず、更に申し合わせていた重臣らが入閣を拒否した。やむなく東条は、7月18日内閣総辞職を決意した。

1945年3月11日、翼賛政治会から替わった護国同志会を率いる。

戦犯容疑者から復権まで
1945年(昭和20年)8月15日にアジア太平洋戦争が終結すると、故郷・山口市に帰っていた所をA級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に収監される。しかし、冷戦の激化に伴い、アメリカが対日政策を大きく転換。戦後の日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、旧体制側の人物を復権させたため、岸は戦犯不起訴となり、東条ら7名の処刑の翌日に釈放された

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裁判を免れたA級戦犯被指定者

http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF より
裁判を免れたA級戦犯被指定者
青木一男(不起訴により釈放)
安倍源基(不起訴により釈放)
天羽英二(不起訴により釈放)
安藤紀三郎(不起訴により釈放)
石原広一郎(不起訴により釈放)
岩村通世(不起訴により釈放)
岸信介(不起訴により釈放)
葛生能世(不起訴により釈放)
小泉親彦(自殺)
児玉誉士夫(不起訴により釈放)
後藤文夫(不起訴により釈放)
近衛文麿(自殺)
笹川良一(不起訴により釈放)
正力松太郎(不起訴により釈放)→読売新聞社主、戦前の警察官僚
須磨弥吉郎(不起訴により釈放)
高橋三吉(不起訴により釈放)
多田駿(不起訴により釈放)
谷正之(不起訴により釈放)
寺島健(不起訴により釈放)
徳富蘇峰(不起訴により自宅拘禁解除)
梨本宮守正王(不起訴により釈放)
西尾寿造(不起訴により釈放)
橋田邦彦(自殺)
本庄繁(自殺)
本多熊太郎(不起訴により釈放)
真崎甚三郎(不起訴により釈放)

A級戦犯

http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF  ウィキペディアより引用
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A級戦犯(えいきゅうせんぱん)とは、第二次世界大戦の敗戦国日本を戦勝国が裁いた極東国際軍事裁判において「平和に対する罪」について有罪判決を受けた戦争犯罪人をさす。起訴された被疑者や名乗り出たものを含む場合もある。

1.極東国際軍事裁判に起訴された被告
*関東軍関係
板垣征四郎 - 南次郎 - 梅津美治郎
*特務機関
土肥原賢二
*陸軍関係
荒木貞夫 - 佐藤賢了 - 鈴木貞一 - 木村兵太郎 - 橋本欣五郎 - 畑俊六 - 武藤章 - 松井石根
*海軍関係
嶋田繁太郎 - 岡敬純 - 永野修身
*総理大臣
東條英機(陸軍) - 広田弘毅(外交官) - 小磯国昭(陸軍) - 平沼騏一郎(司法官僚)
*大蔵大臣
賀屋興宣
*内務大臣
木戸幸一
*外務大臣
東郷茂徳 - 重光葵 - 松岡洋右
*企画院総裁
星野直樹
*ドイツ武官
大島浩
*駐伊大使
白鳥敏夫
*思想家
大川周明
上記の28名が1946年4月29日に起訴された。28人名のうち、大川周明は梅毒による精神障害が認められ訴追免除となり、永野修身と松岡洋右は判決前に病死しているため、1948年11月12日に被告として判決をうけた者は25名となっている。死刑は1948年12月23日に執行された。

2.判決
*絞首刑(死刑)
板垣征四郎 - 軍人、陸相(近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長
木村兵太郎 - 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)
土肥原賢二 - 軍人、奉天特務機関長、第12方面軍司令官
東條英機 - 軍人、第40代内閣総理大臣
武藤章 - 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)
松井石根(※1) - 軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時)
広田弘毅 - 文人、第32代内閣総理大臣
*終身刑
荒木貞夫
梅津美治郎(※2)
大島浩
岡敬純
賀屋興宣
木戸幸一
小磯国昭(※2)
佐藤賢了
嶋田繁太郎
白鳥敏夫(※2)
鈴木貞一
南次郎
橋本欣五郎
畑俊六
平沼騏一郎
星野直樹
*有期禁錮
重光葵 (7年)
東郷茂徳 (20年、※2)
*判決前に病死
永野修身 (1947年1月5日没、※2)
松岡洋右 (1946年6月27日没、※2)
*訴追免除
大川周明 (梅毒による精神障害が認められ訴追免除)
※1…「a項-平和に対する罪」では無罪
※2…獄中死

靖国神社に祀られるA級戦犯14:東条英機

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http://j.peopledaily.com.cn/2005/07/19/jp20050719_51914.html より引用
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東条英機は日本軍国主義によるアジア侵略、中国侵略の中心となった戦争犯罪人である。彼が日本陸軍大臣や内閣総理大臣を務めていた間、日本の軍隊はアジアの10以上の国や地域を狂ったように侵略し、踏みにじった。

東条英機の父・東条英教は下士官から陸軍中将へ進んだ軍人で、東条英機は東京陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校、日本陸軍大学で学び、厳格な軍事教育を受けた。

1935年9月、東条は関東軍憲兵司令官として中国東北地方へ派遣され、現地住民の抗日闘争を鎮圧した。

1937年3月、東条は関東軍参謀長に就任。6月、東条は日本軍大本営を上奏し、「対ソ戦に備えるという観点から現在の中国の情勢を見ると、兵力が許せば、まず南京政権に一撃を与え、背後の脅威を取り除くことが最上策と確信する」と主張した。七・七事変(盧溝橋事件)後、東条英機は日本軍を率いて張家口、大同、集寧、綏遠、包頭等を占領し、「察南自治政府」を樹立。東条が指揮した察哈爾作戦は、「関東軍の電撃作戦」と称され、日本陸軍から「関東軍の功績は、東条参謀長による」と評価された。東条はまた、日本政府から第一号となる「戦功賞状」を授与された。

1941年10月、東条英機は内閣総理大臣兼内務大臣、陸軍大臣、および対満事務局総裁に就任し、陸軍大将に昇進した。これに先立って、彼はファシスト精神を誉めたたえる「戦陣訓」を発表し、日本軍将兵に「命令一下欣然として死地に投じ」、「不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし」と説いた。同年11月初め、東条をはじめとする日本政府は、御前会議でアメリカ、イギリス、オランダとの開戦を决定した。11月中旬、東条は臨時議会で戦争演説を行い、日本の侵略拡大に対するイギリスやアメリカの妨害を非難し、国民に節約を呼び掛け、「一億国民総出陣」を提唱した。臨時議会は東条の要求に応え、臨時軍費38億円の追加予算案を承認した。

1941年12月7日、日本連合艦隊は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が勃発した。同日、日本軍は東条英機の命令により、タイ、マレーア、フィリピン、グアム、香港等へ次々と進攻を開始した。12月8日、アメリカとイギリスは日本と戦争状態にあると宣言した。

1944年4月中旬、中国大陸と南洋における日本軍の連係強化のため、東条英機は在中日本軍に「一号作戦」を発令し、中国を横貫する平漢線、粤漢線、湘桂線の早期打通を命じた。これは東条が中国大陸で仕掛けた最後の大規模攻撃となる。同年7月18日、日本がアメリカとの海戦で再三にわたる大ダメージを受け、中国侵略戦争でも失態を重ねたことで、東条内閣は辞職を迫られ、東条英機は内閣総理大臣、陸軍大臣および参謀総長の職務を辞し、軍政の舞台から退いた。

 1945年8月、日本は無条件降伏を宣言した。9月12日、東条英機は自殺未遂を図り、逮捕投獄された。1948年11月12日、東条英機は極東国際軍事裁判で、戦争を発動し、他国を侵略した等の罪で死刑判決を受けた。12月22日に絞首刑が執行された。

「人民網日本語版」2005年7月19日

靖国神社に祀られるA級戦犯13:松井石根

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http://j.peopledaily.com.cn/2005/07/21/jp20050721_51967.html より引用
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松井石根は日本A級戦犯の一人であり、日本軍南京大虐殺事件の元凶とされる。父・松井武国は武士。1898年に日本陸軍士官学校を卒業し、日本陸軍大学へ進んだ。

1904年に日露戦争が勃発。松井石根は学業を中断し、日本軍に同行して中国東北地方へ渡り、ロシア軍と戦った。

1937年8月15日、松井は上海派遣軍司令官として中国へ派遣され、日本軍の指揮をとった。同年11月、中国侵略中の日本軍は松井石根の指揮のもと、上海を攻め落とした。11月24日、松井石根は「第二期作戦大綱」をまとめ、12月上旬の南京進攻を決定した。12月1日、日本参謀本部は松井石根の要求に応え、華中方面軍による中国の首都・南京攻略を電令した。同日、松井は南京攻略準備の作戦命令を下した。

同年12月17日、松井石根は華中方面軍を率いて南京を攻め落とした。日本軍は南京占領後、凄惨かつ非道な大虐殺事件を起こした。約6週間の間に、日本軍将兵は南京城内で無差別な放火・殺害・暴行・略奪を繰り広げ、暴虐極まりない反人道行為を犯した。南京市民および武器を捨てた中国軍人が、日本軍に銃撃、刺殺、生き埋め、溺死等の残忍な手段で集団虐殺、または個別に殺害され、その数は30万人以上に達した。日本軍に暴行された女性は2万人を超える。日本軍はまた、南京城内で大規模な略奪や放火を行い、歴史ある名城の三分の一を破壊し、その財産損失は計りしれない。華中方面軍司令官である松井石根は、南京占領に先立ち、占領後は「地区ごとに城内の掃討を行うこと」と命じていた。松井石根は南京大虐殺事件に対して回避できない責任を負っている。

 南京における日本軍の暴行は国際社会を震撼させた。日本の同盟国・ドイツから派遣された当時の南京駐在代表は、母国政府への報告の中で、「これは個人ではなく陸軍全体、すなわち日本軍自体の残虐な犯罪行為」であり、日本軍は「野獣の集団」で、「自身の恥となる記念碑を打ち立てた」と述べた。国際世論の巨大な圧力に迫られ、日本政府は1938年3月5日に松井石根とその部下である将校約80人を呼び戻した。同年7月20日、松井石根は内閣参議となり、1940年に辞職。1942年4月4日、松井石根は天皇から叙勲を受け、功一級金鵄勲章を授与された。

 日本敗戦後の1945年9月19日、駐日同盟軍本部は、松井石根を戦犯として逮捕投獄する命令を下した。

尋問の中で、当時は病気のため、部下の暴行を阻止できなかったと松井石根は弁明した。極東国際軍事裁判は証拠を挙げつつ、「彼の病は、指導下にある軍隊の作戦行動を指揮することを妨げるものではなく、このような暴行が発生した際に同市を数日間訪れることを妨げるものでもなかった。このような暴行に責任を負う軍隊はまた、彼の指揮下にある。彼はこのような暴行について知っていた。彼には自身の軍隊を統治し、南京の罪のない市民を保護する義務と権力があった。以上の義務履行を怠ったことから、犯罪責任があると見なさざるをえない」と反駁した

1948年11月12日、極東国際軍事裁判は、松井をA級戦犯として絞首刑に処すという判決を下した。12月23日零時、松井石根は東京巣鴨プリズンで絞首台へ送られた。

「人民網日本語版」2005年7月21日

靖国神社に祀られるA級戦犯12:永野修身

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http://www.people.ne.jp/2005/07/22/jp20050722_52011.html より引用
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永野修身は土佐藩士の家に生まれ、1900年に海軍兵学校を卒業して間もなく、日露戦争に参加し、戦後は海軍大学校へ進学した。

1936年、二・二六事件が勃発。事件鎮圧後、永野修身は内閣に入り、海軍大臣に就任した。

1937年7月7日、盧溝橋事変が勃発。永野修身は日本連合艦隊司令官や軍事参議官等の職に就く。1941年4月、永野修身は軍令部総長に就任し、海軍部隊の最高指導者となる。

1941年10月、日米交渉に何ら進展がないことから、近衛内閣が総辞職を宣言。強硬派の東条英機内閣が誕生し、直ちに対米戦争の準備が行われた。永野が管轄する海軍部は、ほどなく「南方作戦海軍構想案」をまとめ、アメリカ海軍と决戦を繰り広げることを決定。海軍航空母艦を主力とした真珠湾奇襲と、別艦隊によるフィリピン進攻およびマレー半島作戦の実施を画策した。

11月2日、東条英機内閣総理大臣、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長の三人は連名で天皇に上奏し、9月6日の御前会議で制定された「帝国国策遂行要領」に従って、アメリカと一戦を交えることを決定した。12月1日、永野軍令部総長は天皇の名で大本営海軍令(大海令)第11号を発布し、「帝国は12月上旬を期し米国、英国、及び蘭国(オランダ)に対し開戦するに決す」「連合艦隊は大海令第9号に依り、また支那方面艦隊は大海令第10号に依り作戦す」と指示した。12月2日、永野は大海令第12号を出し、山本五十六連合艦隊司令官に「12月8日午前零時以後、大海令第9号に依り武力を発動すべし」と命じたが、この「大海令第9号」こそ真珠湾奇襲命令である。太平洋戦争の幕がついに切って落とされた。

永野は開戦の「功績」により、1943年8月に元帥に昇進した。

1946年2月、連合国が制定した「極東国際軍事裁判所憲章」および関連国際法により、永野は「反平和罪」で逮捕され、A級戦犯リスト28名に加えられた。1947年1月5日、永野は肺炎を患い、巣鴨プリズン内で死去した。

「人民網日本語版」2005年7月22日

靖国神社に祀られるA級戦犯11:平沼騏一郎

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http://j.peopledaily.com.cn/2005/07/25/jp20050725_52059.html より引用
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平沼騏一郎は津山藩(現在の岡山県)の藩士の家に生まれ、帝国大学法学部に入学した。1923年、山本権兵衛内閣の法務大臣に就任した。

平沼は日本政界で「敬神家」と呼ばれ、天皇を尊敬かつ崇拝し、日本の国体を敬い、日本は「神の国」であり、天皇が親政をすべきと主張した。彼は1924年に国家主義で国粋主義の団体を創立し、「国本社」と名づけた。

平沼の影響を受け、司法界の原嘉道、鈴木喜三郎、山岡万之助、内務官僚の後藤文夫、海軍界の加藤寛治、末次信正、陸軍界の荒木貞夫、真崎甚三郎、小磯国造らが彼の旗の下に集った。彼らの多くは拡張主義を熱狂的に主張する軍国主義分子で、特に陸海軍関係者は、後に侵略戦争を発動する中心メンバーとなった。

1939年1月、近衛内閣が総辞職を宣言。平沼騏一郎は総理大臣に就任し、平沼内閣を組織した。当時、日本はすでに全面的な中国侵略戦争を始めており、陸海軍の主力は中国の戦場から抜け出すことができず、日本の人、財、物等の戦争資源が日に日に欠乏し、政府が対策を講じて、局面を打開することが求められていた。平沼は着任早々「生産力拡充計画要綱」を出し、日本の人力、物力、および財力を総動員して、軍需産業の生産規模を拡大し、中国侵略戦争を維持することを決定した。これに伴い、兵役法を改正し、短期兵役制を廃して国民兵役期間を延長し、青壮年を次々と戦場へ送り出した。

1939年3月、平沼内閣は「国民精神総動員委員会」を設置。文部大臣である荒木貞夫陸軍大将が委員長となって、さらに残虐な憲兵警察制度を実施し、全国の人、財、物をすべて政府当局の手中に集約。国民全体を無条件に戦争協力へ駆り立て、軍事独裁のファシスト戦争体制を築き上げた。

平沼の任期中、ノモンハン事件が勃発。関東軍は中蒙国境で大規模な武装衝突を引き起こした結果、ソ連軍に一個師団を潰滅させられ、日本側は交渉の席につき、ソ連と停戦協定を結ぶことを余儀なくされた。

1940年7月、平沼は近衛内閣の内務大臣および国務大臣に就任。近衛内閣の重要メンバーとして、内閣を戦争拡大、対米開戦の道へ積極的に導いた。1945年4月、平沼は枢密院議長となる。この時、日本はすでに大敗を重ね、収拾がつかない状況となっており、武器を捨て無条件降伏するよりほかなかった。しかし、日本の行く末を論じる御前会議の席で、平沼は「国体」維持の立場から、国体を残すことに固執し、無条件降伏に反対。時には号泣して訴え、衆議に反論し、必死になって彼の「国体論」を擁護した。

日本が無条件降伏を宣言して間もなく、平沼はA級戦犯の疑いで逮捕され、巣鴨プリズンへ収容された。1947年11月、極東国際軍事裁判は中国、アメリカ、イギリス、オランダに対する「侵略戦争罪」、およびノモンハン事件発動の責任により、「侵略戦争共謀罪」で終身禁固という判決を下した。

「人民網日本語版」2005年7月25日

靖国神社に祀られるA級戦犯10:広田弘毅

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http://j.peopledaily.com.cn/2005/07/29/jp20050729_52199.html より引用。
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広田は1878年に福岡県で生まれ、1901年に東京帝国大学法学部へ入学した。1915年、日本は中国の主権を著しく侵犯する「二十一カ条の要求」を北京政府へ提出し、広田はこの侵略性文書の起草人の一人となった。

1933年、広田は外務大臣に就任。1935年10月、広田は日中関系に関する三原則(1)中国は排日活動を徹底的に取り締まり、欧米に依存した政策から脱却し、親日政策を採用すること(2)中国は正式に「満州国」を承認し、華北地方における日中満の経済協力を実現すること(3)日中満は防共問題で協力すること――を提出した。「広田三原則」は実質的に中国を日本の軍事、政治、経済統制下に置くものだった。

日本の右翼軍人は1936年2月26日に暴動を起こす。暴動鎮圧後、広田は新内閣の総理大臣に就任する。ほどなく、内閣は軍部大臣現役武官制を復活。これは陸海軍大臣の就任資格を現役将校に限定する制度で、政府と軍部の意見が一致しない場合、陸海軍大臣の辞職等によって政府の組閣がかなわず、総辞職を余儀なくされる。このため、政府は軍部の言いなりになってしまう。広田内閣の誕生は、天皇と軍部を中心とするファシスト体制の樹立を示すものとなった。

広田新内閣は間もなく拡張方針を決定づける「国策の基準」を出した。ここで確立された国策とは、「帝国は東アジア大陸における地位を確保する一方、南方海洋へ進出発展する」というものだった。中国拡張と南進準備のため、日本は全面的な軍備拡張と戦争準備に入る。陸海軍はそれぞれ軍備拡張五年計画と巨大戦艦建造計画をまとめ、言論、産業等各方面における統制を強化した。広田内閣期に、戦争に向けた総動員体制確立の動きが始まったと言える。

広田内閣は1937年1月に総辞職する。同年6月、広田は第一次近衛内閣の外相に就任。盧溝橋事件勃発後、広田は対中国戦争拡大化に関するあらゆる政策決定に参与し、日本を全面的な中国侵略戦争へ導く主謀者の一人となった。

1940年、広田は米内光政内閣の参議となり、顧問の役割を担う。同年、第二次近衛内閣の組閣を決定する重臣会議に出席する。重臣は首相選出という重大な権限を負った。日本の敗戦まで、広田は常に歴代内閣の組閣に携わり、国家最高統治集団の中心に位置した。中国に対する侵略拡大、東条英機の首相選出、太平洋戦争発動に対し、広田は回避することのできない責任を負っている。

1945年12月、広田弘毅は駐日同盟軍に逮捕される。

1946年3月、極東国際軍事裁判は広田弘毅をA級戦犯に認定。法庭で、広田弘毅は相当長い期間、日本の外交を担い、あるいは外交政策の決定に参与し、中国侵略や、日本とドイツ・イタリアとのファシスト同盟結成、太平洋戦争の誘発に直接かつ重大な責任を負っているとされた。

判决書はさらに、南京大虐殺という残虐行為が起こった際、外相である広田は日々おびただしい数の殺人、強姦、その他暴行が行われていることを知りながら、「直ちに暴行を阻止する措置をとるよう内閣会議で主張せず、また暴行を阻止しうる措置を何も講じようとしなかった。これは職務を怠るものであり……彼の怠慢は犯罪を構成する」と指摘した。このため、裁判は広田を「平和破壊罪」と「戦争法規慣例違反および反人道罪」で絞首刑とした。1948年12月23日、広田弘毅は巣鴨プリズンで処刑された。

「人民網日本語版」2005年7月29日

靖国神社に祀られるA級戦犯9:東郷茂徳

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http://j.peopledaily.com.cn/2005/08/02/jp20050802_52293.html
より引用
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東郷茂徳の先祖は朴という姓の朝鮮人で、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に現在の鹿児島へ連行され、後に東郷へ改姓した。東郷茂徳は1882年に鹿児島で生まれる。1912年に、東郷は東京帝国大学独逸文学科を卒業し、その後外交官試験に合格し、外務省へ入る。

1941年10月から1942年9月まで、東条英機内閣の外務大臣兼拓務大臣を務め、太平洋戦争の計画と準備に参画した。太平洋戦争勃発後、他の閣僚と共に太平洋戦争および対中国戦争の指揮にあたった。

1946年4月、東郷はA級戦犯容疑者に指定され、逮捕される。1948年、極東国際軍事裁判は「侵略戦争共同謀議罪」、および中国、アメリカ、イギリス、オランダに対する侵略戦争罪を犯したとして、禁固20年の判決を下す。1950年、東郷は服役期間中に病死。

「人民網日本語版」2005年8月2日

靖国神社に祀られるA級戦犯8:松岡洋右

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http://j.peopledaily.com.cn/2005/08/03/jp20050803_52324.html より引用
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松岡洋右は1880年に山口県で生まれる。1898年、米オレゴン大学へ留学。1902年に卒業後、帰国して外交官試験を受け、外務省に採用される。

1931年の「九・一八事変(満州事変)」後、日本は武力で中国東北地方を占領し、「偽満州国」の傀儡政権を作り上げた。中国政府の訴えにより、国際連盟はジュネーブで臨時会議を開催。松岡洋右は日本代表団の首席代表となる。国連討論の中で、日本は孤立。1933年の決議採択時には、全43カ国中、42カ国が中国東北地方に対する中国の主権を認め、日本の占領を不当と判断した。日本だけが自国の行いに賛成票を投じた。表决後、松岡洋右は登壇して、日本は採択された決議を受け入れられないと演説し、後に国連脱退を宣言した。

1940年7月、近衛文麿が新内閣を組織し、松岡洋右に外務大臣就任を要請。松岡洋右は「まずドイツ・イタリアとの関系を強化し、アメリカとの無益な衝突を極力回避すべきだ。ただし、アメリカが武力で干渉してきた場合は、断固として排除しなければならない」と提案。彼はまた、ドイツとソ連が条約を締結した場合には、ソ連を三国同盟に引き入れ、4国が力を合わせてアメリカに対抗することを主張した。

異分子排除のため、松岡洋右は40名の大使および公使を入れ替え、外務省内の米英派を粛清し、三国同盟の基礎を作った。9月27日、日独意三国軍事同盟を調印。松岡洋右は東京でドイツ・イタリア両大使、および日本政府要人を招待し、盛大な祝賀会を開いた。翌年3月、松岡洋右は独ベルリンを訪問し、ヒトラーと会談。また、彼は「大東亜共栄圏」理論を強固に訴え、日本の外交政策と日本ファシストの対外拡張政策を緊密に結びつけた。

1945年11月、戦犯容疑者の第二段に名前が挙げられ、逮捕される。1946年5月3日に、極東国際軍事裁判が開廷したが、松岡洋右は肺結核が悪化して出庭せず、6月27日に病死し、免訴となった。

「人民網日本語版」2005年8月3日

靖国神社に祀られるA級戦犯7:梅津美治郎

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http://www.people.ne.jp/2005/07/28/print20050728_52157.html より引用
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梅津美治郎は1882年に生まれ、1903年に陸軍士官学校を卒業、1910年に陸軍大学を卒業した。

1934年3月、梅津美治郎は中国駐屯軍司令官となる。1935年5月、梅津は天津日本租界で親日新聞記者二名が殺害された事件をきっかけに、国民党の北平軍分会代理委員長である何応欽へ、「東北地方掃討と華北からの中央勢力撤退」という理不尽な要求を出し、酒井隆駐屯軍参謀長と高橋坦駐北平公使館武官が何応欽と会見して、要求事項の受諾を迫った。

同年7月6日、日本の軍事と外交による圧力を受けて、何応欽は文書形式による日本側の要求受諾を強要され、いわゆる「梅津・何応欽協定」を調印した。(1)河北省内の国民党支部をすべて撤廃(2)国民党駐河北省の東北軍第51軍、国民党中央軍および憲兵三団の撤退(3)河北省主席である于学忠の罷免(4)すべての抗日団体とその活動の取り締まり――が主な内容となっている。

梅津美治郎は1938年5月に日本軍第一軍司令官となる。日本軍を率いて山西省を侵略し、いわゆる「治安粛清作戦」を行い、殺光(殺し尽くす)、焼光(焼き尽くす)、槍光(そうこう=奪い尽くす)という非道な「三光作戦」を実行した。

1940年、梅津は陸軍大将へ昇進。1941年、1942年に「関特演」(関東軍特殊演習、ソ連を仮想敵国とする軍事演習)を命じ、関東軍部隊の訓練を行った。太平洋戦争が勃発すると、梅津は日本軍軍部へ20万人余りの兵力を提供した。1944年までに、関東軍は太平洋や中国等の戦場へ多くの精鋭部隊を送り込んでいる。1940年12月、梅津は第731部隊(細菌兵器製造部隊)の4支部および関連駐屯地設立に関する秘密命令にサインした。

東条英機内閣が太平洋戦争の失敗から崩壊し、小磯国昭を首相とする新内閣が組織されると、梅津美治郎は参謀総長に任命される。1944年8月、梅津は帝国陸海軍作戦の指導大綱を立案し、「帝国本土を中核とし、資源要域としての南方圏と、両地をつなぐ要域を確保し、組織的戦闘を徹底し、敵の進攻を阻止する」という基本方針を定めた。

第二次世界大戦の終結前夜、梅津美治郎や阿南惟幾陸軍大臣、豊田海軍参謀総長らは敗色濃厚となってもなお失敗を認めず、徹底抗戦を要求し、日本天皇に拒絶される。9月2日、天皇は梅津と重光葵外務大臣に対し、日本軍部を代表して戦艦ミズーリ号の降伏文書調印式に出席するよう命じた。

1946年4月、極東国際軍事裁判は梅津美治郎、重光葵ら4名の逮捕を命じた。1948年11月、梅津はA級戦犯として終身禁固の判決を下された。1949年1月8日、梅津美治郎は癌を患い、東京巣鴨プリズンで死去した。

「人民網日本語版」2005年7月28日

靖国神社に祀られるA級戦犯6:武藤章

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http://j.peopledaily.com.cn/2005/08/04/jp20050804_52399.html より引用
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武藤章は1892年12月に熊本県で生まれ、1920年に日本陸軍大学を卒業した。1936年に中国へ赴任し、関東軍参謀部第二課課長となった。

1937年に起きた「八・一三事変(第二次上海事変)」後、日本軍は上海へ進攻したが、中国軍の激しい抵抗を受け、速戦即決の目標は達成されなかった。武藤章は軍隊を派遣し、杭州湾へ上陸することを提案した。彼の意見は採用され、日本軍の上海占領計画は達せられた。献策の功により、彼は中支方面軍参謀副長に任命される。武藤章は新職務就任後、直ちに南京へ進攻することを提案した。1937年12月1日、日本大本営は彼の意見を聞き入れ、南京進攻の命令を下す。

1937年12月13日、日本軍が南京を占領し、続いて30万人の中国同胞が殺害されるという大惨事が起きた。武藤章はこの惨事を招いた元凶の一人である。当時、武藤章は中支方面軍参謀副長の肩書きで、南京地区における日本軍の宿営地手配を担当していた。武藤章は、南京城外に宿営地が不足しているので、日本軍将兵は南京市内で自由に宿営地を選べると発言。この発言をきっかけとして、まるで野獣のオリを開けたかのように、日本軍は南京城内のあらゆる路地へ入り込み、男性を見れば殺し、女性を見れば強姦し、財を見れば略奪し、全世界を震撼させる南京大虐殺事件を引き起こした。

1942年、武藤章は中将へ昇進し、近衛師団長となって、軍を率いてフィリピンへ侵入する。1944年、第14方面軍参謀長に就任。この間、彼は現地住民を虐殺し、「マニラ虐殺事件」を起こす。

 1948年11月4日、極東国際軍事裁判は武藤章をA級戦犯と判定し、絞首刑を宣告する。同年12月23日、武藤章は東京巣鴨プリズンで絞首刑に処せられる。

「人民網日本語版」 2005年8月4日

靖国神社に祀られるA級戦犯5:板垣征四郎

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http://j.peopledaily.com.cn/2005/07/26/jp20050726_52084.html より引用
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板垣征四郎は士官の家に生まれ、1904年10月に東京陸軍士官学校を卒業、1913年に日本陸軍大学へ進学する。

1917年から1919年まで、板垣征四郎は参謀本部部員を務め、中国へ派遣されて特務活動に従事した。1922年より、日本参謀本部中国課課員となって、さらに頻繁に中国へ出入国するようになり、中国侵略の陰謀活動に従事し、中国各地へ足跡を残した。板垣は長期にわたって中国へ出入りし、陰謀活動に携わったことから、土肥原賢二や磯谷廉介と共に、日本陸軍における三大「中国通」と呼ばれた。

板垣征四郎は、日本関東軍と東北三省の中国軍との衝突は避けられないと見て、関東軍の先制攻撃を強く主張した。このため、1930年6月より、板垣はいわゆる「参謀旅行」を開始し、ハルビン、錦州、旅順等に対する徹底調査を行った。1931年3月、板垣は日本陸軍歩兵学校で「軍事上から見た満蒙」と題する演説を行い、中国東北地区は日本の「国防の第一線」であるとし、中国東北地区の占領をぶち上げた。5月29日、部隊長会議の席で、彼は再び「満蒙問題について」と題する演説を行い、中国東北地区およびモンゴルへの出兵と侵略をさらに訴え、これを日本の「当面の急務」であるとした。6月19日、日本陸軍省と参謀本部は「満蒙問題解決方策大綱」をまとめた。本計画では、翌年春に軍事行動をとるとされていたが、関東軍参謀部は満蒙対策に直ちに着手し、「自ら仕掛ける」必要があると主張した。日本軍部の支持を受けて、板垣征四郎と石原莞爾は詳細な計画と手筈を整え、奉天(現在の瀋陽)北郊の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これを口実に奉天へ出兵、さらに中国東北三省を占領することを決定した。1931年9月18日夜10時頃、関東軍南満鉄道守備隊柳条湖分遣隊は、本庄繁関東軍司令官の密令により、奉天北郊の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破。その後、中国軍が線路を破壊し、日本軍を襲撃したように装った。11時頃、日本軍は大挙して中国東北軍の駐屯地である「北大営」へ進攻し、中外を震撼させる「九・一八事変」(満洲事変)が勃発。日本軍国主義はここから一歩一歩、全面的な中国侵略戦争への道を進み始めた。

1932年8月8日、板垣は陸軍少将へ昇進し、「偽満州国」の執政顧問へ就任した。1934年8月1日、「偽満州国」軍政部最高顧問となり、1936年3月23日に関東軍参謀長へ昇進する。

1938年6月3日より、板垣は近衛内閣の陸軍大臣となる。1939年1月5日から8月30日まで、平沼騏一郎内閣の陸軍大臣と対満事務局総裁を兼任。内閣会議で、板垣は中国侵略戦争を拡大し、中国国民政府を打倒して、代わりに傀儡政権を樹立せよと強硬に主張した。また日本とドイツ、イタリア等のファシスト国家との軍事同盟強化を提唱し、対ソ戦争を積極的に画策した。1939年2月、板垣は陸軍省の名で「支那事変地より帰還する軍隊および軍人の言論指導取締に関する件」という命令を出し、帰国した日本軍将兵が中国における日本軍の暴行を言い立てることを禁止した。

1939年9月4日、板垣は支那派遣軍総参謀長に任命され、引き続き中国侵略戦争の指揮に携わった。1945年4月7日、板垣は第7方面軍司令官となり、司令部をシンガポールに置いて、オランダ領東インドおよびマレーア等における同盟軍の作戦を指揮した。8月15日、日本は無条件降伏を宣言。9月、板垣は第7方面軍を率いて、シンガポールでイギリス軍に投降する。

板垣征四郎はイギリス軍への投降後、駐シンガポール司令官のスミスを買収し、偽名を使って裁判を逃れ、命拾いをしようと企んだ。しかし彼は日本ファシストの重要軍事指導者の一人として、日本の侵略戦争において重要な役割を演じ、重大な罪を犯した。中国軍の申し出を受けて、1945年12月、駐日同盟軍本部は板垣征四郎を逮捕し、専用機でシンガポールから東京へ護送して、裁判にかけるため巣鴨プリズンへ収容する命令を下した。1948年11月12日、極東国際軍事裁判は板垣をA級戦犯として、絞首刑に処す判決を下した。12月23日、板垣は東京巣鴨プリズンの処刑室で絞首台へ送られた。

「人民網日本語版」2005年7月26日

靖国神社に祀られるA級戦犯4:白鳥敏夫

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http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanti/zhanfan/12.htm より引用
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白鳥敏夫は1887年に千葉県で生まれ、東京大学法学部を卒業し、外務省へ就職した。

1938年、白鳥はイタリア大使に就任する。1939年1月、平沼騏一郎内閣が成立し、ナチスドイツは再び平沼内閣へ三国同盟結成を提案した(1938年8月にドイツは近衛内閣へ議案を提出したが、内閣の意見がまとまらず、実現しなかった)。

大島浩駐ドイツ大使と白鳥敏夫駐イタリア大使は、この提案に積極的賛同と支持を表明し、連名で内閣へ賛成意見を提出した。平沼内閣は直ちにドイツ提案に関する討議を行い、板垣征四郎陸軍大臣と東条英機陸軍次長が三国軍事同盟の結成に積極的賛同を示した。

有田八郎外務大臣や海軍派も三国同盟条約の締結に賛成したが、日本の主要敵国はソ連であり、英米との衝突を避けるべきと主張した。内閣の意見は大島・白鳥両大使へ伝えられ、それぞれドイツとイタリアへ伝達するよう訓令が出された。しかしながら、英米と開戦しないという姿勢を内閣が明確に示さなかったため、大島と白鳥は、内閣の訓令を独伊両国へ伝達できないと連名で述べた。

 3月22日、内閣は首相、陸相、海相、大蔵相、外相からなる五相会議を開き、「独伊両国が英米と開戦した場合、日本は原則として支持するが、現在および近い将来に参戦することは難しい」というあいまいな結論を出した。ところが、大島と白鳥は政府の意向を無視し、相手国外相に「ドイツやイタリアがソ連以外の国から攻撃された場合、日本は参戦する義務がある」と勝手に請け負った。

4月11日、昭和天皇は板垣を呼び出し、両大使が勝手に参戦の意思を示し、天皇の「統帥権」を侵害したと指摘。同年8月、内閣は五相会議を開いたが、海軍も三国同盟に乗り気ではなかったため、板垣は陸軍大臣を辞し、平沼内閣は総辞職を宣言。三国同盟は一時棚上げとなった。

1940年9月9日、近衛内閣は首相、陸相、海相、外相からなる四相会議を開き、日独伊枢軸国軍事同盟を締結する原則を固めた。9月27日、日独伊三国はベルリンで三国軍事同盟条約を正式に締結した。三国軍事同盟条約の調印後、白鳥は帰国し、外務省顧問となった。1940年8月、近衛内閣は大政翼賛会を組織し、国内の政党をすべて解散させた。白鳥は大政翼賛会総務に推薦されて、大政翼賛会の運営実務を担当し、日本の対外侵略や、国内鎮圧といった軍事ファシスト体制強化に犬馬の労を尽くした。

日本の無条件降伏宣言後、白鳥はA級戦犯の疑いで占領当局に逮捕され、1948年11月に「侵略戦争共同謀議罪」で終身禁固(無期懲役)となった。法廷では、白鳥が在職期間中、侵略戦争拡大に向けた「最も有力な宣伝者」となり、「量刑は彼の職務を考慮したものではなく、その行動が自身の職務を超越し、重大な結果を招いたことによる。このため本法庭は彼を(侵略戦争)共同謀議のリストに加えた。その罪はたいへん重い」とされた。

1949年9月、白鳥敏夫は服役期間中に獄死した。

「人民網日本語版」

靖国神社に祀られるA級戦犯3:土肥原賢二

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http://www.people.ne.jp/2005/07/20/print20050720_51934.html より引用
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土肥原賢二は岡山県の軍人の家に生まれ、14歳で仙台地方陸軍幼年学校へ入学し、東京陸軍幼年学校、日本士官学校、日本陸軍大学で学んだ。1912年に陸軍大学を卒業後、陸軍参謀本部に入り、すぐに参謀本部によって中国へ派遣された。北京特務機関で坂西利八郎中将の補佐官を務め、中国における特務活動のスタートを切った。

土肥原は流暢な北京語を話すほか、中国の方言も幾つか操ることができ、諜報工作を行う上でかなり有利な条件となった。活動成績が目覚ましかったことから、1930年に天津特務機関長となり、翌年には奉天(現在の瀋陽)特務機関長に就任した。

土肥原が奉天に到着して数カ月後、九・一八事変(満洲事変)が勃発。戦後の極東国際軍事裁判で「土肥原賢二は1931年の九・一八事変の共謀者である」とされた。主な理由として、(1)事件発生時は奉天にいなかったが、彼が率いる土肥原特務機関が事件発動の中心となった(2)土肥原は東京滞在時に、新聞・雑誌等で「満州に関するすべての懸案事項を速やかに解决しなければならない。必要なら武力をもって解决をはかる」と公言した(3)事件発生から3日後、土肥原は東京から戻り、奉天市長に就任した(4)土肥原は遜帝溥儀を天津から東北地方へ移送する陰謀を企て、実行した――が挙げられた。このため、極東国際軍事裁判は土肥原を九・一八事変に対する「侵略計画共謀罪」で起訴し、罪証は「確実不動である」とした。

九・一八事変後、土肥原は東北地方で溥儀を擁立し、満蒙「五族共和」体制の日本傀儡政権を樹立することを提案した。関東軍の支持を受け、自ら天津へ赴いて「便衣隊」(ゲリラ部隊)暴動事件を起こし、その機に乗じて溥儀を天津から東北地方へ移送した。土肥原らの演出により、溥儀を首領とする偽満州国政権が間もなく成立し、東北地方は日本の植民地に成り果てた。

東北地方占拠後、日本は華北地方へ勢力を拡大した。土肥原は1933年に再び奉天特務機関長となった。1935年10月、土肥原特務機関は北京に進出し、中国分裂を目標とする「華北自治運動」を画策した。

1936年3月、土肥原は帰国して留守第一師団師団長に任じられた。1937年3月、今度は第14師団師団長に任命された。

1937年に盧溝橋事件が勃発し、日本は全面的な中国侵略戦争を発動。土肥原は命令を受けて、部下を率いて中国へ渡った。

1938年6月、日本は占領地域を統轄する偽政権を樹立するため、対華特別委員会を設立。土肥原が責任者となって、「土肥原機関」と称し、後に「重光堂」と改称。上海に拠点を置いた。

土肥原は1939年に北満第五軍司令官、1940年に日本軍事参議官兼陸軍士官学校校長、1941年に陸軍大将へ昇進して陸軍航空総監に就任。1943年に第七方面軍司令官となり、マレーの第29軍、スマトラの第25軍、ジャワの第16軍、ボルネオの日本守衛隊を統轄。1945年に東京へ戻り、教育総監に任じられた。

日本の敗戦後、土肥原賢二は同盟軍に逮捕され、横浜刑務所に収容される。1948年11月、土肥原は「平和破壊」「戦争法規慣例違反および人道に対する罪」等により、極東国際軍事裁判でA級戦犯という判決を下され、巣鴨プリズン内で絞首刑が執行された。

「人民網日本語版」2005年7月20日

靖国神社に祀られるA級戦犯2:小磯国昭

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http://www.people.ne.jp/2005/08/01/print20050801_52252.html より引用
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小磯国昭は、1880年3月に山形県宇都宮市に生まれる。日本陸軍士官学校および陸軍大学で学んだ。

1932年、小磯国昭は関東軍参謀長に就任。着任後すぐ、中国東北地方の全面的な殖民統治に関する一連の措施を立案し、主に抗日義勇軍を対象とする「討伐」計画をまとめた。その後、関東軍は東北各地で抗日武装勢力を激しく鎮圧し、容赦なく住民を虐殺するとともに、大量の財産や物資を略奪した。

1944年7月、東条英機内閣が総辞職し、小磯国昭が首相に就任する。この時、日本はすでに敗戦の気配濃厚となっていたが、首相となった小磯国昭は日本軍国主義の失敗を認めず、引き続き戦争政策を推し進めた。

劣勢を挽回するため、小磯国昭は内閣と統帥部の連系強化を狙って、首相、陸首、海相、参謀総長、軍令部総長、外相等からなる「最高戦争指導会議」を設置し、従来の大本営政府連絡会議に代替。目的は内閣と軍部が協調し、戦争指導に役立てることだった。

8月9日、天皇が臨席した最高戦争指導会議で、小磯国昭内閣は(1)現有戦力と国力を徹底的に結集して敵を撃破する(2)戦争の貫徹(3)徹底的な対外政策を実施し、世界戦局の好転を促す――という戦争指導の基本方針を提出した。この戦争指導方針の下、小磯国昭はフィリピンで発動する「天王山决戦」に希望を託した。しかしながら、日本軍はフィリピン海戦および台湾海域の空中戦で度重なる打撃を受け、「天王山决戦」はついに実現しなかった。

戦後、小磯国昭はA級戦犯として、極東国際軍事裁判で終身禁固の判決を受けた。1950年11月3日、侵略戦争で昇進した日本陸軍大将および前内閣首相である小磯国昭は、東京巣鴨プリズンで病死した。

「人民網日本語版」2005年8月1日

靖国神社に祀られるA級戦犯1:木村兵太郎

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「人民網日本語版」 2005年8月5日より引用
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanti/zhanfan/7.htm
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木村兵太郎は埼玉県人で、1888年9月に生まれ、陸軍士官学校および陸軍大学を卒業した。
1939年3月、木村兵太郎は中国侵略日本軍第32師団師団長に任命される。1939年4月、彼は8000人以上の日本軍を率いて山東省南部の抗日根拠地の掃討を行った。木村兵太郎は無抵抗の民間人を虐殺するよう兵士に命じ、また2000人以上を拘束し、済南の「新華院」強制収容所へ連行し、強制労働させた。

1941年10月、東条英機内閣が発足し、木村兵太郎は陸軍省次長の職に就く。10月24日、東条内閣の主催で大本営連席会議が開かれ、陸軍省が提出した計画に従い、対米開戦のすべての手筈が整えられた。会議後、南方陸軍部隊は直ちに作戦地点へ集結し、海軍も鹿児島を模擬作戦地点とし、真珠湾奇襲作戦の演習を終日行った。この一連の軍事配置において、木村は具体的な計画策定者および指導者だった。11月5日に御前会議が行われ、最終的に木村らが提出したアメリカ、イギリス、オランダに対する陸軍省作戦計画に同意し、12月初めに正式宣戦することを決定した。

 1944年7月、木村兵太郎はビルマ方面軍司令官に任じられる。木村の赴任後も、日本軍の残虐行為に対する放任措置は続いた。さらに30万人余りのインドネシア人青年を「兵補」という名の補助兵力として集め、ビルマやニューギニア作戦へ送り込み、うち9割はジャングルの中で悲惨な末路を遂げた。

日本の無条件降伏後、アメリカ占領当局は、アメリカ、イギリスに対して発動した侵略戦争に参画および画策したとして、木村をA級戦犯容疑者のリストへ入れた。1948年11月12日、極東国際軍事裁判は「侵略戦争共同謀議罪」(反和平罪)、中国に対する侵略戦争罪、アメリカに対する侵略戦争罪、イギリスに対する侵略戦争罪、オランダに対する侵略戦争罪、および「国際法に違反した戦争犯罪」(権限授与、命令、違法行為承認、違法行為無視の責任を含む)等計7項目の罪を犯したとして、絞首刑の判決を下した(無期懲役以下の戦犯は罪名が6項目以下の場合が多い)。 1948年12月23日、木村は巣鴨プリズンで絞首刑に処せられる。

現在、日中両国の関系は新たな困難に直面している。その根本的原因は、日本の一部勢力が歴史問題を正しく認識していないことにある。我々は、歴史問題を正しく認識し、「歴史をねじまげない」ことが必要であり、歴史問題を正しく認識しなければ、日中関系を発展させ、アジア太平洋地区、ひいては世界の平和と発展を維持することはできないと考える。日中国交正常化30年余りの事実が証明するように、歴史問題を正しく認識できたときに、両国関系は健全な発展を遂げる。さもなければ、困難や挫折を迎えてしまうだろう。

靖国神社には第二次世界大戦中に重大な戦争犯罪を行ったA級戦犯が祀られている。彼らA級戦犯は、両手を中国人民、およびアジア各国の人々の鮮血で汚した元凶かつ主謀者である。日本の指導者による靖国神社参拝は、一つの国家があの侵略の歴史をどのように認識し、対処するかという根本的問題に関わっている。

週刊金曜日 06.8.4号

  <<『 週 刊 金 曜 日 』 メ ー ル ニ ュ ー ス >>  2006.08.04
___________________________________________________________『週刊金曜日』
<http://www.kinyobi.co.jp/>
 【1】今週号のことばから
 【2】一筆不乱(編集長コラム)
 【3】注目の記事
 【4】今週号目次と次号予告
 【5】最近話題の「裏窓」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 【1】今週号のことば

「詩は人生に目標をあたえ、苦悩をやわらげる精神の薬のようなもの、と外国では言われているけれど、日本は世界でも稀なほど詩が読まれず、詩人が育たない国だ」(椎名誠 本誌編集委員)

「われわれはテロ組織といわれているが、真のテロリストは国王であり、それを支援するアメリカだ」
(プラチャンダ ネパールの反政府組織「マオイスト」リーダー)

「あの調査会とは2004年末から関わりを絶ってきました。辞表を正式に受理され、清々しています」(品川森一 前プリオン専門調査会専門委員)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 【2】一筆不乱(編集長コラム)

東京五輪の夢よ、もう一度ですか。足下を見つめるほうが先でしょう、石原知事
 文字通り、手に汗を握った。
(つづきはホームページでどうぞ)
[一筆不乱]はこちら↓
 http://www.kinyobi.co.jp/KTools/hensyu_pt?v=vol617
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 【3】注目の記事

■佐高信編集委員インタビュー
A級戦犯の孫 元外務省局長
東郷和彦氏が語る
「天皇メモと靖国」 歴史の針を一時止めよう

首相の靖国神社参拝について私たちは何を考え、どう行動すべきなのか――
A級戦犯・東郷茂徳元外相を祖父にもち、外交の第一線に長く立ってきた東郷和彦氏が、長い沈黙を破り緊急提言する。

■遺族座談会
息子は自衛隊に殺された
写真撮影・構成 三宅勝久(ジャーナリスト)
【出席者】
Hさん(「さわぎり」事件の遺族)
I夫妻(「たちかぜ」事件の遺族)
吉岡吉典(前参議院議員)

自衛隊員の自殺が跡を絶たない。昨年度の自殺者数は、自衛官93人に事務官等8人を合わせた計101人。前年度(100人)に続き過去最多を更新した。防衛庁は対策に取り組んでいるというが、焼け石に水。一方で、殺人、強盗、薬物汚染などの凶悪犯罪も続発。そして凄惨ないじめが横行する。「荒れる自衛隊」の実態について、自殺した自衛官の遺族たちが語り合った。

■2016年五輪招致
独断専行する行政の本音は大型再開発(谷口源太郎)
オリンピック国内候補地決定が8月30日に迫った。
名乗りを上げている東京と福岡で反対の声が高まっている。
強引に招致を進める両都市の背景事情を探る。
オリンピックもいいけれど……
どうする? 首都直下地震の瓦礫の山(片岡伸行)

■「御用審議会」に辞表をたたきつけた研究者が語る
これがプリオン調査会の実態だ(岡田幹治)
帯広畜産大学名誉教授前プリオン専門調査会専門委員
品川森一
多くの消費者の反対を押し切り、米国産牛肉の輸入が再々開された。
安全とはとてもいえない牛肉に「輸入可能」のお墨付きを事実上与えたのが、食品安全委員会のプリオン専門調査会だ。
そこではどんな審議が行なわれてきたのか。理不尽な運営に抗議して辞表をたたきつけた国際的研究者が、その内幕を明かす。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 【4】今週号目次と次号予告
ホームページ上で一部全文公開しています。
URL http://www.kinyobi.co.jp/KTools/mokuji_pt?v=vol617
━━━━━━━━━
P7.風速計 アンバランス(椎名誠)
━━━━━━━━━━━
P8.A級戦犯の孫 元外務省局長
東郷和彦氏が語る「天皇メモと靖国」(聞き手・佐高信)

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