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元中帰連憲兵少佐の訪中記録 学習会_2017.3.18

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撫順の奇蹟を受け継ぐ会東京支部 学習会
2017・3・18(土)13:00東京 府中市 分倍河原駅 
ーー
宣伝です。学校では教えず、安倍自民が賛美する日本の侵略行為の実相に触れてみてはいかがでしょうか。

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日本兵が日本兵を銃殺 当事者の元隊員95歳男性が記録に,琉球新報

琉球新報2016.12.26より引用。東京新聞のこちら特報部のデスクメモにも記載あり。
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-417850.html
日本兵が日本兵を銃殺 当事者の元隊員95歳男性が記録に 「住民虐殺、強姦・強奪許せず」
 1945年の沖縄戦で激戦地となった摩文仁で、日本兵が沖縄住民を殺害したり強姦(ごうかん)したり食料強奪をしたりする事態を我慢できず、別の日本兵がその日本兵を殺害する出来事があった。当時、沖縄で戦闘に参加した元日本兵・飯田直次郎さん(95)=神奈川県在住=は自ら日本兵を銃殺したことを証言した。飯田さんは知人の協力を得て、中国で戦争に参加した体験や沖縄戦の詳しい足跡を原稿用紙129ページにまとめた。
 45年6月、球部隊に所属していた飯田さんは摩文仁の壕に潜んでいた。一緒に逃げて仲良くなった日本海軍兵や周辺住民から「自分が隠れている壕で住民にひどいことをしている軍曹がいる」と聞いた。その内容は、住民や子どもを殺害したり女性を強姦したり食料を強奪したりするほか、その一帯で水が飲めた唯一の井戸を独り占めにしているというものだった。
 ある日、飯田さんも「佐々木」という名の軍曹による「悪行を目撃」した。「見るに堪えない。もう限界だ。同じ日本の兵隊として許せねえ」と殺意が湧いた。海軍兵に「このまま見て見ぬふりできねえ。島民が殺されているんだぜ。やつさえいなければ皆なんとかしのげる。水も飲める」と殺意を明かした。
 飯田さんは米軍との戦闘前、那覇市の住民宅で寝泊まりし、沖縄の人々から温かくしてもらったことへの「恩義」もあって「住民を殺す日本兵が許せなかった」と言う。ある晩、井戸で住民に嫌がらせをしている佐々木を見つけた。人影がなくなったのを見計らい、軍服を引き裂いた布で拳銃を隠し持って近づき、水を飲んでいる佐々木の後頭部に銃を近づけ引き金を引いたという。
 飯田さんは「全ては島民のためと思ってやったが、私自らの手で日本人をあやめてしまった。70年余たっても忘れられない」と話し、今でもつらい思いが残っていることを吐露した。
 本島南部の激戦時、食料が尽きて飢えた日本兵が夜、米軍の陣地に忍び込んで食料を盗み、その帰りを待ち伏せた日本兵がそれを奪い、殺し合う事態も「よくあった」という。「戦場では人間が人間ではなくなってしまう」と振り返る。
 飯田さんは「軍隊は住民を守るどころか、軍隊がいることで戦場になってしまう。(辺野古に)飛行場を造ることはいいことではない。沖縄の人々にとって戦後は終わっていない。戦争は絶対に駄目だ。勝っても負けてもよくない。自分の命を落としてでも俺は絶対に反対する」と語った。(新垣毅)
       ◇     ◇
 【沖縄戦研究・石原昌家沖縄国際大名誉教授の話】
 住民への日本兵による残虐行為の証言は多いが、日本兵自身による詳細な証言はあまりなく、貴重だ。
(引用終わり)
ーー
軍隊が国民を守らないことを肝に銘じなければならない。満州で敗戦時、関東軍が開拓団をほったらかして一番に逃げたなど。まして、国民を虐殺するとは。中国他での日本鬼子の行為を思い出す。安倍のよく言う海外邦人の保護など詭弁だ。

再訪中国の旅5、本多勝一 旅順虐殺

週刊金曜日1995年8月25日号より引用。
P40三月一五日。大連に寄ったらぜひ訪ねてみたいと思っていたのは、日清戦争にまつわる事物である。日本の軍国主義が飛躍的にすすむことになるこの最初の対外大戦争(一八九四〜五年)が終って今年で一〇〇年、生きている体験者はもちろんいない。最後の体験者は一〇年ほど前(一九七六年)に九六歳で死んだという。
 旅順を占領した日本軍による無差別な残虐行為(旅順虐殺事件)外国に当時報道されたが、たとえば南京大虐殺で生存者から聞ききしたような細部の内容を知ることは、もはやできない。
(略)旅順には虐殺の死体が、うめられたという万人坑があり、去年それが発掘されたときの写真もある。さまざまな虐殺の実態紹介のあと、清朝の腐敗が侵略を許した背景でもあることを指摘し、教訓としている。(略)

P41いや、戦後どころか日清戦争の実態そのものが、実はまるで伝えれていない。あたかも南京大虐殺の実態がわかりはじめるのに戦後何十年もかかったように。最近刊行された。日清戦争従軍写真帖ー伯爵・亀井茲明の日記(柏書房)で、藤村道生氏は次のように解説している。
「ワールド」は「旅順の日本軍は陥落の翌日から四日間、非戦闘員、婦女子など約六万人を殺害し、殺戮を免れた清国人は旅順全市でわずか三十六人に過ぎない」と報じ、そのうえで。日本は文明の皮膚を被り野蛮の筋肉を有する怪獣なり、日本は今や文明の仮面を脱し、野蛮の本体を暴露した」と糾弾した。旅順から日本に立ち寄った『タイムズ』通信員は陸奥外相に、「日本軍は捕虜を縛ったまま殺害し、平民とくに婦人まで殺害したのは事実である。これは各国記者や東洋艦隊の士官が目撃している」と強調し、「日本政府の善後策如何」と質問した。(略)
P42国内ではこの事件は厳重に秘匿された。直接の責任者は第二旅団長として旅順攻略を指摘した乃木少将にあると思われ、今日でも大連市では子供が泣きやまぬとノギが来るぞ」といって黙らせる由であるが、かれの責任は問われず、一〇年後
の日露戦争における旅順要塞の攻略と明治天皐への殉死により聖将として乃木神社にまつられている。
 それでは日清戦争の戦後がどうだったがを簡略に述べるために、一八九五年四月一七日に下関で調印された講和条約について、講談社版『日本全史』の「日清講和条約」の項から引用しよう。「その要旨ばつぎのようなものである。靖国は朝鮮が独立自主の国であることを承認する。②清国は遼東半島・台湾・澎湖列島を割譲する。③清国は賠償金として庫平銀(庫平とは納税用の清朝の秤)二億両(約三億円)を支払う。④清国は新たに沙市・重慶・蘇州・杭州を開市・開港し、日本汽船の航行権を長江は重慶、呉松江は蘇州・杭州まで延長する。講和会議では、李鴻章がただちに休戦に入ることを求めたのに対し、軍部が休戦に反対していることを知っていた伊藤(博文)は、清国側に苛酷な条件を提示して休戦を引き延ばし、占領地の拡大をもくろんでいた。しかし、三月二四日、自由党の壮士小山豊太郎が李鴻章をピストルで撃ち、重傷を負わせたことに日本政府は狼狽。休戦を承認し、講和の話し合いが進められていた。日本はこれを機に植民地帝国へと歩を進め、巨額の賠償金は軍備拡大や日本資本主義の発展・育成の財源となる」
 右のなかで「庫平銀二億両」がどれほど巨額を賠償金だったか、ピンとくる日本人は少ないであろう。これは石川真澄氏の一文から引用するとわかりやすい。

「一八八九四年八月から翌年四月までの日清戦争に日本は勝って台湾・澎湖列島の割譲などのほか、賠償金二億両を得た。日本円で三億六千四百万円、当時の日本の国家予算の四年分だった」(。朝日新聞』一九九五年六月二七日「現代史ウオッチング」)
 以後、日本は朝鮮の植民地化へとバク進し、中国にたいしても五〇年間におよぶ侵略がつづくことになる。“国家予算四年分」もの巨額の賠償金は、まさに「日本資本主義の発展・育成の財源」(前記。日本全史』から)となった。日中戦争は「一五年戦争」ではあるまい。つまり日本は旅順大虐殺をともなう侵略を中国にした上で莫大な賠償金をとり、それによって飛躍的な経済発展の基礎をかためた。それがまた南京大虐殺その他のよりおおきな侵略で中国を苦しめる悪循環ともなりつつ、一九四五年(日本敗戦)をむかえる。
 だが、こんどは「侵略された側」たる中国が、日本にたいする国家間賠償を放棄して平和条約を結んだ。これはまさに「天地の違い」であろう。日本側にその認識がなくても、中国側は日本の「援助」や「戦後補償」にこうした背景を忘れてはいない。(略)
ーー(引用終わり)
以前掲載の再訪中国の旅の最終回が抜けていたので、掲載。司馬遼太郎は明治時代をよきものと「坂の上の雲」だったかの小説に書いていたが、だいぶ真実のイメージは違うなあ。日本軍の虐殺のDNAは日清戦争から始まってたいたとは。それにしても中国、韓国が日本に対しての国家賠償を放棄しているのはなぜなのか?

軍事がわからない安倍首相の暗愚 田岡俊次

週刊金曜日2015.5.29号より、引用。

安全保障法制に関する安倍晋三首相の5月14日の記者会見と20日の党首討論での発言を聞くと、「この人と周囲の人は安全保障問題をわかっていないのではないか」と思わざるをえない。「安保条約改定の際にも、戦争に巻き込まれるとの批判が出たが、全く的外れだったことを歴史が証明している」と言うのは、1962年10月の「キューバ危機」をご存じないからだろう。キューバの封鎖に当っていた米駆逐艦が、ソ連潜水艦の威嚇目的で小型爆雷10発を投下したため、潜水艦長の中佐は「戦争が始まった」と判断、核魚雷の発射を命じたが、たまたま同艦に乗っていた潜水艦隊参謀の中佐が「様子を見よう」と説得し、世界は核戦争を免れた。
この時、米軍は在日米軍を含む全軍を臨戦状態に置き、B52爆撃機は核爆弾を搭載してーソ連領空外で旋回待機し、弾道ミサイルも即時発射態勢を取っていた。ソ連も同様な措置で応じていたから、冷静な一士官がそこに居たという偶然がなければ全面核戦争になり、米、ソで各7000人余、欧州で数百万人の死者が出たと推計されている。
 日本の米軍基地も当然核攻撃の対象となり、おそらく数十万人の死者が出るところだった。(略)また、「戦闘に参加することは決してない」と安倍氏が言うのも変だ。提出されたPKO協力法の改定案等では、他国の部隊をどへの攻撃があれば、自衛官は武器を使用して警護できる、としている。これは戦闘が起っている状況に飛び込むのだから、戦闘をせずにすむわけがない。
 攻撃側が馬鹿でなければ、自衛隊が駆け付ける経路には警戒部隊を配置し、待ち伏せる可能性も十分ある。

 戦死者が出る可能性大
(略)新・日米防衛協力の指針の改定でも、米国が発表前に中国に内容を説明していたことは、4月28日の中国外務省の定例記者会見で、洪レイ報道官が新華社通信記者の質問に対して「事実」と認めたが、『東京新聞』がこれを小さく報じただけだった。日本メディアは指針改定による「中国牽制」を言うが、牽制するはずの相手に事前に米国側が説明にうかがうのでは牽制にならない。政権に不都合なことを国民に伝えることを遠慮しては、報道機関は国家の警報装置としての機能を果しえないと案じざるをえない。
ーー
久々に元帥の引用。きな臭い今後はこの人の出番も増えるだろう。

中国での加害歯止め失う、平頂山事件ほか 東京新聞2015.10.1

「十五年戦争」とも言われる中国への侵略で、(略)中国の犠牲者がアジア最多であることは疑いなく、日本人はそれを直視しなければならない」
中国の死者数(中国側の見解)、平頂山事件3000人日本の司法虐殺を認定 撫順炭鉱、南京事件(30余万人)、華北の治安戦(人数示さず)焼き、殺し、奪い尽くす三光作戦。重慶爆撃(人数示さず)、大陸打通作戦(日本側の見解60~70万人)
 背景には日清戦争で破った中国への蔑視があった。
平頂山事件も南京事件も詳しい実態は東京裁判で明らかにされた。戦勝国の指摘だったこと、当初は中国との国境がなかったことなどから、日本ではほとんど研究されてこなかった。

シベリア抑留肉声残す 朝日神戸版2016.5.10

1.jpg
2.jpg著作権は朝日新聞にあります。
記録映画14~20日上映 元町 
旧日本軍の兵士や軍属、民間人らが敗戦後、旧ソ連の強制収容所(ラーゲリ)に送られた「シベリア抑留」。
苦痛は戦後も続き、就職の面接で「シベリア帰りか」と面接官から言われた。
「シベリア特措法」が10年にできたが、対象者は日本国籍の生存者に限られた。実態解明も進展もないままだ。
映像作家いしとびたま さん
 いしとびさんは撮りためた映像をこれまで計4作品に編集した。今回上映するのは10〜13年に取材した36人の証言を編集し、昨年完成した最新作だ。10代で抑留された人や台湾出身者、元看護婦もいる。
 映画「帰還証言 ラーゲリから帰ったオールドボーイたち その2後編(シベリア抑留編)」の上映は14〜20日の午前10時から、神戸市中央区元町通4丁目の元町映画館(078・366・2636)で。入場料1千円。
 自主上映も呼びかけている。
ーー(引用終わり)
戦争に負けたら国はなにもしてくれない、棄てられるだけだ(満州棄民、野ざらしの兵隊の遺骨・・・)。

韓国 籍 朝鮮 分離公表2016.3.19東京新聞

一括集計から一転法務省 
日本の植民地支配に連なる朝鮮半島分断の歴史を、日本政府自ら固定化することにならないか。
彼らは終戦後も日本国籍だったが、47年、外国人登録令施行で「朝鮮」と記された。
東京新聞より引用。

続 棄てられた「皇軍」兵士、週刊金曜日1995.7.7号

伊藤孝司 週刊金曜日1995.7.7 第81号P23-28より引用。
朝鮮人軍人・軍属たちと植民地支配 
P24「同じ部隊の三人が、釜で煮た肉をうまそうに食べていました。彼らが『イノシシだ』と言って私にも勧めるので、ひもじさのあまり飛びかかるようにして肉を手にしました。かじりつこうとしだ瞬間、草むらの中の黒い首と足が見えたのです」。
 「陸軍志願兵」としてニューギニアに送られた張炳黙さん(七三歳)が食べようとしたのは、日本兵によって殺された先住民族の子供だった。熱帯原生林の中で、日本兵たちは飢えと病によって次々と死んでいった。張さんのいた中隊三五〇人の中で、生き残ったのは張さんと一人の日本人だけだった。
P26丁貴南(チョン・ギナム)
面事務所に勤めて日本式の米作りを村人たちに指導していたのですが、上司である面長から「俘虜監視員」に行くように話がありました。釜山で受けた訓練の際、そこで食べたのは、自分の生まれた年に収穫した虫だらけの米でした。タイの「俘虜収容所」での私の仕事は、連絡や歩哨・将校当番などです。「俘虜監視員」にはいつまでも昇給がないので、待遇改善を求めてストライキを行ないました。そのため仲間たちは、7年から無期の刑を受けたのです。3000人の捕虜がいる「ワンラン分遣所」でコレラが発生しました。そのため、下痢をしている捕虜500人を、ガソリンをかけて生きたまま焼いてしまいました。そのため、戦後の戦犯裁判で分遣所長は死刑になっています。1944年の末頃、「日本が負けたら、反撃を恐れた日本兵に朝鮮人は殺される」という噂が流れました。私たちは日本兵の動きをさぐりながら、毎日を戦々恐々として8・15を迎えたのです。(面:韓国の行政区分のひとつ)
 元「日本兵」たちの戦後
 だが、植民地支配の残滓を徹底的に払拭しようとしていた社会において、自らの意思に反して志願させられたにせよ、日本軍の軍人・軍属だったことは隠すべき過去だった。私が探し出して取材できた韓国・朝鮮人元「日本兵」六三人のうちの約三分の二が、補償要求の裁判原告か運動団体の会員だったように、今でも彼らにとって積極的に語るような体験ではない。
P27張鎮秀(チャン・チンス)「赤紙」が来て、1941年9月10日に「海軍作業団」としてトラック諸島の夏島に送られました。他の秋島・冬島・七曜島を合わせると朝鮮人は約3万人もいたのです。ここで飛行場や道路の建設・防空壕掘り)・採石場の仕事をしました。特に採石場は暑くて「死の作業場」と呼ばれるほど辛かったのです。米軍空爆後の油タンク消火作業は危険で、1943年6月には、この作業をしていた60人のうちの27人が死にました。日本兵は、栄養失調状態の7人の朝鮮人青年を十字架に縛りつけ、軍刀の試し斬りをしたことがあります。「うまく斬れた」と自慢し合っていました。海軍野戦病裏での蛮行でした。私たちは、その死体処理をさせられ、6人は水葬にして1人は解剖用にと病院の冷蔵庫に入れました。その1週間後、さらに3人が引っ張り出され、銃剣術訓練の的になったのです。「日本は神の国だ」と聞かされていたのに、こんなことは鬼でも許さないと私たちは嘆きました。
 日本にとっての補償
P28また、政府は日本軍によって性奴隷にされた女性たち(「従軍慰安婦」)を対象とした「女性のためのアジア平和友好基金」の募金活動を開始しようとしている。国民から集めた金を、政府が補償の代わりとして被害者に渡すというのだ。政府だけでなく、日本の国民・企業・社会団体なども、被害者たちに謝罪し、償いをする必要はある。しかし、それを政府と同じ土俵の上で行なうことは、国家の責任をあいまいにするものでしかない。
 外務省、厚生省などの官僚たちは、被害者個人には絶対に補償をしないという政策を守ることに固執している。また、歴史的事実をねじ曲げてでも植民地支配と侵略戦争を正当化しようとする閣僚たちがいる。アジア各国から起きている「国会決議」や「基金」 への批判は、このような日本に対する不信と警戒心なのだ。
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いとう たかし一九五二年長野県生まれ。フォトジャーナリスト。著書に『原爆棄民』(ほるぷ出版)、『破られた沈黙』(風媒杜)など『棄てられた皇軍ー朝鮮・台湾の軍人・軍属たち』(影書房)と『日本人花嫁の戦後ー韓国・慶州ナザレ国からの証言』(LYU工房)
(引用終わり)著作権は週刊金曜日にあります。全文はこちら、ダウンロード<開く。

朝鮮側から見た「日本の歴史」歪んだ歴史認識をえぐる 尹健次、週刊金曜日1995.7.7号

尹健次週刊金曜日1995.7.7 第81号 P8-P11より引用。
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 アジア侵略の背景にある蔑視感
P9近代国家の建設は共和制・民主主義によってではなく、徳川幕府にかわる封建的権威の天皇を利用することによって、いわゆる天皇制国家の創出という方向で成し遂げられていった。
(略)その際、天皇の権威とは、『古事記』や『日本書紀』にある古代天皇に関する記述がすべて歴史的事実であるとする神話伝説の正当化に基づくものであった。のみならず、幕末以降の「日本」国家が、自らのカの不足を朝鮮・台湾・「満州」などへの侵出でカバーしようとする路線を採択したことから、その国民形成は必然的にアジア蔑視観を国家の「イデオロギー」として注ぎ込むものとなっていった。(略)この場合、日本で朝鮮蔑視の考え方が現われだしたのは、歴史的には古代天皇制の確立期においてであり、神功皇后の〞新羅征伐〞や〞三韓征伐〞も、『古事記』『日本書紀』にはじまる伝説である。一六世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略に際しても、神助皇后伝説などが侵略を正当化するものとして使われた。
 日本人のアイデンティティをつくった三本柱
 (略)これを国家のイデオロギー装置である国民教育の問題として捉えるなら、西欧崇拝思想、天皇制イデオロギー、アジア蔑視観の三本柱で、「日本人」のアイデンティティを作り上げていったことになる。(略)実際、維新初期の一八七三年秋、明治政府の内部でおきた「征韓論争」も、その対立の中身は「征韓」の是非ではなく、その時期と方法に関わるものであった。つまり一般的には、維新政府の首脳であった西郷隆盛が「征韓論」を強硬に主張し、大久保利通が反対したとイメージされているが、現実には、「征韓論」は、没落した士族層の扱いや藩閥政府批判その他の国内政治問題に対朝鮮政策が加わった政府指導者間の争いであった。結果的には、西郷が敗北して下野するが、政権内部を固めた大久保は逆に一八七四年の台湾出兵の後、翌七五年に江華島事件を引き起こし、朝鮮への軍事力を行使した。この江華島事件は、日本海軍の雲揚号が測量の口実で江華島に接近し、砲台を攻撃して陸戦隊まで上陸させたもので、まさしく日本政府の計画的挑発であり、その後の朝鮮侵略の始まりであった。翌七六年の江華条約(日朝修好条規)調印、八二年の壬午軍乱、八四年の甲申政変など、朝鮮をめぐる重大事件も、そのほとんどは日本の侵略的野望と絡まったものであり、(略)
P10 朝鮮侵略としての日清戦争
 一般には日清戦争は、アジアでの覇権をめぐる日本と清国の争いであったと理解されており、せいぜいその戦場が朝鮮であったという程度の認識であろう。しかし事実は、日清戦争なるものは、日本の朝鮮侵略、つまり日本軍による甲午農民戦争(農民蜂起)への一方的介入と朝鮮王宮占領=「日朝戦争」につづく戦争であり、「日清」戦争のみを強調することは、かえって日本の朝鮮侵略の事実を曖昧にし、隠蔽することにつながりかねない。
 いまそれと関連して、近代日本の思想形成に大きな役割を果たした福沢諭吉について述べるなら、彼は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉でよく知られているように、封建的門閥制度のきびしい身分差別を批判し、すべての人間の平等と自由独立を高らかに謳いあげた人物である。今日では一万円札にも刷りこまれている「偉大な思想家」であるが、しかし日本の侵略を受けた朝鮮側からすると、その福沢は、日本の対外侵出を推し進めた侵略主義者として映る。
 当初、福沢にとって朝鮮は、日本の指導のもとに近代化を推し進めるべき国であったが、やがて朝鮮をめぐる列強問の勢力争いで日本が大きく後退させられるや、一転して朝鮮への武力行使もやむなしと主張するようになった。福沢においては、日本の経済的危機や自由民権運動などによる政治的混乱を脱するには国権の拡張が不可欠であると考えられたのであり、福沢の使命はそのための思想を切り開くことであったが、それは朝鮮蔑視観の造出につながるものであった。一八八五年の「脱亜論」はその集約であるが、そこでは朝鮮・中国などアジア(亜細亜)との「連帯」がはっきりと否定され、欧米列強に伍していくことが日本の進路であると主張されている。
 民衆の抵抗運動を弾圧
(略)こうして一九〇四年二月、日本艦隊が仁川沖のロシア艦隊を奇襲して、日露戦争がはじまる。朝鮮政府の局外中立宣言を完全に無視して、首都の漢城を軍事的に制圧し、さらに朝鮮政府に一方的に「日韓議定書」、ついで「第一次日韓協約」を強要し、朝鮮政府内に日本人顧問を配置した「顧問政治」を開始した。(略)
 この民衆の抵抗運動に動かされて、朝鮮の高宗皇帝は最後のカをふりしぼって、一九〇七年六月にオランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使をおくり、日本の暴虐を世界に訴える挙に出た。
 しかしこれは結果的には、日本の狡猾な妨害によって不成功に終わっただけでなく、日本は逆に、これを機に朝鮮の内政の全権を掌握しょうとし、七月に初代統監伊藤博文とそれに操縦された親日派の李完用内閣が、南京に譲位を迫って、新皇帝に皇太子の純宗を即位させるとともに、統監伊藤は李完用内閣と「丁未七条約(第三次日韓協約)」を調印した。
これを契機に朝鮮の軍隊は解散させられてしまうが、それは当然、朝鮮軍人その他の朝鮮民衆の憤激を呼び起こし、全国的な武装闘争の展開となった。しかし日本は、そうした義兵鎮圧のために軍隊・憲兵・警察をさらに強化し、近代武器で殺我を繰り返し、村落を焼き払う焦土作戦を展開した。
 「日韓併合」の意味するもの
 こうした民族運動弾圧の経緯をへて、日本が朝鮮の完全植民地化の方針を決定したのは一九〇九年七月の閣議においてである。朝鮮の侵略の先頭に立ってきた伊諜博文がハルビン駅頭で安重根に射殺されたのは同じ年の一〇月のことであり、また日本が厳戒体制のなかで「韓国併合条約」を強要したのは翌一九一〇年八月のことであった。(略)
「韓国併合」後の「日帝三六年」がそうであるように、歴史というものは、被害者の立場に立ってこそ、はじめて真実を知りうるものである。(略)しかし朝鮮側からすると、伊藤はあくまで「侵略の元凶」であり、「初代韓国統監」である。しかも朝鮮人にとっては、当時「凶徒」と呼び捨てにされた安重根こそは、かつて豊臣秀吉の水軍を破った李舜臣将軍と並ぶ「民族の英雄」である。
 侵略を教えない学校教育
 こうした歴史認識の事実を知るとき、ききの国会決議の際にも発せられた、日本は「アジア解放戦争」を戦ったのだという政治家などの言説がまったくの詭弁であり、それが近代日本の歴史の一面、それも自己に都合の悪い部分を故意に切り落とした理屈にしか過ぎないことがわかる。そこには欧米列強の脅威のみを過大に取り上げ、アジア侵略の事実を否定する自己欺瞞と被害者的意識がみられるが、それが天皇制ないしは天皇制につらなる一元的かつ自民族中心主義的な価値観に囚われ、また歴史的に形成されてきた朝鮮を核とするアジア蔑視感と微妙に絡まったものであることは容易に推察しうる。また一九四五年八月の敗戦後、日本の学校教育が朝鮮などアジア諸国への侵略の事実を正当に教えなかったことが、今日の日本人の歪んだ歴史認識の根本要因となっていることも議論の余地がない。当然、そこには、過去の侵略戦争と植民地支配の事実を日本人のアイデンティティ形成から抜き去ることによって、天皇その他戦前来の指導者や支配層の戦争責任を暖味にしようとする権力主義的な目論見があり、それは今日にも引き継がれていると考えてよい。つまりさきの国会決議に見られるように、戦後の日本ではいまだ「謝罪」や「反省」が真の意味でなされたことは一度もなく、歴史認識の問題がつねに政治の駆け引き材料とされるなか、日本人全体の歴史認識は一貫して歪んだものとなってきたのである。
ーー
ゆん こぉんちゃ・神奈川大学教授。専攻分野は、日本近現代思想史、教育思想。一九四四年
京都府生まれ。
ーー
引用終わり、著作権は週刊金曜日にあります。全文はこちら、ダウンロード<開く
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日本と朝鮮半島への侵略行為と朝鮮蔑視感の源が簡潔に記され、理解しやすかった。元寇や朝鮮通信史など昔からの朝鮮半島関連の年表を作成しようと思う。それにしても戦前日本が朝鮮半島や台湾を植民地支配していた事実を認識していない日本人が多いのではないだろうか。上記の通り学校教育が原因である。最近跋扈している右派の教科書の取り上げ方はいかに。

しゃべってから死ぬ 封印された陣中日記 南京事件 兵士たちの遺言 NNNドキュメント2015


南京事件 兵士たちの遺言 投稿者 tvpickup早速アップロードされている方がいる。
削除されないうちに視聴を!
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NNNドキュメント2015
しゃべってから死ぬ 封印された陣中日記
http://www.ntv.co.jp/document/シリーズ戦後70年 南京事件
兵士たちの遺言  55分枠
10月4日(日)25:10~
制作 :日本テレビ
再放送 :10月11日(日)11:00~BS日テレ
古めかしい革張りの手帳に綴られた文字。それは78年前の中国・南京戦に参加した元日本兵の陣中日記だ。ごく普通の農民だった男性が、身重の妻を祖国に残し戦場へ向かう様子、そして戦場で目の当たりにした事が書かれていた。ある部隊に所属した元日本兵の陣中日記に焦点をあて、生前に撮影されたインタビューとともに、様々な観点から取材した。
ーー
小野賢二さんが出ておられる。2008年の同番組でも放映されたが、通報によりネット上の動画は削除された。
http://honkatu.blog24.fc2.com/blog-entry-534.html兵士たちが記録した南京大虐殺

村瀬守保写真展ー日本兵が撮った日中戦争 神戸 2015.9.20~22

img038.jpg201509201357000.jpg201509201353000.jpg2015.9.20(日)~22(火) AM10時~18時まで。阪急岡本駅 コープ横西へ少し暗い玄関入りEVでマンション3階。明日まで。無料。
写真展へ行ってきた。予想以上に多くの写真を見れた。南京大虐殺、慰安所の写真ほか展示。
日本兵のDVDも放映され、村瀬さんの写真集も販売され購入。
戦争法案が成立し、きな臭い世の中、戦争の実情に目を凝らしてみては。
 5月から東京他で巡回されてきたようですが、季節の良い秋に向けて他の地方でも延長開催し,日中友好協会のHP等で展示会日程を共有してほしいものです。

日本兵による人肉食事件 フィリピン・キタングラッド山 週刊金曜日1995.3.17

週刊金曜日1995.3.17 66号P21~25より引用。 永尾 俊彦
日本軍の残虐行為は敗戦後にも起こった。
敗残兵となった日本兵は、食糧の補給を断たれ「自活自戦」を強いられた。
敗戦を信ぜずに「聖戦」を続けるうち、
キタングラッド山ろくの人々を殺害し食べていったー。
敗望五〇年を間近にようやく三年前、フィリピンで裁判記録が公開され、
昨年末、被害者同盟が発足した。
日本でも兵士の証言は公になっているが、被害者の遺族に取材した筆者の報告。

敗戦後、フィリピン・ミンダナオ島北部のキタングラッド山(二九三八メートル)中で起きた旧日本軍による現地のヒガオノン族虐殺・人肉食事件は、三年前、フィリピン国立公文書館所蔵の戦争犯罪裁判の記録が公開されたことを契機に表面化した。私は昨年この記録を手にすることができた。
 それによると、キタンクラッド山にたてこもっていた陸軍第三〇師団第一五揚陸隊を中心とする日本兵三四人は一九四七年二月一四日に投降。そのうち一九人が四九年、マニラの軍事法廷に「四十数人を殺害、一五人を食した」かどで起訴(一人は起訴前に病死)、BC級戦犯として裁かれた。一〇人に絞首刑、四人に終身刑、四人に無罪判決が言い渡されたが、その後特赦で減刑、五三年に全員帰国している。(略)
 自活自戦の場だったキタングラッド山
四四年一〇月、フィリピン戦線で日本の連合艦隊はレイテ沖海戦に敗れ、制海権・制空権を失った。同年一二月下旬、大本営はレイテ島の放棄を決定。それ以降「本土決戦に備えた時間稼ぎのため、フィリピンの日本軍は捨て石とされた」(。踏みにじられた南の島』NHK取材班編・角川書店)。
 四五年に入ると米軍はミンダナオ島の南と北から上陸を始め、日本軍は挟み撃ちにされた。現在中部地方に住む元第一五揚陸隊軍医(七五歳)が自費出版した手記によると、同年五月一〇日、カガヤン・デ・オロに駐留していた同隊の総勢三八〇人は撤退を間始、キタングラッド山中に逃げ込んだ。食糧の補給を断たれ、「自活白戦」を強いられた。飢餓とゲリラの襲撃で多くの兵士が死んでいった。また絶望的な状況に発狂したり、自決する者もいた。脱走しようとした兵士は敵前逃亡の罪で銃殺された。偵察機が頭上を飛び、日本の敗戦を告げるビラをまいて行ったことがあった。しかし隊長は命令した。「『これは敵の策略である。決して投降などしてはならぬ。皇軍は決して敗れない。あくまで聖戦を続けよ。やがて大部隊がやってきて我々を迎えに来る。』我々は半ば信じて、その時を待った」。そういう中で、この事件は起こった。私はサレさんの家に厄介になり、奥地の村々を訪ね歩いた。以下取材したものの中から三つのケースとサレさんの証言を紹介する。
 証言1ニカノール・サレさん(44歳)
 一九四五年の九月から一二月の間のある日の早朝、コンチャさんら親子七人はカモテ(薩摩芋)やバナナなどの食糧をさがしに行くために家を出、午前六時頃スミラオ郡スミラオ村から南東へ一〇キロほどの地点にさしかかった。突然七人の日本兵が現われ、親子七人は捕えられ、近くの廃屋に連行された。
 日本兵はフィリピン軍を欝戒するためなのか、廃屋の竹の壁を壊し始めた。父親のユーレテリオ(当時四〇歳)だけは廃屋の柱に縛られたが、残りの六人は一か所に集められた。
 一人の日本兵が、庭のコゴン革を一本引き抜き、七つの違う長さにちぎった。それを全員が一本ずっ引いた。一番長いのを引いた兵士は軍手をはめた。最も短いのを引いた兵士は監視役になった。コンチャさんの兄のレオポルド(当時一八歳)が、地元の言葉でアンボンと呼ばれる竹籠のようなしょいこをしょわされ、六人の日本兵と一緒に山の方へ連れられて行った。日本兵は英語で「カモテを取りに行く」と言った。五〇メートルくらい行った時、レオポルトが「タイ(お父さん)!」と絶叫した。
 それから一時間ほとして六人の兵士は帰ってきた。レオポルトは帰ってこなかった。一人の兵士がレオポルトがしょわされていたアンボンをしょっていた。アンボンは肉で一杯だった。見覚えのあるレオポルドの胸、すね、ももなどが見えた。
 それから日本兵達は壊した廃屋の竹の壁を使って焚火を起こした。肉を日本兵全員に均等に分配し、各自がそれぞれの肉を焚火にくべて焼いた。ガビ(里芋)も一緒に焼いた。三〇分くらいで焼き終えると、バナナの葉を皿代わりに食べ始めた。彼らは箸を持っていた。鉄製のコップも持っていて、水を飲み、談笑しながら食べていた。父は、日本兵に今まで人肉を食ったことがあるのかと聞いた。日本兵は「イエス」と答えた。一時間くらいで食べ終わると一人を見張りにし、日本兵達は昼寝を始めた。数時間後、昼寝から日覚めると日本兵達は父を連れてどこかへ去った。コンチャさんらはインパソゴン村の親戚の家へ逃げた。
 七日後、父親は脱出に成功、インパソゴン村で家族と再会できた。日本兵のキャンプに運行され、柱に縛りつけられていたが縄をこすり切り、隙を見て脱出した。父親によると、日本兵達は食べ残した人肉を干して乾燥肉にしていたということだった。(略)
 発足した「ブキドノン悲嘆者同盟」
 最近サレさんや地元の弁護士が行なった聞き取り調査では、八九人が人肉食の犠牲者とされている。私はそのほとんどの証人に会って話をきいたが、八九人という数字はかなり信憑性の高いものだと感じた。
 裁判記録によると、起訴された一八人のうちほぼ全員が人肉食の事実を認めている。沖縄県に住む元兵士(七四歳)の供述では、一週間に一回は人肉を食べだとされている。中には現地のヒガオノン族だけではなく、病死したり、脱走罪で銃殺された日本兵の死体を食べた供述も見られる。人肉に手をつけた理由として、先に紹介した手記を著わした元軍医は、供述書の中で食糧不足による栄餐失調と並んで塩の不足を挙げている。元兵士達の供述には塩を求めて民家を襲った事が何度も出てくる。人体に
は約〇・七パーセントの塩分が含まれていると言う。(略)
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ながお としひこ 一九五七年東京都生まれ ルポライター 著書に「市民と自民の真中で(第三書館)」
(引用終わり、全文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります)

間違いだらけの「中国脅威論」 田岡俊次 週刊金曜日2008.1.11号

週刊金曜日685号 P18か~19より引用。
無知からか、あるいは意図的にか、ここ数年タカ派ならぬ「パカ派」が論じている「中国の脅威」は、国際常識と軍事的視点から見てこっけいだ。しかし自衛隊も悪乗りして、予算獲得の名目にしている。
田岡俊次
終戦しばらくブラジルの日系人に、「勝ち組」と呼ばれる人々がいた。第二次世界大戦が終わってもまだ「日本が米国に負けるはずがない、戦争は続いている」と信じ、敗北の事実を認めるべきだとする「負け姐」との問に対立抗争事件まで起きた。現在冷戦がとっくに終わったにもかかわらず、いまだに「中国脅威論」や新冷戦説を唱えている論者たちは、現実を見ることを拒否し、冷戦型思考から脱却できないという点で、「勝ち組」に似ている。
 彼らのおかしさは、いまだに「中国は共産主義だ」と思い込んでいる点にある。中国は憲法を改正して私有財産保護をうたい、上海と深センには証券取引所がある。実態は「共産主義」どころか、露骨な資本主義だ。その結果腐敗が蔓延したため、是正するためにかつて批判された儒教が奨励されている。中国政府が日、米、西欧、アジアの大学と連携し、五四カ国に一五六校も開いている中国文化センターは、「孔子学院」と名付けている。江沢民前国家主席は、一九九九年に孔子廟に参拝している。こんな「共産主義」があるのか。
冷戦期には、米国を中心とした西側と、旧ソ連や東欧の東側が対立したが、有力資本主義国の一つとなった中国が米国と対立しているのか。中国には米国から進出した企業が二万二〇〇〇社あり、中国の対米貿易黒字の大半はそれが貢献している。また中国は日本に次ぐ米国債の保有国で、五〇兆円以上ある。保有している一兆三〇〇〇億ドル以上もの外貨は、ゴールドマン・サックスやメリルリンチといったウォールストリートの巨大金融横関に運用を任し、米国側にとっては最大の顧客だ。
 米国の軍事企業の中核を占める航空横産業を見ると、中国はボーイングの旅客機を年一五〇機も買っている。ウォールマートをはじめとする巨大流通産業は、安価な中国製品に支えられている。米国経済の主流である金融も軍需産業も流通も、中国と極めて密接な関係にあるのた。さらに中国からエリート大学生を中心に年二〇万人も米国に留学し、工科の博士号を取るのか二〇〇〇人以上いる。しかもその多くが帰国せず米国の企業に就職しているから、錯局ヒト・モノ・カネで中国は米国を支えていると言っていい。
 一方、中国にしてみれば、輸出依存度が三七%と日本に比べて二・五倍以上高く、輸出総額の二一・四%を占める米国の巨大な市場に頼らざるをえない。いまや米中は共存共栄関係にあり、軍の関係にも反映している。両国の海軍は、初歩的レベルだが共同軍事演習もやっている。米太平洋軍司令官のティモシー・キーティング海軍大将は、二〇〇七年五月に訪中した際、「中国が空母を保有しようとするのは当然。できるだけお手伝いをしたい」とまで発言している。
 六者協議でも、米国は議長国の役割を中国に委ねた。アジアの盟主として中国を認めたに等しく、対立関係にあるなら米国は決してそのようなことはしない。ところが日本はいまだ冷戦思考のままで「日米韓が連携し北朝鮮に圧力をかける」といった構図にとらわれ、孤立化して失敗したのは記憶に新しい。
 米中は台湾の現状維持でー致 
米国は当然ながら、台湾問題で中国と事を荒立てたくはない。そのため、台湾の陳水ヘン総統のように民族主義的発言をしたり、「独立」を口にして中国との関係を悪化させるのは迷惑この上ない。中国をとるか、台湾をとるかという選択を迫られるのは避けたい。
 台湾では、中台関係について「現状維持」を望む世論が八割以上で圧倒的だ。「独立」派や国民党の一部のような「統一派は、少数派に過ぎない。中国も一見勇ましいことを言うが、〇五年三月に制定された「反国家分裂法」をよく読むと、「これ以上何かやると許さん」と言っているだけで、本質は現状維持法だ。米国は台湾について中国と利害が一致しているから、陳水ヘンに対してば厳しいスタンスで
臨み、「独立」めいた動きに対して北京より激しい非難声明を出す。今や中国にすり寄る「媚中・叩頭外交」を最も展開しているのは、米国ではないかと思うほどだ。
 ところが日本には、「中国は台湾侵攻を狙っている」「米国と共に台湾を守ろう」などと主張している論者が大勢いる。そもそも、経済発展を第一の目標とする中国が、いったい何の益あって台湾を制圧するのか。台湾の最大の投資相手国はもちろん中国で、七一%を占める。二〇〇万人もの台湾人が大陸で企業経営や技術指導を担っている。侵攻など企てればそうした貴重な経済関係や生産設備を互いにダメにし、さらには華僑や外国資本の逃避も始まる。これまでの経済成長が一挙に無となろう。
 しかも、軍事的に侵攻はまず無理だ。台湾は現役だけで三〇万人の兵力を有し、予備役を動員すれば軽く六〇万人を超える。すると攻める側の中国側は最低で六〇万人以上を台湾海峡を越えて送り込まなければならない。「史上最大の作戦」と呼ばれるノルマンジー上陸作戦でも、上陸したのは一七万人だ。中国の揚陸能力は、二万〜三万人。六〇万人の兵力を送る上陸作戦は、途方もない話だ。当面は、近代的軍事能力の差から制空権も制海権も握れまい。仮に海上封鎖のような行動に出たら、現在は海運が多国籍化しているので世界中を敵に回す結果になる。
 よく指摘されるのが「中国の軍事費の急増」だが、どの国でも経済のパイが膨れれば財政規模も、軍事費も伸びる。中国の軍事費の伸びは、高度成長期の日本の伸びより若干低い程度だ。「急増」なら、九〇年代の台湾の方がもっとすごかった。約一〇年間で新型の戦闘機を三四〇機買ったため、訓練、整備に支障をきたしたほどだった。
 予算目当てで浮上した「島蝶防衛」 よく「中国海軍の脅威」も語られているが、〇七年一一月に東京湾に「友好訪問」した中国駆逐艦・深センに乗船してみて驚いた。日米は太平洋戦争中に火災で多くの艦を失った経験から、艦内から極力可燃物を排除する。ところが深センは、可燃物だらけなのだ。部屋のドアは木製で、廊下や下士官室にはアクリルのカーペットが敷いてある。テーブルなど家具も木製で、すべて金属製の日、米の艦とは大違いだ。中国は、一八九四年の日清戦争の黄海海戦以降、本格的海戦の経験がない。こうした笑いたくなるような海軍が、「日本を軍事挑発」するだの、「米海軍に挑戟」しているなどといった昨今の論議は、海軍に関する無知から来る。だが近年、陸上自衛隊が「島摸防衛」と称し、明らかに中国海軍を念頭に「西南諸島が占拠される」といった事態を想定している。中国が台湾に侵攻するにも力不足なのに、わざわざ日本の離島を攻撃し、日、米を敵に回すことがあろうか。
 自衛隊のレンジャー(特殊部隊)でもハワイあたりの小島を米国の油断を突いて一時的に取ることは可能かも知れないが、制制海権も制空権も欠いていれば、その後どう維持するのか。だが、笑い話ではすまない。「島嶼防衛」用にC130輸送横を改造し空中給油装置を取り付け、ヘリコプターにも受油装置を付ける予算がつけられた。
 陸上自衛隊は作戦計画を毎年作るが、冷戦が終わって「脅威」がなくなり、困っていた。作戦計画を基に装備を開発したり、部隊を摘成する。作戦計画を作るには、敵を決めなくてはならない。敵を必死で何とか探さなくてはならない。それで旧ソ連の後任に中国が登場した形だが、軍事的にはまったくナンセンス、政治的、経済的には国益上有害だ。中国の唯一の脅威は核ミサイルだが、六五年からある。それを知りつつ日本は国交を樹立し、核不拡散条約にも加入した。今になって騒いでも、どうにもならない。
 今後さらに世界は相互依存関係が深まり、米中はますます接近する。米軍のアジア離れも始まり、沖縄から第三海兵師団、韓国からは第八軍を撤退させる計画だ。二〇一二年までに米軍が韓国軍に有事の指揮権を返還するのも、「もう米軍は朝鮮半島では戦わない」ということを意味する。そんな時代に、わざわざ中国を「脅威」に仕立てるのは愚の骨頂だ。
(談)
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たおか しゅんじ・軍事アナリスト。 (以上引用終わり)
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安保論議が喧しい昨今、元AERAスタッフライターの田岡元帥のご高説もウォッチします。パッキンジャーナルも終わり、最近TVで見ないですね。

皇軍毒ガス作戦の村 最終回 週刊金曜日第80号

週刊金曜日1995.6.30号P64~67より引用。 石切山 英彰
北坦村虐殺事件・加害者の証言
虐殺の村・北坦での聞き取り取材を終えた筆者は日本での調査にとりかかり、作戦を指揮した大隊長が毒ガス使用を明記した文書を発見、さらに戦闘に加わった元兵士から毒ガス戦の生々しい様子を聞き取った。そして元大隊長を捜し当て、その自宅を訪ねたー
 一 毒ガス戦の決定的文書
(略)「大江部隊の掃蕩治安戦にて特筆大書すべき戦闘は定県、安国を警備中大隊の全力を以て毒瓦斯(筆者注‥毒ガス)を利用し共産軍第一大隊を包囲殲滅せる北坦、南坦(召村南側河の南側)付近の○○戦なり。(略)
 二 作戦に参加した元兵士の回顧
大日本帝国軍において少なくとも命令系統のトップにいた昭和天皇ヒロヒト氏さえ、かつてのアジアの貧しい民衆をイジメ尽くし、殺しまくった責任の一切を問われず、またそれによる罪悪感にさいなまれて発狂することも一切なく、日本人の主流に「心優しいお方」と「慕われ」て一九八九年にいい気なジイサンのまま死亡できたことを考えれば、彼の厳格な指揮下にあった大日本帝国軍の命令系統の下で個々の侵略作戦のお先棒を担がされた末端の軍人の「侵略責任」を問うのは、少なくともヒロヒト氏に対する日本民族としての「処罰」をきちんと済ませた後であるべきだ、と私は考える。(略)
 翌日、私はこの大隊長宅を訪問したが、その様子を報告する前に、同じく神戸在住の第一大隊関係者で北坦村毒ガス戦に参加した元日本軍兵士(七五歳)が私との三〇分あまりの電話のなかで話した証言を紹介したい。彼は、「北坦では、〞あか筒〞を便うたから殲滅できた。このことは、みんなが知ってますよ」と私にはっきりと言った。現場を経験した兵士の言葉として、北坦村における日本軍の毒ガス「あか」の使用が明確に証言された。歳のわりに若々しいよく通る声で、彼は以下のように私に語った ー「北坦では一千人ほど殺したでしょうね」「あか筒というやつは、普段からよく持って歩きましたですけどねえ。普通の兵隊にも、みんなにあか筒が配られた」。懐中電灯のような形でしたか? 「そうそう!」「赤いのと青いのと、持たされた」(「あか筒」と「みどり筒」のことであれば、中国側資料にある上坂勝連隊長の供述と一致する)。「あか筒のガスはトウガラシのきついニオイがした。嗅ぐと涙が出て、クシャミがひどかっだ」(毒ガス「あか」に関する粟屋教授の説明と一致する)。「北坦村の抗日勢力を殲滅後、部落に入って一軒一軒、残党狩りした。農家の庭でモミ殻をのけると、地下トンネルの入り口となっていた。私は北坦村で初めて坑道を知った。おっそろしいですよ。あんな恐ろしい穴に入る訳にいかないから、あか筒使った」「ある家のなかでは、一七〜一八歳の娘さんとその母親が奥でワナワナ震えていた。残酷やなあ、と思った」。(略)
 三 作戦を指揮した元大隊長の回顧
(略)大隊長は、ステテコに薄い白の肌じゅばんの姿で出て来た。茶色のセルロイドメガネをかけている。私は、玄関を入って右側の部屋に通された。テレビの置いてある六畳ほどの部屋で、居間のようだった。大隊長は、カメのぬいぐるみが二つ置いてあるキャメル色の長いソファーに、ぬいぐるみを右側に腰を下ろし、私はその正面に座った。アゴが重くガッシリしているのが非常に、印象的だった。いかにも「ブン殴られて、ブン殴られて鍛え上げられた」帝国日本軍人のツラ構えだと思った。太いマユ毛に白い毛が混じっている。鼻筋がまっすぐで、頬がややたれている。耳が大きい。黒髪の少し混じる頭は、上の方が少し薄い。全体的にややでっぷりとした体格で、腹が少し出ている。ドッシリと重い視線で、真っすぐ私を見てぐる。ややしわがれているが、力のある声が腹から響く。語尾にときどき関西弁の「ーや」「ーや」がついた。-北坦村で毒ガスを使ったと、中国現地の取材で聞いたんですが。「シナ人はみんな、そう言う」「あれは発煙筒。火事の煙と同じ」「とにかく発煙筒。空気が希薄になるので、死ぬのは当たり前」「共産党か、キミは?」(私は共産党員ではない)。最初は、こうしたダンコとした否定の姿勢だった。
 しかし、時間をかけて質問を繰り返すうちに、こういう言葉がチラホラと出始めた-「私は、陸軍習志野学校(筆者注:毒ガス運用に関する将校、下士官の教育機関)で教官を務めたが、習志野学校では、あか筒なんぞは毒ガスと認めておらんかった」「イペリットガスやセイサンを本当のガスと言う」毒ガス「あか」を使ったことを前提に「あか」の殺傷力の弱きを弁護するような言葉が続く。「対戦車の時は、セイサン使う。ものの二秒で、人間は死ぬ。ボクは使ってないが」「あか筒ば、クシャミガス。致死カはなく、一時的な効果しかない。従って、兵器としての価値なし。我々は毒ガスと言わずに、《ケムリ》と呼んでいた。吸い込んだ場合に、銃の照準合わすのが不便になる程度だ」「発煙筒と同じ。密閉したから、窒息して死んだだけ」「かわいそうだったのは、今でも目にちらつくが1日(涙ぐみながら語る)ー兵隊も死んだが-お母さんが一歳くらいの子供を抱いて穴(筆者注:地道のこと)から出て来た。窒息して倒れた母親の乳をその子供がなお吸っていた」「これは向こうの兵隊が巻き込んだ。むごい。兵隊だけで戦えば、こうはならんのに」。生活するその場を日本軍に包囲急襲された北坦村の農民たち。彼らが戦闘に巻き込まれない訳がない。「あか筒使ったかば、記憶ない。命令しとらんから」。声がよどんだような気がした。最初の頃の非常に強い否定の姿勢からかなり変わって来た。「その後のその子供のことは、覚えとらん」。私から初めて目をそらした。語気が弱くなったと感じた。(略)
 さらに波状的に質問を重ねるとー「使ったかどうかは別として、兵隊はあか筒持っとったでしょうねえ」と、あか筒の所持を婉曲に認めた。言いながら、タンがひどくノドにからまった。タンを吐きに部屋を出た。歩行がややおぼつかない。
ー毒ガスを実験的に使い、その後報告書を出すよう師団命令を受けた、と上坂さんの供述記録にあるのだが。「師団から命令あったとすれば、当然、歩兵はあが筒持っとるでしょう。ボクは、上坂さんから実験的に使えとの命令は受けてないが」。しかし、その直後、「あか筒使ったかもしれない」。あか筒の使用をほのめかした。彼はこのあやふやな言い方を何度も何度も私に繰り返した。私が確認しようとさらに質問を重ねると、「(あか筒を)持って行けとも、行くなとも言えない。中国人が記録しているなら、使ったかもしれない」と明言した。
 上官命令に絶対服従だった当時の日本軍。国際法で使用が禁止された毒ガス兵器の携行に関して、大隊長が一般兵士に「持って行けとも行くなども言えない」などということは、常識的にあり得ない。決定的証拠となる先の回想文書の「毒ガス」記述を待つまでもなく、日本軍が北坦村で毒ガスを使用したことは大隊長からのこの聞き取りによっても確認できたと考えていいのではないか、と私は思った。(略)
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いしきりやま ひであき 一九六〇年生まれ。一九八五年から中国・北京大学に留学。現在、会社員。
(引用終わり、全文はこちら。ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります。

従軍慰安婦 まず謝罪、そして補償を考えて 宋神道 週刊金曜日第80号

週刊金曜日1995.6.30号P60~61より引用。
まず謝罪、そして補償を考えて 宋神道
在日で唯一名乗りをあげている元「従軍慰安婦」の宋神道さん。政府の戦後補償政策について、
「悪いことをやって、なんで謝罪できないのか」と、怒りをあらわにする。
 金の問題じゃない
宋さんは現在、日本で暮らす「在日」の朝鮮人元「従軍慰安婦」としてはただ一人、日本政府に謝罪と補償を求める裁判を起こしている人だ。「慰安婦」問題を考える上での象徴的な存在でもある。「とにかく政府に謝罪してもらわないと、オレ、うまくないんだよ。オレはとにかく、謝ってもらいたいんだ。(慰安婦の女性)一人一人に『申し訳なかった』って謝ってもらわなければ、死んでも死にきれない。
 なんで自分の国が戦争するのに、朝鮮の男や女を連れてきて、『戦争だ』といって日本のために働かせるの。それで今さら桶償はしない、謝罪もしないってことは、当たり前に戦争して当たり前に人を使ったっていう気詩ちしかないからだろ。ああでもない、こうでもないと理屈ばかり並べているの、政治家が入れ替わり立ち替わり……。盗人よりひどいよ」
「国のためだからって、お金も国防献金に持ってかれる。体を詐さなきやはたかれる。どうする、あんた? 忘れられるかね? 忘れられねえよ。経験した人間じゃないとわからないから。民間基金であれ何であれ、お金のことじゃない。オレ一人じゃなく、何百人という人間をデタラメに連れていって、『従軍慰安婦』だったおなごたちはみんな、疲れまくっているじゃないか。ばばあになってさ。使い物にならないじゃないか。こんなことしといて、自分たちが黙っているとはなんだと言っているのよ。『二度と戦争はしません』となんでで
きないの。
 昔は軍国主義で、朝鮮人が苦労したってわかってて、なんで謝罪できないの。謝罪しないってことは、またいくさで戦いたいんだよ、政治家野郎どもは。とにかく先決は謝罪問題。何年かかっても謝罪問題!」
 日本での戦後
「一六歳のときに慰安婦にさせられて、二三歳まで中国に残って、終戦になってから帰ってきたんだよ。七年間ずっと、毎日軍人の相手をさせられて、すごかったんだから。処女からやられて、殴られ、蹴られ、刀抜いて切られ、しまいには腕に『金子』って名前の入れ墨を入れられた。軍人たちが遊びさ来たとき、名前がわかるようにさ。紙に書いておいてもわからなくなっちゃうべ。だから腕に入れ墨入れて。これは私が慰安婦だった証拠になるんじゃないかなって気もするの。格好惑いから消すべと思っても、消えないんだよ」
 親に決められた結婚に反発して家を出た乗さんは、「御国のために戦地に行って働けばお金が儲かる」とだまされて「慰安婦」にさせられた。中国の武昌をはじめ、揚子江中流域沿岸各地の慰安所で働かされ、ときには日本軍とともに移動する。日本の敗戦で途方にくれていたとき、一人の日本人軍人から「一緒に暮らさないか」と誘われ日本に来たが、捨てられてしまう。そんなときある朝鮮人男性と知り合い、一緒に暮らし始める。
「そのときのオレは体中シラミだらけでみじめな体して。何のために戦地に行ったと開かれるんだけど、格好悪いもんだからしゃべれなかったの。毎日酒飲んでばっか。じいちゃん死んじゃったけど、花だけは供えるんだわ。この人がオレのこと助けてくれなかったら、とっくに死んでいる。オレはこの人のために生きている人間だから」「オレ、一〇〇も生きるよ、くたばんない。生まれたかいがあるよ。生きたかいがある。オレは心は汚れてねえ」(談)
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ソン シンド一九二二年、忠清南道生まれ。
一六歳から二三歳までの七年間、「従軍慰安婦」として連行される。現在、裁判係争中。
(以上引用終わり。著作権は週刊金曜日にあります)

花岡事件とは何だったのか 週刊金曜日第80号

週刊金曜日1995.6.30号P52~57より引用。
企業が抱える戦争責任 野添憲治 花岡事件とは何だったのか 
五〇年前、秋田県花岡鉱山の鹿島花岡出張所で、強制労働に耐えかねた中国人たちが蜂起した。
蜂起は失敗に終わり、その後間もなく日本は敗戦を迎えた。
強制運行、強制労働、そしてその後の鹿島の態度ー花岡事件には戦争中に日本が行なったことが凝縮されている。
花岡事件五〇年目にあたる今年六月、鹿島に謝罪・補償を求め、生存者や遺族が提訴した。
 50年目の花岡事件提訴 (略)
 労働力として連行された
 (略)政府は財界の主張を受け入れ、一九四二年に各省庁から人選して華北労働事情視察団を結成し、大陸を視察してくと、中国人を国内に連行してくる計画をまとめた。これに基づき東条内閣は、「華北労務者内地移入二関スル件」を閣議決定し、「昭和一九年度国家動員計画需要数」のなかに三万人の中国人労働者を計上し、本格的に国内への導入を実施した。
 日本に連行してくる中国人は、中国内で労工狩りという方法で集めた。これは兎狩り作戦ともいったが、真夜中に一つの集落を日本の兵士やカイライ軍が囲み、夜明けとともに包囲をせばめ、男たちは捕えて後ろ手に縛った。また、家畜、食料、資材などは奪い、軍隊に持ち帰った。女たちが犯され殺された集落は、証拠が残らないように焼き討ちにした。このため一夜にして多くの集落が消えたが、有名なのに「平頂山事件」がある。また、焼き討ちにされなくても、夫や子どもを連れ去られたうえに、食料や家畜を奪われ、家庭は破壊した。
 捕えられた中国人は、周囲を電流を通じた鉄条網で囲んだ収容所に入れられた。八路軍や国民党の捕虜とも、収容所で一緒にされた。食料が少ないうえに、病気になっても看護はなく、死亡する人が続出したという。この人たちを貨物船に乗せて日本に運ぶと、国内の一三五事業所に配置し、重労働の日々を課した。日本に強制連行された約四万人の中国人を使役した三五の企業のほとんどは、巨大企業としていまも生きつづけている。
 重労働と虐待の日々
その事業所の一つに、秋田県の花岡鉱山で工事を請負っていた鹿島組(現鹿島)花岡出張所があった。当時の花岡鉱山は藤田組(現同和鉱業)が経営していたが、一九四四年に七ツ館坑で落盤事故があり、日本人、朝鮮人それぞれ一一人が生き埋めとなった。(略)しかし、この他にグム工事も請け負っていた鹿島組では労働者を集めることができないので、政府が強制連行を決めた中国人を使うことになり、一九四四年八月に第一団の二九七人(途中で三人が死亡)を花岡出張所に連行してきた。(略)
P55花岡鉱山の冬は寒く、雪も深い。初冬に薄い作業服一組が中国人に支給されたが、それだけでは寒さを凌ぐことができなかった。背中に雪よけの莚をまとい、足にはワラを巻き、凍った水に腰までひたって働いた。冬には沢山の人が凍傷にかかり、死ぬ人も多くでた。
 長い冬が去ると、鹿島組花岡出張所に連行されてきたなかで九〇人ほどが死亡し、三〇人ほどが病室に入っていた。どうにか働ける一七〇人では工事ができないので、また中国人を連れてくる計画をたてた。そして一九四五年五月に五八七人、六月に九八人を連行してくると中山寮に入れ、さらに少なくなった食料をあてがい、重労働をさせた。
 中国人が残忍非道な虐待に祝して蜂起したのは、一九四五年六月三〇日(七月一日との説もある)の夜である。それまでに殺されたり、病死したのは、第一次が二九七人のうち一一三人、第二次が五八七人のうち二三人、第三次が九八人のうち四人だった。このほか、約五〇人近くが病室に入っており、「このままでいると全員が殺される」と中国人は考えた。
 こうしたなかで蜂起が耿諄大隊長をはじめ、少人数で綿密に計画された。たくさんの中国人を死なせた現場監督を殺したあと、連合軍俘虜と連行されていた朝鮮人を解放し、駐在所を襲って銃や軍刀を奪い、遊撃戦をおこなうというものだった。六月三〇日の深夜に蜂起は計画どおりに進められたが、現場監督たちが逃げないように事務所を包囲する直前に一人が早まって実行に移したため、四人の監督は殺したものの、四人には逃げられた。その監督たちが出張所や鉱山事務所に逃げ込んだため蜂起がわかり、サイレンや半鐘が鳴り、鉱山町は大騒ぎとなった。
 逃げた中国人を捕えるために地元の消防団員や在郷軍人などのほか、弘前憲兵隊などからのべ約二万人が動員され、四日目には全員が集められた。捕えられた中国人は二人ずつ後ろ手に縛られ、共楽館前の砂利の上にしゃがんだまま放置され、炎天下のなかで三日二晩も水や食料をあたえられず、ここで約一〇〇人が死んだ。五日目に蜂起の主謀者として耿諄隊長たち一三人が秋田市の秋田刑務所に送られ、生き残った中国人はトラックで中山寮に運ばれた。寮のまわりに有刺鉄線が張られ、武装警官が寝ずの番で巡回するなかで、また重労働がつづけられた。食料などは蜂起する前と、まったく変わらなかった。
 裁かれなかった鹿島
 (略)鹿島組花岡出張所には三回に分けて九八六人が強制連行され、このうち四一八人が花岡の地で死んだ。花岡事件は「捕虜虐待」で戦争犯罪に問われ、連行されてきた中国人のうち二三人が証人として日本残留を命ぜられたが、残りの人たちは二月に帰国した。鹿島組は一銭の労賃も渡さなかった。(略)なお、横浜法廷(BC級戦犯裁判所)は一九四八年に鹿島組の三人が絞首刑、一人は終身刑、警察の二人は重労働二〇年の判決が言い渡されたが、のちに全員が減刑となって出獄した。(略)
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のぞえ けんじ二九一二五年生まれ国有林作業員、ラジオキャスター、非常勤講師などを経て著述生活に。主著に「聞き書き花岡事件」「村の風景」「秋田杉を運んだ人たち」(御茶の水書房)、「花岡事件の人たち』(評論社)、「ドキュメント出稼ぎ」(教養文庫)などがある。
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皇軍毒ガス作戦の村3 週刊金曜日79号

週刊金曜日 1995.6.23号P48~50より、引用。 石切山英彰
北坦村毒ガス作戦の記録
日本軍が毒ガスを使用して一〇〇〇人にも及ぶ村民の命を奪った北坦村虐殺事件ー三光作戦」の文書資料がほとんど残されていない中、大虐殺に至ったこの作戦に関する日本軍側の記録を筆者は発見した。中国側による資料とも合わせて、文書に刻まれた毒ガス戦の実態に迫る。
1日本軍側の資料から
P49この連隊史のなかでも、『北支の治安戦(2)』-の場合と同じ大隊長が北坦村の戦闘を記述している(332ページ)「兼ねてより北坦村には地下坑道あり、隣村に通じているとの情報を得ていた。大隊長は各隊長に命じ、隣村に通ずる坑道の探索遮断出入口の発見を急かせた。数カ所の出入口を発見し、通訳を通じて降伏を勧告したが、応じない、日没も間近い止むを得ず発煙筒の殺人を下命した。」
 第一大隊の日本兵が地道のなかに下りて行って抗日勢力を殲滅した訳ではなく、地下の密閉された空間に向けて、武器となる「気体」を地上から投入したことまでは書いてある。その効果により、「敵は苦しまざれに一人又一人、穴の中から這い上がり次々と先を競って出て来た」。さらに地道の中から出て来た中国人たちについて、「便衣に着替えて『我的老百姓』(筆者注‥ウオータラオパインン、私は一般人であり軍人ではない、という意味の日本軍式中国語)と言うものもいた、本当の住民もいたであろう」と認めている。
 しかし、発煙筒の煙といえば、ガスの素人から考えても、化学兵器である毒ガスとは程遠い。私は毒ガス戦の権威、立教大学の粟屋憲太郎教授に電話で問い合わせた。
その際、中国側資料『河北文史典資料選集』の北坦村虐殺の項目や李徳祥さん証言にあった毒ガス吸引者の症状や、李徳祥さん証言にあった毒ガスの匂いや味、吸引後の症状をともに以下のように伝えた。
 症状:クシャミが出る、嘔吐する、涙が出る、鼻水が出る、全身が発熱する、ツバがひどく出る、ノドがひどく渇く、セキが出る、精神状態が不安定になる。ガスについて:トウガラシのきつい味と匂い、火薬の匂い。
これに対する粟屋教授の答えはー 日本軍が最も多く使用した毒ガス「あか」の可能性がある。化学名は「ジフユニールシアンアルシン」。発煙筒の煙に「あか」を混ぜることもあったが、もし発煙筒の煙だけなら、クシャミなどの症状は起こり得ないー。
 日本軍の毒ガス戦記録をまとめた『毒ガス戦関係資料』(「一五年戦争極秘資料集第一八集」。粟屋憲太郎、吉見義明編 不二出版)に目を通すと、日本軍が実は中国の至るところで毒ガス戦を行っていたことが分かった ー 「日中戦争が開始すると日本陸軍は、中国戦線各地で、催涙ガスのみならず『きい』(イペリット)、『あか』(ジフ三一-ルシアンアルシン)などの毒ガスを使用することになる。陸軍は毒ガス作戦が明らかに国際法違反であることを知っていたが、極秘にこれを実施したのである。日本軍の毒ガス作戦にたいし、中国国民政府や中国の各新聞は、抗議したが、日本側はこれを強く否定し続けた。」(15ページ)略
2中国側の資料から
P50(略)それによると上坂氏は、北坦村の戦闘に先立ち毒ガス兵器「赤筒」「緑筒」(筆者注:みどり」は催涙ガス)を傘下の大隊に配ったこと、その毒ガス兵器を第一大隊が使用したことを認めた上、(1)毒ガスの使用は、一六三連隊の上に位置する二〇師団(師団長‥飯沼守中将)の師団命令を受けたものであること(2)作戦終了後は必ず毒ガス効果を報告するよう師団から命令されたことを明らかにしている。また「この戦闘で、私が指揮する第一大隊は八路軍および住民およそ八〇〇人以上を殺害した」と述べている。さらに毒ガス使用の理由について、「漸次性の毒ガスであっても窒息により大きな殺傷力があることを、当時知っていた。日本軍がこうした毒ガスを使用したのは八路軍の地道戦に対応できず苦しんでいたからであり、窮余の一策であった。実験の名義で毒ガスを使用しただけでなく、これにより地道に避難した八路軍と住民を大量に虐殺することを図ったものであった」と供述している。
 この作戦が中国人民に与えた損害は、死者およそ一一〇〇名、家屋の破壊一〇榛、家屋の焼却三棟、家屋四五〇棟を奪い一〇日間使用したほか、中国人二四〇名を八つの砲楼の修築に一〇日間駆り出したという。(略)つづく。
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皇軍毒ガス作戦の村2 週刊金曜日第78号

週刊金曜日 1995.6.16号P40~42   石切山英彰
北坦村虐殺事件の証言
中国・河北省にある北坦村では地道(地下トンネル)が掘られ、日本軍の侵入はことごとく退けられた。
しかし一九四二年五月二七日、掃討戦に出た日本軍は抵抗線を突破。そして多数の村民が潜んでいた地道に毒ガスが投入された。
村の民兵隊長だった季徳祥さんが語る虐殺の日ー
P41(略)。日本軍は、食料や物資を奪いに来た。日本軍が村を攻める時は、まず中国人を日本人兵士の前方に立たせて先に歩かせ、その後ろから来た。中国人に中国人を撃たせた。中国人を防波堤に使った。(李さんの声のトーンが上がり、語気が強くなった。表情は引き締まり、背筋をビンー!とさらに伸ばした。リンとした物腰。話しながら、右手を大きく何度も振り上げた。)(略)
 日本軍が準備を重ねて北坦村に襲い掛かった毒ガス戦の状況について、李徳祥さんは、続けて以下のように私に語った。
一九四二年五月二七日(旧暦四月一三日)夜明け前、日本軍はやって来て、北坦村を包囲した。明け方四〜五時頃、日本軍と私たちとの問で戦闘が始まった。私たちは武器でははるかに劣っていたが一歩も譲らず、激しい戦いは長く続いた。我々の県大隊班長の王老年(当時二六~二七歳)は、地雷を抱えて敵の中に突撃し、李国生の家の近くで敵と爆死した。青年抗日先鋒隊の班長、李孟甲(当時二〇歳)は、李化民の家の前で戦死した。昼。昼一一〜一二時頃が最も激烈だった。この日は、雲一つない晴天。風がなく、暑い日だった。
 私たちは、日本軍の攻撃を七度退けだが、八度目の突撃があった時、すでに弾丸や手摺弾、地雷のすべてを使い果たしてしまっていた。とうとうこらえ切れず、日本軍の村への侵入を許してしまった。
 日本軍は、村に入ると、地道の入り口数カ所を発見して、地道に毒ガスを投入した。毒ガス容器の形状は、ちょうど懐中電灯のような円筒形で、鉄製だった。長さは二〇センチ、直径三〜四センチほど。フタの部分も含めて全体が灰色だった。筒状の本体部のややフタ寄りの所に円周に沿って赤い線が一本入つていた。
 私は、民兵隊長として最後の最後まで地上で反撃したため、地道に入ったのが一番遅い方だった。
 地道にもぐり込んだのは午後一時ころと覚えている。そのためガスにおかされる時間が他の者より短く、地道の中での中毒死を免れた。
 ガスを吸引すると、ノドが乾き、嘔吐し、息が詰まった。地道の中で、多くの仲間が毒ガスで殺された。
 午後三時ころだったと思う、私は地道から引きずり出された。毒ガスにおかされて瀕死状態になった年寄りも子供も、民兵も、地道から地面の上に出された後、殺された。
私は、まだ生きている赤ん坊を日本兵が火の車へ放り込んで焼き殺すのを、この目で見た。王というこの時の赤ん坊の母親は、いまだ保定市内に健在です。また日本軍が村の女性を強姦する所を目撃した。一つの井戸は、死体で埋められてしまった。
 李洛油という男は地道から引きずり出された後、日本兵に頭を撃たれて殺される所だった。しかし、弾が右耳の後ろから右唇のはしへ抜けて一命は取り留め、戦後も最近まで生きていた。(李洛油の息子の李小三が「生前の父に直接聞いた」として私に語った所では、李洛油は一人に腕をつかんで躓かされちょうど振り返ったところを別の日本兵に後ろから撃たれた。日本軍が村を去ってから、八路軍の医者を探して治療した。)
 私は、東北(旧満州)では日本人の家で働いたことがあり、日本語をいくつが知っていた。毒ガスを吸い込んだせいでノドが猛烈に乾く。カタコトの日本語で「大君(タイジュン、日本軍を指す)、いたい、いたいデ、みずー」と日本兵に水を求めた。日本語がしゃべれる奴ということで、日本兵は私を殺さなかった(「水」「痛い」を李さんは日本語で私に言った)。この毒ガス戦で、およそ一〇〇〇人の同胞が日本軍に殺されたー。
 一九五六年、藩陽で行われた中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷で、私は北坦村の毒ガス虐殺の生き残りとして、一人でおよそ三〇分間証言した。法廷には他に、河北省満蒙潘家峪虐殺の生存者や、承徳での虐殺の生存者もそれぞれの事件の証人として出席していた。北坦村の毒ガス虐殺を命令した日本軍の上坂勝が出席し、私の証言内容が全くの事実であると、大体次のように認めた。
「李徳禅の証言内容は、全く事実である。私がその虐殺を直接に命令した。定県の東南部五〇華里ほどの地域は赤匪の根拠地だった。私の命令により、この地域で人間の目玉をくり抜き、鼻をそぎ、耳をそいで、殺した」
 上坂勝は、遼寧省の撫順戦犯管理所に入れられた。 北坦村のもと民兵隊長、李徳祥さんは、以上のように私に語った。(つづく)
ーー(以上、引用終わり。原文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります。

ルポ皇軍毒ガス作戦の村(一)週刊金曜日77号

週刊金曜日77号1995.6.9 P20~25より引用。
中国・河北省における虐殺事件 石切山英彰
中国で日本軍が行なった三光作戦の生存者への聞き取りを進めた筆者は、北京から一〇〇キロにある北坦村での虐殺事件の証人に出会った。
この事件は日本軍が毒ガスによって一〇〇〇人に及ぶ村民を殺傷したものだった。
北坦村での取材に加え、毒ガス使用を明記した軍関係文書、作戦を指揮した大隊長の証言など、日中双方での裏付けを初めて行ない、非人道的な日本車の所業を追及する。
 中国を侵略していた日本軍の第一一〇師団第一六三連隊第一大隊は、「冀中作戦」中の一九四二年五月二七日、北京市の西南およそ二〇〇キロに位置する河北省定県北坦村で毒ガスを使用し、地下壕に避難した中国人八〇〇〜一〇〇〇人を虐殺した。この毒ガス使用は、ハーグ宣言を含む戦時国際法に違反する戦争犯罪である。
 私は、この事件に関して中国側では現場の北坦村を訪れ、毒ガス戦をかろうじて生き延びた村の元民兵隊長から「毒ガスが使われた」とする証言を聞き取る一方、日本側では同作戦を現地で直接指揮した日本軍大隊長の直筆記録から「毒ガスを使った」ことを明記している決定的文書を発見して上記の歴史事実を立証した。さらに同大隊長を捜し出し、自宅で大隊長自身に三時間のインタビューを行った。
 毒ガス戦の権威、立教大学の粟屋憲太郎教授は、北坦村で日本軍が使用した毒ガスの種類特定に関し、中国側のいう吸引者の症状などから判断する限りでは、とした上で(1)当時の日本軍が最も多用した「ジフェニールシアンアルシン」、通称「あか」の可能性がある(2)毒ガスの混じっていない発煙筒の気体だけを地下壕に投入したのであれば、中国側のいう「くしゃみ」などの症状は起こり得ない ー と私に回答した。同作戦に参加したもと日本軍兵士は、私の電話インタビューに対し、北坦村では「〝あか筒〝(毒ガス「あか」の携帯型兵器)を使うだから残滅できた。みんなが知ってますよ」と答えた。(略)
一 北坦村毒ガス戦の背景
(略)北坦村での虐殺が関係する日本軍の侵略行動は、日本軍により「冀中作戦(三号作戦)」と呼ばれ、一九四二年五月一日〜同年六月二〇日に行われた。「冀」は河北省の別称であり、「冀中」とは河北省を概念的に東、西、南、北、中央、の五地域に分けた場合の中央平原部を指す。「冀中作戦」は、この中央平原部を根拠地として日本侵略軍に対する頑強な抵抗を続ける共産党軍の残減を狙った「掃蕩」(サオダン、討伐)作戦だった。
(略) 侵略した日本側の立場からこの作戦を記録する資料として、『戦史叢書北支の治安線(2)』(朝雲出版社)がある。(略)
 同様の状況は、作戦終了後の以下のようを報告からも分かる-「沙河、水道溝河に沿う地区(筆者注:北坦村の属する地区)は、中共側が平原地拠点のモデル地区と称していた所であり、交通壕、地下壕の構築がはなはだしく進捗しており、ほとんどの部落が地下施設を設け、三力村約七〜八粁の間を地下壕で連接した所さえあった。また部落民の抗日意識が強く、半農半兵の状態で、老
幼婦女すら何らかの抗日団体を組織しておりために各隊の実施する粛正はきわめて困難であった。」(164ページ)
「不期に遭遇するか、あるいは追いつめられたときの戦意は相当に強く、特に部落による防御戦闘はきわめて靭強で、最後の一人になるまで抵抗した例は珍らしくない。」(171ページ)
 平原地帯でのこうした頑強な抵抗を可能にした一つの重要を理由は、引用文中にもあるように、抗日根拠地が地下壕(中国側はこれを「地道(ティータオ)」と呼んだ)を有したことだった。山岳地帯のように谷間など遠方まで逃げ延びるのに使える地理的な起伏をもたない河北の大平原地帯にあって、日本軍の侵略行動から命を守るため、民衆は地下に隠れ場所、「地道」を作った。地道は、最初は農作物を貯蔵する地下洞と地下洞を連結した簡単なものだったが、日本軍の暴行が熾烈を極めるに従い、中国人民衆もこれに対抗して、かなり大規模な地下施設に発展させた。『北支の治安戦(2)』は、「本作戦についての所見と教訓」として冀中作戦への参戦者の所見を総合整理するなかで、地道について次のように描写している-
「中共軍は平原地帯の抵抗拠点として各種の地下施設に最大の苦心を払っていた。たとえば、各家屋内床下に地下室を設けて相互に連接し、更にこれを部落外の秘密連絡点まで坑道で連絡するか、時には部落間に連絡用暗路を設けた所もあった。地下室は大小様々のものがあり、百数十名の兵員を収容できるものから、軍需品の一部を隠匿、格納するためのものまであった。坑道の入り口を発見するのは非常に困難であり、社寺院、廟、古井戸、堆肥小屋、堤防、物置、森林の中などによく秘匿されていた。このほか、畑などの凹道とか、丘の中腹等には潜伏用の横穴がたくさん設けられていた。」従って、北坦村に対する日本軍の「掃蕩」では、中国側の地道戦法への対処が成否の最大のカギだった。(略)
 二 現地、北坦村へ
(1)虐殺の記念碑
(略)北坦村で泊めてもらう農家へのお礼に、タバコ二カートンと酒二本を買う。中国での贈り物は、偶数が好まれる。これに加えて、中秋節(十五夜)が近いので月餅(十五夜まんじゅう)を買った。
(略)私はまず、村長の王慶珍さんの家を訪ねた。日本軍が毒ガスを使った虐殺事件の「幸存者」(シンツンシャ:九死に一生を得た人)に直接話を聞きたいこと、宿を都合して欲しいこと、などを告げると、快く引き受けてくれた。王さんは、虐殺の時四〜五歳。虐殺の日は地道の中に逃げ込んで一晩そのまま隠れ、翌日になって地上に出た。家族はすべて助かったという。李徳祥さんについては、当時の村の民兵隊長で、村にいた家族六人のうち本人を除く五人を殺されたと言った。今も健在と分かった。
 宿となった王さんの家に荷物を置き、早速、王さんと虐殺の記念碑を見に行く。村の中を歩きながら、「ここら辺りの路上には、当時、死体がごろごろころがってた」「この道の上にもー」と説明してくれる。地道は深さ二メートル、高さ二メートル足らずで幅一メートルほどのかなり大きなもので、だいたい村の中の道に沿ってその下部に掘られたという。
記念碑は予想以上の規模だった。石板で作ったさまざまな形の碑がいくつも、木立のなかに建っている。雑木林の一部を刈り込んで、敷地を作った感じだ。人を埋葬した後に土を盛り上げて作る土まんじゅうをコンクリートで作ってある。その周囲に桂を立てて裾の反り返った中国式の屋根をしつらえ、右手を振り上げた抗日兵士の人形をてっぺんに乗せてある。碑の周囲にコンクリートブロックやレンガを敷いてある他は、敷地内の地面は土で、雑草が茂っている。敷地の広さから言えば、「霊園」と言ってもいいほどだ。郷里のお宮さん(八幡神社)の境内のような雰囲気だった『しかし、ここは日本軍国主義の侵略によって殺された人たちを記念している場所だ。雰囲気が似ているといっても、よく考えれば、かつて中国人を殺した日本軍国主義の強力な精神的よりどころだった神道の「お宮さん」は、この霊園とは正反対の極に位置する。
 虐殺の被害者名を彫り込んである石板は四枚あった。白い石に北坦村を含む周辺村落の死亡者の名前がびっしり縦書きしてある。名字では李、王、采が多く、名前では「洛」字のつく人が多く目につく。被害者数何百人とか何千人とか数字で聞くよりも、実際に亡くなった人たちの実名をこうして突きつけられると、人間を殺したという事実に圧倒される思いがした。
 被害者への弔文が、別の石板にこう刻み込まれている- 一九四二年の「五二七」(五月二七日)は、一〇〇〇人の英雄たちの血の海の一日だ。「五二七」、それは偉大な民族解放戦争が敵味方の互いに譲らない段階に入ったなかでも最も悲しみの大きな一日だった。人を喰らう猛獣、日本侵略者とその走狗は、冀中の長期的統治の確保を狙い、華北に戦闘用の溝や堅塁を構築し、人民に対して血も凍る虐殺を展開した。定県の民族の愛国者八〇〇人-優秀な中国共産党員と勇敢な戦闘指導員、民兵、農民たち-は、まさにこの日、民族の不滅のために日本鬼子(リーベングイズ、侵略者としての日本人に対する蔑称)という獣どもと頑強に戦闘するなかで栄光の戦死を遂げた。我々が「五二七」の惨状を忘れることは、永遠にあり得ない。まだ母親の懐を離れない多くの乳飲み子と彼らの母親が、ともに虐殺された。烈士たちの鮮血は、黄土を赤く染めた。八〇〇人の遺体は、北坦村内の通りいっぱいに横たわった。子供らは父母を探し、父母は子供らの安否をたずねた。流れる熱い涙で人々の目は赤くなった。この恨みと傷心の日、それが「五二七」だ。だれがこの日を忘れられようか!ー
 日本軍による毒ガス使用は、以下のように描写されているー親愛なる死者たちよ。あなた方は、民族の自由と解放のために日本侵略者の壊滅的な「蚕食掃蕩」(カイコが葉を喰うようにジワジワと、日本軍が抗日勢力を包囲して撲滅を進めた様子を形容する言葉)を粉砕した。我々の故郷をまもるため、あなた方は勇敢にも武器を持って立ち上がった。我々の武器は手製の銃であり大砲であり、自家製の手溜弾や地雷だった。一方の日本鬼子は、これに一〇〇倍も勝る機関銃や大砲、戦車、毒ガス(原文:毒瓦斯)を持っていた。あなた方は郊外で、家屋の上で、地道の中で戦った。銃弾が雨あられと降るなかで、また毒ガス(原文:毒気)が充満するなかで、あなた方は激しく頑強に戦いを堅持した-。(略)
 (2)民兵隊長、李徳祥氏からの聞き取り
(略)李さんの帰りを待ちながら、奥さん(六八歳)から抗日戦争中の話を聞いた。彼女が一七歳の冬、日本子(リーベンズ、「日本鬼子」より弱い蔑称)はやって来た。掃蕩(サオダン)だ。(彼女は、日本軍が機関銃を撃つ音を擬音語で「グルグルー、グルグルー」と表現した)最初、だれだか分からなかったが、「おかしい、中国人じゃない。話してる言葉が日本語らしい」とみんなあわてた。奥さんによると、この後も日本軍は、北坦村に何度も来た。しかし、地道があって抗日勢力が頑強に抵抗したため、日本軍は村に入れなかった。そこで日本軍は兵力を集中し、今度は毒ガスを使って北坦村を襲った。これが北坦村の大量虐殺だという。
 河北平原の村々は、日本の侵略中そこらじゅうで地道を掘ったが、北坦村で掘り始めたのは一九四一年ころと彼女は覚えている。最初はやま芋を貯蔵する地下倉庫を互いに地下でつなげただけの簡単なものだった。地道ができると、自分たちの命を守る最後の逃げ場所だから、家の中のどこに地道口(地道の入り口)を作ってあるかは、めったに他人には知らせなかった。
「地道っていうのはね」と奥さんは、こんなふうに話してくれた「-抗日勢力を村に包囲した日本軍が、撃ち合いに優勢になったから、サアッ行くぞ!と突撃して村に踏み込むと、それまで猛烈な勢いで撃ち返して来ていた民兵らが影も形も見えない。これが地道戦(ティータオ・ジャン)さ。「だから敵は、〝八路(パールー)は神兵だ〞って言ったんだよ」と奥さんは笑った。(略)つづく
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いしきりやま ひであき一九六〇年、静岡県生まれ。一九八五年から中国・北京大学に留学。現在、会社員。
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引用終わり。全文はこちら。ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります。

侵略の50年、敗戦から50年 週刊金曜日38号

週刊金曜日38号 1994.8.12より引用。 天皇制への書簡 
侵略の50年、敗戦から50年 大江志乃夫
 永い日本の歴史をふり返っても、伝説は別として、史料的に証明できる日本の外征戦争は、古代から明治維新まで二度しが記録されていない。最初は六六三年、百済の再興を支援するために朝鮮半島に出兵し、唐・新羅の連合軍に白村江で大敗した戦争である。二度目は一五九二年から一五九八年まで、豊臣秀吉による再度の朝鮮侵略戦争であり、朝鮮水軍が海上権を翻して日本軍の補給を絶ち、朝鮮各地に孤立した日本軍の敗勢が明らかなとき秀吉が病没したので、日本軍はいそぎ撤兵した。歴史的にみて、日本は決して外征戦争が好きな国でも、外征戦争が得意な国でもなかったことが、この事実から知られる。
 日本歴史のなかの特異な五〇年
 その日本に例外的な時代があった。一八九四年から一九四五年までである。今年、一九九四年からちょうど一〇〇年まえの一八九四年、日本は日清戦争の開戦で朝鮮侵略を開始した。それ以後、中国の民族反乱鎮圧の一九〇〇年の義和団戦争、一九〇四年開戦の日露戦争、一九一四年参戦の第一次世界大戦、一九一八年のロシア革命干渉のシベリア出兵、一九二八年の中国革命干渉の山東出兵、一九三一年の満州事変、一九三七年戦の日中戦争、一九四一年開戦の対米英戦争をへて、一九四五年の無条件降伏にいたる。(略)
 しかし、日本が近代国家として発展するために、戦争は必要だったのだろうか。
 日本とはほおなじ時期に欧米に国をひらいたアジアの独立国に、一八五五年にイギリスと通商条約(ボウリング条約)をむすんだタイがある。(略)アジア・太平洋戦争に際して、タイは日本の武力的強制により日本の軍事行動に追随したが、仏領インドシナ(インドシナ半島)との国境紛争における武力衝突を除いては、本格的を対外戦争を起こしたことはなかった。(略)
 一〇〇年前、一八九四年七月二三日
 近代日本の戦争と侵略の最大の被害者も朝鮮であった。日清戦争は朝鮮の支配をめぐって、朝鮮国内を戦場として開始された戦争であった。日本軍が最初に戦闘行動の対象としたのも、清国軍ではなかった。一〇〇年まえの一八九四年七月二三日未明、ソウル南部に駐屯していた日本軍は、連隊長が指揮する一個大隊に朝鮮王宮(景福宮)を夜襲で占領させた。王宮警護の朝鮮国軍は、当然、日本軍の奇襲攻撃にたいして抵抗し、戦闘がおこなわれた。日本軍が王の身柄を確保し、戦闘中止命令を出させたのち戦闘は終息した。対清開戦にあたって、日本軍の最初の作戦行動が、朝鮮王宮を占領して国王の身柄を約束するために、朝鮮国軍との交戦によって始められた事実は、もっと強調されてよい。(略)
 一九〇〇年から翌年にかけて、つまり一九世紀の最後の年と二〇世紀の最初の年に、地球上で、南アフリカでイギリスがオランダ系ボーア人の植民国家を併合するためのボーア戦争をたたかい、アメリカがスペインから解放されたフィリピン独立戦争を鎮圧するためにたたかい、日本軍を主力とする列国連合軍が義和団戦争をたたかった事実は、特筆すべきできごとであった。(略)
 イギリスは、ロンドンを世界の金融市場の中心たらしめている中国金融市場の保護を日本にたよることになり、一九〇二年に日英同盟をむすび、日本を「極東の憲兵」として、中国の民族運動とロシアの中国侵略の防壁にしたてた。その結果が一九〇四年に始まる日露戦争であり、旧露戦争は、公然たる朝鮮の日本植民地併呑戦争であった。それ以後、朝鮮国民の惨澹たる苦難の歴史が始まる。同時に、日露戦争によって、日本はロシアの利権であった中国東北南部(南満州)の利権を獲得した。朝鮮を「日本の利益線」とした日本が、南満州を「日本の生命線」とするにいたった。なぜ「生命線」なのか、「生命線」が日本の国家的存立にとってどのような意味をもつのか、説得的な説明がまったくないままに、日本は「生命線」を守れというスローガンのもとに満州事変を引き起こし、昭和の一五年戦争に突入した。
 日本の植民地支配を特徴づける「皇民化」
 (略)しかし、日本の朝鮮植民地支配の実態研究でさえ、十分にすすんでいるとはいいがたい。(略)
 たとえば、憲兵政治の全時期を一身に担った人物の経歴や業績さえも、いまだに明らかでない。第三次日韓協約締結後に「韓国駐箚憲兵に関する件」が定められ、内地および台湾の憲兵の任務が「主として軍事警察を掌り」と定められていたのにたいし、「韓国に駐箚する憲兵は主として治安維持に関する警察を掌り」と、その主任務が治安警察にあることを明示した。このとき第一四憲兵隊(韓国駐箚憲兵隊)長に任命されたのが、日露戦争中にヨーロッパで謀略工作に活躍した明石元二郎少将(注4)であったが、明石のもとで第一四憲兵隊副官に起用されたのが予備役憲兵少佐山形閑であった。
併合断行の前提として寺内が韓国統監に就任すると、明石が韓国駐箚軍参謀長から韓国駐箚憲兵司令官兼警務総監になり、山形はそのもとで高等警察の主任となり、明石は就任訓示で「当司令部に於ける高等警察の事務は主任を山形中佐とし…就中予の最も重きを置くものは、韓国の治安並に危険の予防なりとす。諸子須らく高等警察に深き注意を払ふを要す」とのべた(『明石元二郎』下)。 山形は間もなく憲兵大佐、総督府警務総監部の筆頭課長である高等課長となり、一九一七年四月の定年までその職にあり、少将に進級して退職した。山形こそは、朝鮮の憲兵政治時代の全期間を人格的に表現した人物であった。しかし、この山形という憲兵将校の経歴・業績がいっさい明らかでない。なぜなら、将軍にまで昇進した山形は一度も陸軍の現役将校であったことがなく、予備役将校のまま憲兵大佐にまで昇進したというめずらしい経歴の持主であり、陸軍現役将校の人事名簿にその名が登場しないからである。朝鮮植民地支配の現場の要の地位にありつづけた、この謎めいた高官の素性さえ明らかにできていないことに、現在の日本の植民地支配研究の立ち遅れた側面がしめされている。(略)
 この「皇民化」すなわち天皇の忠実な兵士となって戦場に送られ、死ぬことが朝鮮植民地支配の究極の目標とされ、したがってその実現をめざす政策を特徴づけた。天皇の軍隊の兵士となって死ぬことが「皇民化」の頂点であれば、戦争協力のための労働力として強勧徴用されて各地の鉱山や飛行場建設のために連行され、あるいは天皇の軍隊の兵士たちの獣的な欲望充足のために女性が強制連行されるのは、その対照としての底辺的な「皇民化」であり、これまた有無をいわさぬ強制であった。
 「公民化」の代償の残酷さ
(略)戦争末期に、私は九州の三池炭鉱で入坑をまつ、その多くが強制連行によると思われる朝鮮人労働者の無言の列に接したことがある。それは、これらの労働者群にもつうじる、残酷さと無念さであろう。ビルマ戦線で総くずれの日本軍が退却するにあたって置きざりにされ、シッタン川の濁流に飲みこまれて溺死した朝鮮人「慰安婦」の一群、太平洋の孤島の飛行場建設に駆りだされ、守備隊とともに「玉砕」を強いられた朝鮮人徴用労働者、いまなおサハリンに置きさられたままの朝鮮人強刺連行労働者、戦後に生きのこることができたこれらの人々の家族や仲間にとって、日本の「戦争の時代」の五〇年は、日本の降伏をもって終わらなかった。
 日清戦争に始まる「戦争の時代」の五〇年、日本の敗戦後の平和の五〇年という考え方は、平和と繁栄の戦後五〇年を享受した日本人についてのみ言うことができる時代の区切り方であり、日清戦争に始まる日本の侵略の苦難をなめた側には、いまだに日本の「戦争の時代」の二〇〇年がつづいている。この戦後五〇年の受止め方の違いに、日本人とアジアの諸国民の歴史感覚の相違があり、改めて日本の戦後責任、そして天皇の戦後責任が問われている。
 (注4)あかし もとじろう一八六四~一九一九 一九〇四年の日露開戦ではストックホルムで、革命下のロシア内情の諜報活動に従い、欧州各地の過激派と接触、革命家に資金を提供するなど、ロシアの後方撹乱工作を展開した。八年韓国駐箚軍参謀長、一〇年同憲兵隊司令部、警務長官を兼務、日韓併合時の朝鮮義兵運動を弾圧した。
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おおえ しのぶ・一九二八年、大分県生まれ。茨城大学名誉教授。著書に『靖国神社』『日露戦争と日本軍隊』『参謀本部』などがある。
ーー(引用終わり、全文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります)
一読した感想。
・国民に何の説明もないまま、自衛隊の海外派遣に猛進する安倍がダブル(なぜ国内に1年分の石油備蓄があるのにホルムズ海峡の掃海艇派遣が必要か)。
・「皇民化」すなわち天皇の忠実な兵士となって戦場に送られ、死ぬことが朝鮮植民地支配の究極の目標とされたが、いまや日本国民がそのターゲットになりつつある
・このような研究を続ける学者は自民党にとり都合の悪い存在であるため、人文学系学部の廃止を国立大学へ指示している。

ビルマの慰安所と商社 週刊金曜日第61号

週刊金曜日第61号 1995.2.10 P22~24より引用。
発見された旧日本軍の"史料" ビルマの慰安所と商社

これまで、ビルマの慰安所については公文書による裏付けがなかったが、昨年の夏、イギリスで何点かの史料が発見され、慰安所への軍の関与、さらに商社員の慰安所利用に便宜を図っていたことなどが明らかになった。戦後になっても身落とされていた史料について、発見者の林博史氏に解説、真相を究明してもらった。  林博史
 手つかずだった「慰安婦」調査
(略)「従軍慰安婦」問題については、国内でも警察や法務省などの資料が公開されていないし、海外の史料調査や関係者からの聞き取り・史料収集などやるべきことばまだまだ残っている。にもかかわらず、日本政府は真相解明はもう棚上げし、民間募金でけりをつけてしまおうというのである。
 さてアメリカの日本軍関係史料については、研究者やマスコミも注目をし、「従軍慰安婦」問題についてもいくつか貴重な史料が見つかっている。しかしイギリスについては手がつけられていなかかった。ビルマやマレー半島などは元イギリスの植民地であり、戦争末期にはイギリス車がインドからビルマに攻め込んできた。さらに日本の敗戦後には、マレー半島やインドネシアなどに上陸し日本軍の武装解除にあたったことから、これらの地域の日本軍関係史料をイギリスが詰っていることは十分に予想された。
 昨年の夏に私が訪英した際に、マレー半島の華僑粛清=虐殺などに関する更史料とともにビルマにおける日本軍慰安所に関する史料も見つけた。ここではこの慰安所に関する史料について紹介したい。
 軍と商社の結びつきを示す記載
 ビルマについては、これまで慰安所に関わる旧日本軍の公文書はまったく見つかっていなかった。多くの旧日本軍史料が所蔵されている防衛庁防衛研究所図書館からまっビルマ関係は報告されていない。もちろん日本軍関係者や慰安所の業者、元慰安婦の方々などの証言によりビルマの各地に日本軍の慰安所が設置されたこと、ビルマ人女性の慰安婦もいたことなどは明らかだったが、公文書の裏付けがなかった。そのためか、日本政府が一九九三年八月に発表した調査鰭果「いわゆる従軍慰安婦問題について」(内閣外政審議室)においては、「慰安婦の出身地」の中にビルマが入っていなかった。つまりビルマ人慰安婦の存在を、日本政府は認めていないのである。
 今回発見した史料は、ロンドンのインペリアル・ウォー・ミュージアム(大英帝国戦争博物館)の史料部に所蔵されている文書である。おそらく、ビルマ戦線でイギリス軍が日本軍から没収したものと推定される。
 この史料の表紙には、『昭和十八年 諸規定綴 第三六二九部隊』と書かれていた。第三六二九部隊とは、ビルマ中部の都市マンダレーに駐屯していた野戦高射砲第五一大隊のことである。この綴りの中には、マンダレー駐屯地司令部などが定めたさまざまな規定が綴じられている。その中に、慰安所に関するものが四点あった。交通の要衝であるマンダレーは日本軍の補給・集積・輸送の拠点であり、兵站など後方関係の部隊が駐屯していた。
 最も興味深い史料は、一九四三年五月二六日、マンダレー駐屯地司令部が定めた「駐屯地慰安所規定」である。これは全二三条、別紙二枚からなる規定である。これまで中国、フィリピン、マレー半島、沖縄などでの慰安所規定が見つかっているが、それらと比較して特徴的なことは、商社員らに慰安所利用の特別な便宜を図っていることである。まず関連する条項を紹介しよう。
 第二条 慰安所ハ日本軍人軍属二於テ使用スルヲ本則トスルモ軍人軍属ノ使用ニ支障ヲ与へサル限度二於テ左記各項ヲ厳守ノ上当分ノ中「マンダレー」在住ノ日本人ハ二四・三〇以降二限り特二登楼ヲ許可ス従ツテ二四・三〇以前二於ケル立入リハ之ヲ厳禁ス
  左記
l.軍人軍属ノ遊興ヲ妨害セサルコト
2.規則二違反シ又ハ風紀ヲ紊スカ如キ行為ヲナサゝルコト
3.登楼時刻以前二於ケル予約ヲ厳禁ス
4.料金ハ総テ将校ノ額トス
5.前各項二違背セル者二対シテハ許可証ヲ引上ケ爾後立入ヲ禁止スル外其ノ行為ノ如何二依リテハ其ノ商社ハモトヨリ日本人全部ヲ禁止スルコトアルへシ
 但シ奥地等ヨリノ来縁者ニシテ右ノ時間以降二登楼シ得サル特別ノ事情アルモノニ限り日本人会長ハ自己ノ責任ヲ以テ其ノ都度予定時間資格氏名等ヲ記入セル証明書ヲ本人二交付シ之ヲ楼主ニ明示スルニ依り開業時間内適宜登楼スルコトヲ得 
(略)
 日本の軍政下で日本企業進出
(略)マンダレーに関わりがありそうな事例をいくつか紹介したい。た
とえばビルマ物資配給組合が組織され、そこーで砂檻・塩・石炭・マッチ・タバコ・繊維製品・雑貨類などを扱った。この配給組合は当初、三井物産・三菱商事・日本綿花(のち日綿実業)・安宅商会・三興の五社で構成され、のちに東綿・江商・千田商会・鐘淵商事・丸永・大丸が加わって一一社で構成された。この配給組合の下に、金塔商会・東洋商会・大原商会など二社が卸商として配給に関わった。配給組合の支部の一つは、マンダレーにもおかれていた。
米の買付・集荷・保管・積み出しは、日本ビルマ米穀組合(三井物産・三菱商事・日本綿花の三社で構成)が担当した。綿花の栽培・集荷・綿花工場の経営には、日本綿花栽培協会(日本綿花・江商・富士紡績・中央紡績の四社)があたり、マンダレー地区は中央紡績が担当した。木材の開発・製材・配給は日本ビルマ木材組合(三井物産・三菱商事・日本綿花・安宅商会の四社)が担当し、マンダレー地区でも四つの製材工場を経営した。ほかにマンダレー地区では、高砂麦酒がビール工場(のちに物資不足のため味噌・醤油工場に転業)を、日南農林工業がマッチ工場を経営していた。またこのマンダレー地区での皮革なめし用のタンニン材料の買い付けは三菱商事が担当、原皮の開発・改善については兼松商店が担当し、日本原皮に売却していた。マンダレーから北東に入ったボードウィン鉱山は、鉛・亜鉛・銅などを産出する重要な鉱山で軍直営になっていたが、実態は三井鉱山が運営していた。ほかに各地の鉱山や工場などの経営が日本の企業に委託されているが、ここでは省略する。
 このようにさまざまな物資の買い付けや配給、事業経営に多くの商社をはじめ、日本企業が関わっていた。ビルマでは三井物産・三菱商事・日本綿花が深く食い込んでいたように見られる。これらの商社員たちの中で、中北部にやってきてマンダレーに立ち寄った者も多かっただろう。その彼らは、軍慰安所利用の便宜を受けられる立場にあった。
ビルマ軍政を担当した第一五軍司令官だった飯田祥二郎は、戦後ビルマ軍政を回顧した中で、(略)。さらに「彼らはビルマに在る利権は之を日本人の手に入れ、将来に亘り之を経営して行くものだとの基礎観念の上に立ち」、「ビルマ経済力増進強化のため、逐次ビルマ人にその方を持たせるように考慮を廻らすというようなことは、全然念頭にないというてもよい。このような日本人がどんどん進出してきて、各方面で威張りちらして働き出すのだから、ビルマ人の頭にこれが何と映ったであろうか」と述べている(『史料集南方の軍政』)。(略)商社が軍との関係を活用して慰安所を利用していたとするならば、当然、その責任も共有されなければならないだろう。軍と結びついて、ビルマから経済収奪を行なったこととともに。
 防衛庁にも関連史料が
 もう一つ興味深い史料は、一九四五年一月二日にマンダレー駐屯地司令部によって制定された駐屯地勤務規定の中に別紙として付けられている、慰安所の一覧表とその地図である。「軍指定車准指定食堂慰安所」と題された表には、飲食店八店とともに軍指定慰安所五軒と軍准指定慰安所四軒が掲載されている。ここに慰安婦の出身を示すと見られる項があり、指定慰安所の一つは「内地人」がおり「将校慰安所」となっている。残りの指定慰安所は「広東人」のもの一軒、「半鳥人(朝鮮人)」のもーの三軒となっている。准指定の四軒はいずれも「ビルマ人」であり、そのうち一軒は「ビルマ兵補専用」と記されている‥つまりこれら九軒の慰安所には日本人と朝鮮人だげでなく、中国の広東からも慰安婦として連れてこられ、また現地のビルマ人も慰安婦にされていたことがわかる。
 兵補とは日本軍が補助兵力として占領地の住民から採用したもので、日本軍の下請けをする植民地軍のような存在である。(後略)
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はやし ひろふみ一九五五年生まれ。関東学院大学助教授。日本の戦争貸任資料センター研究事務局長。主著に。『華僑虐殺』(すずさわ書店)など。
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731部隊を追って 最終回 週刊金曜日1994.11.25号

週刊金曜日1994.11.25号P40-P43より引用。 西野留美子

敗戦後、七三一部隊は戦争責任を追及されることなく、アメリカの細菌戦争に取り込まれていった。戦後の医学界は、七三一部隊の残党に支配され続けた。注目の連載最終回。
 731部隊とペンタゴン 
(略)一九七四年二月二三日、第七二回会衆議院予算委員会では、楢崎弥之助議員がアメリカのペンタゴンから研究費の供与を受け研究を委託されている日本の大学・研究機関の一覧表を提示し、その説明を求めた。
 研究の内容であるが、たとえば東京大学では、大気汚染性物質の動物免疫過程におよぼす影響に関する研究、京都大学では分子レベルにおけるウイルス宿主相互関係に関する研究、神経組織のミクロゾームの物理化学的生化学的研究、群馬大学では臭覚の受容機構に関する神経生理学的研究、国立癌センターではデング熱ショック症候群の場合の人体血清、補体成分の測定……という多岐にわたった内容である。(略)
 政府は隊員名簿を保管
 東京裁判で免訴された七三一部隊は、その全貌を国内にも明らかにされることなく歴史に潜行を続けたが、一九八二年四月に開かれた内閣委員会では、榊委員が軍人恩給に関連して、七三一部隊の問題について質問を行なった。今から二一年前のことである。
 榊 旧満州、つまり中国の東北地方にいました旧軍人のうちで、関東軍防疫給水部(七三一部隊)に所属していた軍人軍属などがいます。そ
のうち恩給官員、つまり恩給を受ける公務員、これは何人いたのか、それから非恩給官員は何人だったのか、資料はございますか?
 森山説明員(援護局業務第一課長) 関東軍防疫給水部、通称石井部隊という部隊でございますが、この部隊の復員者、つまりお帰りになった人のうちで恩給公務員の数、恩給公務員の数と申しましても、普通恩給の年限の資格があるかどうかわかりませんが、一応身分的に恩給公務員となるという人の数を申し上げます。私どもで保管しております留守名簿という名簿がございまして、これは昭和二〇年一月一日現在で外地に売った部隊所属名簿でございます。これは終戦後も残務整理で復員の記録などを書き込んだものでございます。これによりますと、将校が一三三名、准士官、下士官、兵、これが二五二名、それから文官と申しますが、これは技師とか技手、それから属官でございますが、これが二六五名、合計一五五〇名です。それから恩給公務員でない人、つまり雇傭人が主体でございますが、この方々が二〇〇九名。以上でございます。
榊(略)いまの数字を合計しますと、約三五〇〇名を超える数字が出てまいります。これは今までどこでも開けなかった新事実であります。(略)
 また、支部についても、政府はその人員を明らかにした。
榊 (略)ところでもうひとつお尋ねいたしますが、政府の持っておられる資料では、防疫給水部本部はハルビンに本部があって、そのほかに
五つ支部があったはずでありますけれども、これを合わせますと、そこの軍関係者はいくらいたのでしょうか。
森山 私の方に部隊略歴というのがございまして、これを見ますと、昭和二〇年六月一五日の時点でございますが、配置状況が書いてあるわけでございます。これによりますと、本部がハルビンにあったわけでございますが、ここに約一三〇〇名、それから支部がハイラル、これがー約一六五名、それから牡丹江約二〇〇名、孫呉約三二ハ名、林口約二二四名、大連二五〇名。約一三六名というのはちょっとおかしいのでございますが、これは書いてあるとおりに私申し上げているわけでございます。これを足しますと約二三〇〇ぐらいになるんじゃないかと思うのですが、これはいま申し上げました軍属なんかが入っていないのじゃないかというふうに推定しております。
榊 ほぼ明らかになつてまいりました。おそらくその二三〇〇名といのが、石井細菌戦部隊の終戦時の軍籍要員とでもいいますか、そういう者だろうと思います。それを含めまして膨大な二五〇〇名に上る陣容を構えていた。(略)
 これまで七三一部隊員は約三〇〇〇人と推定されてきたが、政府答弁により三五〇〇人という数がすでに確認されていたということになる支部を合あせれば約五八〇〇人。政府は少なくとも、こうした留守名簿とともに部隊略歴を持っているのだ。
 七三一部隊員の戦後
戦犯免責後の「七三一」の行方は、非常に関心が向けられるものである。七三一部隊の「軍神」石井四郎が喉頭ガンのために死去したのは、一九五九(昭和三四)年一〇月九日のことだった。新宿区若松町の自宅で激動の人生に終止符を打った彼はまだ六七歳という若さであった。
 一〇月一一日に青山葬儀場で行われた石井の告別式には、定刻より早い時間に結核・性病の研究班長であった二木秀雄や、植物研究班長であり教育部教官であった八木沢行正などが姿を見せ、式場は次第に訃報で駆けつけた元隊員の姿であふれた。葬儀委員長は、一時期七三一部隊長を勤めた北野政次であった。
 七三一部隊の戦友会は、現在も全国各地で毎年開かれている。その戦友会のひとつである精魂会が発足したのは、敗戦一〇年後の一九五五(昭和三〇)年のことだった。その二年後には、元少年隊を中心にした房友会が発足している。石井四郎が隊員たちの前で演説を行なったのは、おそらくその房友会の結成大会(一九五八年八月)が最後だったろう。「本日ここに少年隊の若さにあふれた元気はつらつたる姿を見て、大変うれしく思う。この機会に、七三一部隊の真の任務は何であったかということと、少年隊設立の意義を説明する」。挨拶に立った石井は、興味深い話を始めた。「第一に、七三一部隊の任務は、一口に言って日本国家、日本民族を救う研究機関であった。私は昭和二年より昭和五年にかけてイタリア、ドイツ、フランス、ロシアの各国へ秘密探偵として潜入した。(略)
隊長をはじめとして幹部クラスにいた隊員たちの多くは、戦後、大学や研究機関などの医学界に身を置いた。北野の場合、陸軍軍医学校の教官だった内藤良一や「七三一」の結核・性病研究班長だつた二木秀雄、濾水器や細菌入りの陶器爆弾を製造した宮本光らと、日本ブラッドバンクを設立した。後のミドリ十字である。
 凍傷実験や生理学研究班長だった吉村寿人は、京都府立医科大学の学長にまでなり、北野と共に南極観測特別委員となった。また、生体解剖などを手がげだ病理班の斑長岡本新造は、京都大学医学部の部長、近畿大学医学部の部長に、薬理研究班長の草味正夫は昭和薬科大学教授、孫呉熟などウイルスの研究を進めた笠原四郎は北里研究所へ、ざらに国立予防衛生研究所には、赤痢研究班長だった江島真平、植物班長だった八木沢行正らの姿があった。
 医学関係だげでなく、航空班の増田美穂は、防衛大学校の教授になっている。そのよしみで、戦後自衛隊に身内の就職の世話をしてもらったという元隊員もいる。
 一方、下級隊員たちはどうであったのだろう。彼らの戦後を調べていた私は、取材中に興味深い話を耳にした。それは元隊員が戦後、原爆被害による傷害状況を医学的見地から調査するアメリカと日本(国立予防衛生研究所=以下予研)の合同調査機関ABCC(Atomic Bomb Commission・原爆傷害調査委員会)に就職していたという事実であった。日本での細菌、ウイルスなどの研究のトップ機関であった予研に、いみじくも江島や八木沢の姿があったことはすでに述べだが、所長クラスをみていくと、その顔ぶれが「七三一」やその関連機関の中枢幹部たちであることに気づく。七三一の姉妹部隊のひとつ、南京の一六四四部隊に関わっていた東大伝染病研究所教授の小島三郎も、そのひとりだった。
 予研は戦後、四〇六部隊と言われていた在日アメリカ陸軍の「細菌兵器」研究部隊と密接な関係を持っていた。先に紹介した日本の研究機関に研究費を供与していた部隊こそが、この四〇六部隊であった。その予所はさらにABCCとの協力関係を作り、原爆傷害調査をしていたわけである。ABCCの研究員は複数の大学から派遣されており、その関係で京都府立医大にいた元七三一部隊凍傷班長だった吉村寿人も、たびたびここに姿を見せていたのだ。
(略)ここに詳細に書ききれないほどに、七三一部隊の戦後は、アメリカの細菌兵器研究機関などと陰に陽に密着し協力関係を作ってきた。
現在の生物兵器開発のルーツに「まさか」の戦慄を覚えるのは、私だけではあるまい。    (完)

にしの るみこ・ルポライター。七三一研究会事務局長。著書に。「七三一部隊の話」「従軍慰安婦のはなし」(明石書店)など。
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南京大虐殺 杭州湾から南京へ3 週刊金曜日51号

南京大虐殺 杭州湾から南京へ3 週刊金曜日1994.11.18号 本多勝一 P52~53より引用。
 長興市が占領されたときの様子をつづけよう。
 馬巧林さんは一九歳だった。「むかしのことはあまり話したくありません」と、体験を語るまえに彼は言った。ー「話すと涙がでてしまうものですから。両親がころされて、・・・でもあなたは日本侵略軍の犯罪をしらべにきたとのことですから、あえて話します」
 母が強姦され、父も
(略)両親は家から二〇〇メートルほどはなれた墓地にかくれていた。村のあちこちで家に放火され、煙があがっている。自分の家がどうなっているのか気が気でなくなった母は、家がみえる位置まで出ていったらしい。日本兵につかまってしまった。家のまえの畑で強姦された。母の死体は下半身がはだかにされ、局部を切りつけた斧がそのままつきささっていた。
 母がもどらないので、父も墓地から出ていったが、日本兵が母をつかまえて何人もかこんでいる様子を遠くからみたらしい。動転した父は半狂乱となって泣きながら西のほうへむかう姿を村人たちはみていた。たぶん子供の避難先へゆくつもりだった。だが家から二キロほどはなれた桃家橋で日本兵につかまった。首を切られてころされた。
P53(略)いっばうあまりに悲惨な母の死体には 日本兵が去ってから村人らがとりあえずワラをかぶせた。ところが二、三日してまた日本兵があらわれたとき、このワラにも放火したので、上半身の着物も髪も焼けた。一カ月後に柩を用意して馬さんが家にもどったとき、母の死体はこんな有様のままであった。、馬巧林さんはこのようを体験を語った。このあくる年の六月、一五人が「蒸殺」(湯気で蒸しころす)される事件があったが、南京攻略戦後のことなので省く。
 妻が強姦され、娘も・・・
(略)方家浜村には、阿南省からきた馮毛頭という若い農民がいた。妻(25)と女児(3ツ)の三人家族だった。三人の日本兵が突然あらわれ、馮は逃げたが妻がつかまってしまった。
 夕方になって湾がもどると、家は焼かれ、妻は外で強姦されたあと腹部を銃剣で突きさされて殺され、その死体の上に三歳の娘も死んでいた。娘は心臓部をひと突きにされていた。外にひきずりだされた母を女児が追ってすがりついていたのではないかと、村人たちはあとで想像した。妻子の惨劇に衝撃をうけた馮毛頭は、すぐに方家浜(沼) にとびこんで自殺した。自殺したときは陳千忠という馮の隣人が目撃していて、あとで周さんに話した。
 広徳も占領・皇軍破竹
 (略)
つづく
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七三一部隊を追って第三回 週刊金曜日1994.11.18号

731部隊を追って 第三回 週刊金曜日1994.11.18号 P42~45引用。
魔界の記憶 西野留美子
 生体実験の犠牲になった多くは死刑囚だったが、裁判にかけられぬまま「特移扱」により、731に送られた。国家の作った「法律」によって、「実験材料」は供給されたのだ。
 しゃべることの重さ
(略)「たびたび飛行機で安達実験場に行ったよ。実験に使う『マルタ』を飛行機やトラックで運んだこともあった。安達で細菌の投下実験をするときは、逃げないように何メートル間隔かで『マルタ』を杭に縛りつけて立たせ、その頭上から細菌ネズミが入っている細菌弾を落下したわけだ。
 飛行機には、操縦していたわしの他に、整備士、観測士、通信士が乗っており、連携して作業にあたった。たとえば『高度一〇〇〇』と言うと、スイッチを押す。そうすると飛行機の胴腹から爆弾が落ちるわけだ。ヒュッヒュッヒュッって落ちていく。たいてい一個の爆弾に二五匹から三〇匹の細菌ネズミが入っておって、それを四、五個落とした。早くて四、五日おきに、一週間、二〇日と間を開けてやったこともある。通常の実験で使ったのは、三人から五人ぐらいの『マルタ』だ。
P43(略)731部隊石井三男班の労工として雇われていた方振玉さんは、こう話す。
「私の仕事は、あそこで飼っていた動物の餌を運ぶことでした。一九四四年のある日のことです。その日はいつもと違って、ものものしい警戒体制でした。荷物を届けにいった私は、衛兵所の建物に閉じ込められたのです」
 衛兵所の建物に閉じ込められてまもなく、貨車が入ってくる音がした。机の上に乗り、透明ガラスになっている部分からこっそり外を見ると、異様な光景が飛び込んできた。貨車の中から、ひとりの首ともうひとりの足が一緒に縛られた状態の二人一組が、次々に下ろされているのだ。彼らはまるで物体のように手押し車に重ねて積まれ、防薗衣を纏った日本人が彼らを中に運び込んでいった。
「縛られていた人の中には、頭を動かす人もいた。あれは死体ではなく、生きている人たちだったと思う」。全員の生死については分からない。この場面は、中国人労工の張喜財さんも目撃したという。
 「実験後」の人々
P44(略)現在東北烈士紀念館になっている建物こそが、当時のハルビン市警察であるが、ここにも「マルタ」にされる人々が収容されていたということになる。
 臨陣格殺
 ところで七三一部隊特設監獄に移送され、生体実験にさらされた人々とは、いったいどういう人たちだったのだろうか。言い換えれば、なぜ、このようをことが可能だったのだろうか。
 この質問を元隊員に向けると、彼らの多くが「実験に使われた大人は、死刑囚だった。死刑執行の場として、七三一に送られた」という。ということは、彼らは裁判あるいはそれなりの手続きを経ていたのだろうか。
 一九三八年一月二六日付、および一九四三年三月二日付で、「特移扱ニ関スル件通牒」が出されている。これにより、裁判なくして七三一送りが「法的」に可能になった。「特移扱」される対象者とは、「敵方のスパイの場合、何度逮捕されても活動を停止しない者、逆スパイとして利用が不可能な者、そして絶対に口を割らない者である。それ以外の人間の場合、思想犯、すなわち民族主義者および共産主義者で、罪状重く死刑が確定的な者、あるいは罪状は軽くても、その釈放が日本軍にとって不利となるような者」であったという(海鳴社『消えた細菌戦部隊』常石敬一)。つまり「特移扱」により、裁判にかけなくとも関東軍司令官の裁断さえ下りれば、彼らを七三一に移送することができたわけだ。
P44 性病研究
(略)「女には、特別の研究をしておった。二木班では、結核研究の他にも、梅毒など性病の研究もしておった。女に梅毒を植えつけて感染経過を観察したり、ときには直接感染実験といって、実験のためにセックスさせたりすることもあった。俺も『マルタ』どうしに性交させるのに立ち会ったことが、そうさなあ、二、三度あったかねえ。抵抗はできん。監視されておるわけで、拒否することも逃げることもできん。その結果、妊娠した女もおった。子供を産ませたり、その子供を実験に使ったことも聞いたさね。」収容女性には性病の実験が施れたというが、いったいなぜ、細菌部隊で性病の研究をする必要があったのだろうか。(略)
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南京大虐殺 杭州湾から南京へ2 週刊金曜日50号

南京大虐殺 杭州湾から南京へ2 週刊金曜日1994.11.11号 P56~59より引用。本多勝一
 湖州市に「東洋鬼が来た!」
(略)手伝いが帰ったあと、家族でブタ肉を卓上においたとき、はげしく戸をたたく音がした。ただごとではない様子に日本兵来寇を察知した五人は、あわてて寝台の下にかくれた。けれども戸を閉めてある横木が、観音びらきの隙間から鋸で切られはじめた。これでは危いとみて、楊さんたちは寝台の下から出ると、裏口から脱出した。しかし岳父の崔馮貴は非常な高齢だったのでそのまま残り、四人がバラバラに散っていった。叔父の楊老四は、竹垣を越えて一〇メートルほど走ったところで射撃された。「助けて」とさけぶ声を、叔父の妻も岳父もきいだが、助けに行ける情況ではなかった。叔父の妻は桑畑にかくれた。楊さんと弟の二人は西のほうへ走った。さきに避難した七人の家族がいる村を念頭においてのことである。ところがまもなく、腰をおろして休んでいる日本兵たちの眼前に出くわしてしまった。日本兵たちは、意味不明の動作をしながら二人に何か言った。よくわからぬが、どうも「あっちへ行け」とでも言っているらしい。弟もそう思ったのか自宅の方へ歩きだしたが、七メートルほど離れたとき、日本兵はすわったままの姿勢で発砲し、射殺した。
 日本兵はつぎに楊さんにも同じ動作をした。(本多注--遊び半分に標的にしていると考えられる。)弟と同様に射殺されると思ったので、どうしていいか判断もつかぬまま動けないでいると、日本兵の一人が銃の台尻で楊さんの頭をたたきのめした。倒れると同時に楊さんは気絶した。
 一部始終を、近くのにご(わら積み)にかくれて見ている「陸」という男がいた。陸によると、楊さんはこのとき銃で三回なぐられて大量に出血したという。これが正午ごろのこと、日本兵は午後三崎ごろ去ったが、もう殺したつもりだったのだろうと楊さんは考える。陸が楊さんの家に行って、無事だった叔父の妻と岳父(崔馮貴)に知らせ、三人で楊さんを家へはこんだ。楊さんはこのときまで気絶していた。叔父と弟の死体も三人がはこんだ。
 三日のちになって、死んだ二人のために柩を買いもとめ、裏のあき地に埋葬した。楊さんはそれから二年間ほど起きあがれなかった。(略)
 日本兵たちは捕虜を運河岸に並べると、まず丸はだかに余るよう命じ、ついで銃剣でおどして運河にとびこませた。あまり深くはないので溺死したりはしないが、寒さはかなりのものだから、ひどいことには違いない。要するにこれは「いじめ」が目的なのであった。
 日本兵は捕虜たちを運河から空地へあがらせた。虐殺がはじまったのはそのあとである三、四人の日本兵が刀をもって待つところへ、まわりの日本兵たちが裸の捕虜をつれてゆく。すわらせられた捕虜のうしろから、刀をもった日本兵が首を切る。こうして五、六十人の捕虜が皆殺しにされた。
 三日ほどあとのこと、柏少年の隣家の、一歳年長の少年が、運河ぞいに走って遊んでいたとき、日本兵に標的にされて射殺された。
その父親の「陳」がこれを知ってとびだしたが、少年のところにかけよる寸前に陳も射殺された。
 柏登高さんは以上のように語った。連行された父は一週間ほどで帰されたが、二年後(一九三九年)にまた連行され、こんどは二年間の強制労働で衰弱しきって帰り、その一一日目に死んだという。
P58 ありふれた放火・射殺
  「花姑娘」の強姦・輪姦
 湖州の次の西の都市は長興だが、途中に李家老という小さな町がある。ここで五人が語った体験は南京陥落よりあとのことばかりだが、強姦事件が非常に多い。一例として輪姦事件だけ報告しておく。
 程関法さんは一三歳だった。日本軍来寇の翌一九三八年三月ここから四キロほど東北の洪橋という村に程さんが避難中のことである。家の前の庭であそんでいたとき、三〇人くらいの日本兵が突然あらわれた。分散して「花姑娘」(若い女性)を求め、家々をさがしまわる。
 程さんがいた家の隣家から、一七歳の娘がひきずりだされた。三、四人の兵隊が連行していった。そのあとの光景は見なかったが、のちにおとなから聞いたところによれば、正午ごろ大勢に輪姦されたという。
 その夕方、娘は川にとびこんで自殺した。死体がひきあげられるところは程さんも見た。
 
 この年の六月、程さんと弟は李家巷にもどり、徐連法の三人家族(夫妻と一〇歳の娘)と一緒の家に住んだ。
 その六月中のある日の午後一時ごろ、酔っぱらった四人の日本兵があらわれた。例によって「花姑娘」さがしである。このとき程さんの父母は労働者なので不在、徐も不在だったので、家には徐の妻・王美姐(仮名・三〇代)と程さん兄弟しかいなかった。
 この王美姐が四人につかまった。この家の家主は別の所にいて、二世帯で一軒を借りているかたちなので、土間をはさんで二間と各台所があり、その一方が徐夫妻の部屋である。彼女は自分の部屋でつかまった。「救命!」(助けて)という大きな叫び声をきいた。しかしそのまま、その場で輪姦された。
 その後、王美姐は寝ついたまま何日も起きてこなかった。
 程関法さんは以上のような体験を語った。(略)
P59 切断された纏足の小山
 (略)あるとき「金蓮橋に纏足の足がたくさん切断されて積みあげられている」という噂を聞いたので、午前六時ごろ家を出て四人くらいで見に行った。長英駅から北北西七〇〇メートルほどにある金蓮橋には、午前八時ごろ着いた。同行者は途中からふえて一〇人ほどになっていた。
金蓮橋は、金蓮寺にゆく道にかかる大きな橋だが、問題の「鰹足の堆積」はその近くの「小金蓮橋」のほうにあった。金蓮橋のかかる川(運河)の支流にかかる小さな石橋で、長さ一メートル半、幅六、七十センチ。一枚の石の板である。そして纏足は、その橋の上にではなく、橋のすぐ横の路上に積みあげられていた。橋幅と同じ広さの通いっぱいの直径で、高さ数十センチの円錐状に積まれている。かなり整然とした円錐状で、頂に足が一本立てられていた。靴をつけたままの足からはだしの足まで、また靴の色やシシュウ模様もさまざまだが、血だらけで靴か裸足かわからぬものもあった。切断面の肉はまだ腐らず、寒いので匂いもあまりない。見に行った者たちは恐怖と気色悪さとで、まわりをかこんだまま身をふるわせた。(略)
 市内の老人の話では、両足を切断された女性の多くは出血多量で死んだ。葉銀天さんは以上のような体験を語った。
ーー(引用終わり、全文はこちらダウンロード<開く。」著作権は週刊金曜日にあります。

731部隊を追って 第2回 「朕」の命令の絶対性  週刊金曜日 1994.11.11号

週刊金曜日 1994.11.11号 P46~49より引用。 「朕」の命令の絶対性 西野留美子
「お国のため」「戦争のため」
 戦犯免責と保身
P47敗戦三年後の一九四八年一月二六日、帝銀事件が起きた。伝染病が発生したときだった。帝銀椎名町支店に現われた厚生技官と名乗る男が、消毒するからと銀行員に「予防薬」を飲ませ、一二名が亡くなった事件である。あのとき捜査線上に、731部隊元隊員が浮かんだ。当時警視庁目白署捜査本部の捜査一課係長であった甲斐文助警部は、日誌に捜査状況メモを記録していた。
彼の記録では、四月二七日に七三一部隊長であった石井四郎に会っている。そのとき、石井はこう話したという。
「おれの部下に(犯人が) いるような気がする。一五年、二〇年(たっても)、おれの力で軍の機密は厳格であるので、(部下は)なかなか本当のことは言わぬだろう。いつでもおれのところへ来い」。
また、七月になって行なわれた事情聴取の際にも、石井は「(犯人は)軍関係に間違いなし。自分もそう思う。七三一の各研究所でベスト菌の人体実験の際、生前に三日、四日、五日の症状を見るために殺して解剖した」と語っているというのだ(一九八七年五月二〇日『中国新聞』)。石井は隊員たちに七三部隊の秘密保持を厳命していたというが、にもかかわらず、裏ではこうした言動を行なっていた。(略)
P48石井が引き揚げのときに行なった緘口令を証言する元隊員は少なくない。しかし帝銀事件の捜査が末端の元隊員におよんでいるのは、下級隊員を含めた隊員名簿が「ある程度」わたされ作成されていたのではないだろうか。一九四七年三月一七日GHQ法務部は、「ハルビン試験所関係者名簿提出」を要求していた。この要求は、「ハルビン試験所に所属した将校、下士官、民間人を含む全ての日本人人員の完全なリストを英語で提出するように」という内容だったという(笹本征男・若松征男「細菌戦の戦後処理に日本政府がかかわっていた」『エコノミスト』一九九四年八月二三日号)。
笹本・若松両氏の調査では、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)資料の中に「関東軍防疫給水部将校リスト」が発見され、そこに一〇〇人の将校が記載されているという。
しかしGHQは、民間人(軍人以外の軍属らを指すのだろうが)のリストも要求しているわけで、「将校リスト」以外の名簿も作成されていたのかもしれない。(略)
 特殊社会の異常心理
 七三一部隊の姉妹部隊である北支那派遣軍甲一八五五部隊第二分連隊にI氏が配属になったのは、一九四三年のことだった。配属前の四カ月間、衛生兵教育を受けることになっていたが、八月になって突如、北京市街を中心にコレラが発生したため、その「防疫」に駆り出され、配属されるまで四カ月の教育期間が六カ月に延長された。このときのコレラ流行は、長田友吉の自筆供述書によれば「一八五五部隊西村部隊が実験のためにコレラ菌を散布したものである。(略)
P49彼が配属された第二分連隊は静生生物調査所の建物を占拠したものであった。半地下、三階建て(三階部分は予備飼育室周の倉庫二棟がある屋上)の二階部分が、ノミの大量繁殖室になっていた。すでにいた兵隊と合わせて、一七名でノミの飼育にあたったのである(最終的には五〇人ほどになった)。
 ふんどしひとつになり、飼育室で一日を過ごした。石油缶の飼育箱の底には血粉を敷いた。乾燥して固くなった豚の血を屠殺場からもらってきて粉砕し、それを粉にしたものである。さらにふすまとエビオズの粉、豆溝の粉を入れ、カゴに入れたネズミを置き、ノミを放した。ノミは身動きできないネズミにたがって血を吸い、二八日周期で繁殖を繰り返していった。
 敗戦までノミの飼育を続けたI氏は、二度、そこに幌のかかった特別車で「人間」が運ばれてきたことを記憶している。(略)
 、それまでノミの飼育室として使っていた部屋は片付けられ、鉄格子のはまった黒く塗られた窓ガラスの部屋に、トラックから下ろされたわけです。監獄になった一角には行ってはいけないと言われていたのですが、私はどうしても気になって、こっそり行ってドアの覗き窓から中を見たのです。
 私は全身が固くなりました。部屋の床にはアンベラが敷いてあり、饅頭が二つのっている小さいテーブルがひとつ置いてありました。そこに、私と同じぐらいの年(二〇代前半)の中国人の男が座っていたのです。のぞいた途端、男はギョロッとした目で、黙ったまま私を見たのです。どのくらいの時間だったか……。一瞬のことだったのかもしれませんが、その光景は私の目に焼きつきました。戦後になって、私は何度も自分がその立場になった夢を見てうなされました」。
 非戦闘員を含めた人々を「実験材料」として細菌兵器研究を行ない、あるいは関連していたのは、平房の七三一部隊だけではない。その組織図は東京にあった陸軍軍医学校を頂点にして、各地に点在していた。関東軍防疫給水部(七三一部隊)をはじめとして、北支派遣軍の一八五五部隊(北京)、中支派遣軍の一六四四部隊(南京)、南支派遣軍の八六〇四部隊(広東)、南方軍の九四二〇部隊(シンガポール)、さらに関東軍下には、ハイラル(五四三部隊)、林口(一六二部隊)、牡丹江(六四三部隊)、孫呉(二六四五部隊・六七三部隊)、新京の関東軍軍馬防疫厳(一〇〇部隊)、さらに大連衛生研究所も密接に関わっていた。(略)
ーー引用終わり。全文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります。

南京大虐殺 杭州湾から南京へ1 本多勝一週刊金曜日49号

杭州湾から南京へ1 本多勝一 週刊金曜日1994.11.4号P24~27より引用。
 いまから五七年前の今月五日未明、日本陸軍「第一〇軍」は、中国・杭州湾の一角・金山衛周辺に敵前上陸した。
以後、上海から西進した「上海派遣軍」とともに首都・南京占領まで一カ月余。
その全行程が「虐殺」で連結していた。
当時と時期を同じくする今週号から、南京占領にいたる行程を現地にたどって報告する。(略)
 南潯鎮の放火と虐殺
P25(略)運河と公路から侵入した日本兵は、一緒になると放火・殺人にとりかがった。(略)
 上海から避難してきた周世業という人がいた。この町の出身でこのあと一二月末までかかって死者数を調べ、報告書を書いた。それによると死体の数は約四〇〇人で、そのうち荘開伯という名の小学校の先生とその息子が殺された現場を燭は見ている。また張和孚という古参労働者(一九八二年に死亡)の認ぺでは、このうち逃げおくれた中国兵が約一〇〇人、市街地の住民が約八〇人、さらに農民も二〇〇人ほど殺された。これら農民は、日本兵に農村部から連行されてきた者と、疎開した町民の親類で荷をはこびだしに来た者たちであった。目撃者によれば、市内の道路はいたるところに死体がちらばっていたが、とくに西木巷から西柵にかけてと、中心部の唐家兜や栲栳湾に多かった。そのなかで集団虐殺の場となったのは百間楼で、技師・崔学興の家族が目撃したところだと三〇人ほど射殺された。
 範希仁さんはこのような内容を語った。
P26集団刺殺と強姦殺人
(略)虐殺はその直後に二人の眼前でおこなわれた。残った九人のうち、ひとりは逃げようとして射殺された。あと八人は銃剣でつぎつぎと刺し殺された。この光景をまのあたりにした伯父・沈金宝は、精神異常をきたして半年後に首つり自殺することになる。
 そのほか、義兄から次のような犠牲者たちの消息をきいた。
▽「阿銀」(男)は水路用の溝で死体になっていた。
▽「珍宝」(男)は厠にすわった姿勢で首を切りおとされていた。
▽「戴愛珍」(女、二〇歳代)は強姦ざれたあと刺し殺された。みつかったとき下半身はだかで七カ所に刺し傷があった。
▽「阿鳳」(女、二〇歳代)も強姦されたが死ななかった。
▽「巧雲」(同)も同様。
▽「戴財生」(男、二〇歳代の農民)は舟を漕いでいて撃たれ、一週間後に死亡。
 沈宝文さんは以上のように語った。
 日本兵が泊まった村
夜があけると、日本軍は村を出ていった。三人がもどってみると、
村の一〇〇問くらいのうち五〇間ほどはタキモノなどにして焼かれていたが、朱さんの家は無事だった。無事な家は炊さんなど宿泊の痕跡がそのままにされていた。村人のなかで、沈麻子という五五歳の男性がひとり、自分の家にいて日本軍につかまっていた。この家でも日本兵は泊ったのだが、家の中の様子や沈麻子の死体の様子から推察すると、日本兵は彼に炊事を手つだわせたらしい。しかし村を出る前に、大鍋の湯のなかへ彼の両手をしぼって放りこみ、かまゆでにして殺したのであった。
 あくる一九日の夜、朱さんの従兄(父の兄の息子)・米案祷(当時四八歳)は、避難さきの烏鎮から舟で村へ帰る途中、祜村で日本軍につかまった。三人乗っていたが、連行されようとしたとき一人は川にとびこんで逃げ、従兄ら二人は日本兵が岸に上らせてから射殺した。この様子は逃げた一人から聞いた。従兄の死体は、現場にあった肥だめから見つかった。
 朱従亮さんは以上のように語った。
 「若い娘」さがし 
三日後の二一日。北隣りの東遷村に駐屯していた日本兵が数人あらわれた。しかし彼らの目的はニワトリではなく、「花姑娘」(若い娘)であった。日本兵は陳家冬をつがまえると、女性さがしの案内をさせて家々をまわった。どこにも見つからなかった。日本兵らは腹いせに、陳を運河の岸辺で殺した。一部始終は残っていた老人が見ていた。
 村人だちがもどったとき、陳家冬はひざまずかされた格好で死んでいた。村の家々が焼かれなかったのは陳のおかげだと、村人たちは感謝した。日本兵らが陳をつれて一軒一軒さがしあるいたということは、もしそうしなければかれらは放火して女性を追いだした可能性が高いからである。陳はこの村の出身者ではなかったが、村人たちは手あつい葬式でむくいた。
 張天池さんはこのように語った。(つづく)
ーー以上引用終わり、全文はこちら、ダウンロード<開く(著作権は週刊金曜日にあります)

七三一部隊を追って 五〇年目の平房 第一回 週刊金曜日1994.11.4号

週刊金曜日1994.11.4号 P20~23より引用。
 七三一部隊を追って 第一回 五〇年目の平房  西野留美子
関東軍防疫給水部、通称七三一部隊。民間人も含めた人々を「実験材料」に、防疫・医療の名目で生体実験や細菌兵藍の研究・開発などを行なった、戦争史上もっとも残虐な集団だ。731部隊とはいったい何だったのか。四週にわたり、その残映を追う。
 身ひとつで「満州」に
 五五年間の一九三九年。石井部隊は第二次ノモンハン事件に、碇常重軍医少佐ら二〇数名の「決死隊」を編成し、ハルハ河にコレラ、チフス、赤痢、馬鼻疽(馬などがかかる死亡率の高い伝染病で、他の家畜や人間にも感染する)などの細菌を投入する細菌攻撃を実施した。このときが、実戦における細菌兵器使用の最初であったといわれる。(略)
 七三一部隊の中には、ロの字の形で作られた本館の中に、七棟、八棟と呼ばれた特設監獄が作られていた。そこに中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人、その他の外国人が、「実験材料」として監禁されていたのである。彼らは「マルタ」と呼ばれていた。(略)
 生きているうちに謝りたい
 中馬城の証言者
(略)一九三三年、五常県の拉濱線背陰河に、関東軍防疫給水部の前身である細菌研究所が作られた。石井四郎率いるこの部隊の秘匿名は「東郷部隊」。近村の人々は、今も東郷部隊の本拠を「中馬城」と呼ぶ。城といわれるだけあって、建物のぐるりには堀が掘られ、さらに土壁と高圧電流が通った鉄条網が張り巡らされた。煉瓦造り平屋の建物群の建設にあたった中国人の労工は皆虐殺されたと、近郊の村(程家崗)に住む呉沢民さんは語った。(略)
 中馬城が完成してから周囲二五万平方メートルは立ち入り禁止になり、村人たちは近寄ることもできなかった。「城」には、大きな煙突がニョッキリ整えていた。「あの頃、そこに入れられた人は血を採られるらしいという噂があり、怖がって誰も近寄ろうとしませんでしたよ」。(略)
 一九三四年のある夜のことだった。呉さんは、その日の様子をこう語った。「その夜、家の外でガチャガチャ音がしました。その項、このあたりには土匪が多かったので、私たしは手製の鉄砲を構え様子をうかがいました。すると外から、自分たちは抗日地下工作員だが、日本軍に捕らえられ中馬城に連れてこられた。暴動を起こして脱獄してきたので助けてくれ』という声がするのです。
 出てみると、鉄の鎖の足かせをはめられたままの中国人の男たちがいました。兄の呉化民は農具のまさかりを取り出し、その人たちを家の裏に連れていき、石の上で足かせの両足首のリベットを叩き壊してやりました。
 はじめのうちは数人だと思っていたところ、同じような人が次々にくるではありませんか。もしも日本兵が探しにやってきてこんなところを見つかったら、自分たちばかりでなく家族まで殺されてしまいます。そこで一〇人ほどの両足をはずしてからは気が急いて、あとの七、八人は少し離れた場所に連れていって片足だけをはずしてやりました。いつ追手がやってくるかわかりません。そこで東の方は山賊が多いから、日本兵はいないだろう。そっちへ早く逃げろ』と言って、逃がしてやったのです。(略)
 古井戸に眠る足かせ
(つづく) 
ーー引用終わり、全文はこちら、ダウンロード押す<開く。著作権は週刊金曜日にあります。

731部隊 週刊金曜日38号

週刊金曜日第38号1994.8.12 P19より写真と以下引用。
731部隊 西野留美子
日本の歴史教科書に、七三一部隊の史実は記録されない。家永教科書裁判では、その記述の全面削除をめぐって争われた。しかしその過去を記録するには「信用に耐え得る専門的学術研究がなく」、教科書に取り上げるのは「時期尚早」という見解が最後まで効力を有し、七三一部隊は歴史教科書に幻となった。
 戦後、研究資料と引き替えに、部隊長石井四郎北野政次をはじめ、七三一部隊高官の戦犯は免責され、東京裁判で七三一部隊の戦争犯罪は一切明らかにされなかった。細菌研究データは、その後、アメリカの細菌研究の礎になったといわれる。戦犯免責、戦争犯罪の不問、資料「没収」。こうして秘密部隊七三一の歴史は、戦後も秘匿・隠蔽の歴史を刻み続けた。
 確かに戦後、七三一部隊関連資料はアメリカに渡ったが、実は一九五〇年代後半に日本に返還されていることが、判明しているのだ(一九八六年九月一日、米下院復員軍人委補償問題小委学会公聴会・ハッチヤー国防総省記録管理部長談)。にもかかわらず、戦史室に保管されているだろうその資料は、いまだに全面公開されない。七三一部隊の史実を明らかにする責任、明らかにしてこなかった責任は、専門的学術研究の不備にあるのではなく、資料を公開しない日本政府にこそあるのではないか。(略)
 満州第七三一部隊をはじめとして生物兵器の研究・開発に携わった部隊は、牡丹江、孫呉、林口、ハイラルの支部、長春の第一〇〇部隊(関東軍軍馬防疫廠)、さらに北京の第一八五五部隊、南京の第一六四四部隊、広東第八六〇部隊、シンガポールの第九四二〇部隊と、そのネットワークは各地に張りめぐらされた。反満抗日運動家や捕虜などに生体実験を施し進められた生物兵器研究は七三一部隊のみで行なわれていたわけではないのだ。
 一九八九年に東京・新宿区戸山から発見された身元不詳の人骨は、それらのネットワークを統括していた軍医学校跡地から発掘されたものである。しかし厚生省はその関連を徹底究明することなく、人骨の焼却処分を急ごうとしている。焼却差し止め請求裁判において、国側は人骨と「七三一部隊」との関わりを認めようとはしていない。
 昨年七月以来、全国各地で七三一部隊展が開催されているが、そうした市民運動の中で、中国黒龍江省平房に一部が現存している七三一部隊本部跡の保存罪証陳列館新館建設のための基金活動が、日本の市民団体の間で動き始めた。戦後五〇年近い歳月を経てしまった現在、日本の戦後責任を闘う中で起こった民衆意識の表出である。(略)
ーー(引用終わり)
今年戦後70年を記念して侵略戦争責任を忘れないために731部隊展ほか旧日本軍の戦争犯罪展の開催を希望したい。森村誠一氏の著作を読みたくなった。

戦後補償は終わっていない、週刊金曜日第38号

目で見る各国からの補償要求。週刊金曜日第38号1994.8.12より引用。
img228.jpg
P14
1.従軍慰安婦謝罪補償要求(韓国・北朝鮮・フィリピン・中国・台湾・インドネシア・マレーシア・オランダなど)
2. サハリン残留韓国・朝鮮人補償要求
3.韓国・朝鮮人BC級戦犯謝罪補償要求
4.在韓被爆者補償要求
5.在日韓国・朝鮮人元日本軍傷痍軍人・軍属援護法適用要求
6. 軍人軍属・強制徴用者生死確認・未払い賃金要求
7.インドネシア兵補未払い賃金要求
8.ベラウ戦争犠牲者補償要求
9.軍事郵便貯金支払い要求(台湾・韓国など)
10.住民虐殺補償要求(中国・シンガポール・ミクロネシア・マーシャル諸島など)
11.ロームシャ動員未払い賃金要求(インドネシア)
12.香港軍票換金要求13.日本と朝鮮民主主義人民共和国の補償交渉
14.戦争捕虜虐待補償要求(オランダ・イギリスなど)
15.中国人強制連行謝罪・補償要求
16.強制退去(アッツ島など)
ーー(引用終わり)
なにひとつ解決していない問題ばかり。中東へ自衛隊出す前にすべきことがあるのではないですか安倍さん。80代の天皇皇后ばかり慰霊に歩くのではなく、A級戦犯の孫だからこそ解決に尽力し、歴史に名を残してはどうでしょうか。

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