本多勝一 週刊金曜日 応援、侵略を考えるサイト

本多さんの新しい日刊紙の創刊を応援、侵略を考える。 平和憲法が危ない、改憲を阻止、警戒しよう。 あなたは戦争に行きたいですか。This site supports Honda Katuichi .

週刊金曜日とDAYSJAPANを応援するサイトです。九条を中心に日本国憲法を「改正」しよう
とするあらゆる団体に警鐘を鳴らし,日本国憲法を守るという1点で手をつないでいきましょう。
daysDAYS JAPAN 世界を視るフォトジャ-ナリズム雑誌
週刊金曜日tail週刊金曜日の紹介(既刊目次、久野収さん創刊の辞など) 週刊金曜日バックナンバー常備店
本多勝一さんの日刊新聞構想XY新聞
「タブー無き第四権力、新しい日刊新聞のために(日刊紙の詳細)、(前文
本多勝一XY新聞創刊実現掲示板 編集委員が語る週刊金曜日
2011.9.10週刊金曜日創刊18周年記念講演会(福島原発事故,本多勝一講演あり)
週刊金曜日創刊から現在までの歴史(2008.11.22大集会の冒頭映像)
本多勝一 動画(週刊金曜日創刊15周年大集会のあいさつ2008.11.22)
筑紫哲也の追悼ビデオ(2011.11.22大集会) 週刊金曜日講演会本多勝一「天才と秀才」(1994年頃)
貧困なる精神 自衛隊、旧日本軍の侵略行為(日中戦争、戦犯他)
南京大虐殺 従軍慰安婦 アメリカの侵略(ベトナム戦争など) 新聞研究地方紙、朝日など)その他、分類別は左欄のカテゴリを参照。 

本多勝一さんの提唱するXY新聞に共感しています。 応援いただける方は 本多勝一XY新聞創刊実現掲示板へ書き込みお願いします。
できることから動いていこうと思います。

テレビから姿消す慰安婦問題 2017.7.30東京

2001年放送NHK「戦争をどう裁くか」番組改編で失われたもの
「性暴力は戦争犯罪 提起できたはず」
圧力、忖度の常態化懸念
「いまや政治問題で語られるのみ」 悔やむ加害兵士の証言削除
ーー引用終わり、著作権は東京新聞にあります。

NHKもあのへんなおっちゃんから会長変わったが、安倍への応援放送局のスタンスは変わってないのだろうか?
スポンサーサイト

名の乗り出たインドネシアの元「従軍慰安婦」 川田文子

19951110syukin,indoneshia週刊金曜日1995年11月10日号より引用。
文・川田文子 写真・伊藤孝司
P23九月二九日から一〇月四日にかけて、戦後補償実現市民基金が、インドネシアの元「慰安婦」の聞き取り調査を行なった。インドネシアでは現在、六五〇八人もの女性が「慰安婦」だったと名乗り出ている。今回の調査を担当した市民基金の共同代表の川田氏と、同行した伊藤氏に報告してもらった。
 インドネシアの状況
 (前略)私たち戦後補償実現市民基金の調査チームは、ジャカルタに本部を置くLBE(法律扶助協会)の弁護士リ夕・セレナさんを訪ねた。LBHは、無料で法律相談に応じている人権擁護団体である。リタさんによれば、LBHは日本の弁護士が引き受ければ「慰安婦」裁判提訴の意向をもっている。だが、調査が不十分、裁判費用の捻出、韓国やフィリピンと異なり、賠償問題は決着済みとするインドネシア政府の援助を得ることの困難などが障壁となって、提訴には至っていない。また、今年八月二日、LBHジョクジャカルタ支部(以下、都市名ジョクジャ、およびジョクジャカルタ支部と略)は日本政府に対し、書面で謝罪と補償を求めだが、何の回答も返ってきてはいないという。
p24 LBHには現在、約四二〇人の「慰安婦」調書がある。そのうち三七一人がジョクジャ支部に名乗り出た。私たちがジヨクジャに向かったのはいうまでもない。約束の時間にジヨクジャ支部を訪ねると、すでにスハルティさん(七〇歳)、ラシエムさん(七一歳)、キンナムさん(六四歳)が集まってくれていた。少し遅れてラビエムさん (七〇歳)、サイナムさん(七〇歳)、そして前日、証言を開いたマルティエムさん(六六歳)も加わった。
ジョクジャ支部の弁護士プディ・ハルトノさんと、ディレクターのアリ・スセ夕さんによれば、九三年四月二〇日のムルデカ新聞(インドネシアの全国紙)に「日本の軍政下の被害者はその被害について明らかにする必要がある」といった主旨の社会大臣のコメントが掲載されたとたん、「ロームシャ」や、「ジユウグンイアンプ」にされていた人々が各地からLBHに押し寄せた(インドネシアでは、ヘイホ、ロームシャ、ジュウグンイアンフは訳語にされず、現在でも日本語のまま使われている)。同年八月で作業は打ち切られたが、一万七千数百人が登録した。その中に「イアンフ」も含まれていたのである。特にジョクジャ支部に殺到したのは、各地にあるLBH支部の中でも活動が活発で、それが新聞などにも紹介されることが多かっだからだ。
 初潮もまだだった
最初に名乗り出たのがマルティエムさんである。マルティエムさんは四二年の五月か六月頃、「ソウゲンジ」という日本人にカリマンタンのバンジェルマシンの慰安所に連れて行かれた。インドネシアで日本軍政が開始されるのは四二年三月であるが、その直後にもう慰安所が開設されたわけである。他の五人も同じ慰安所にいた仲間である。その慰安所には日本軍が去る四五年まで、三回にわたって女性が投入された。マルティエムさんとサイナムさん、ラビエムさんはその第一陣であった。
 ソウゲンジは歯医者で、オランダが支配していた頃からインドネシアで家族とともに暮らしていた。戦争が始まると家族を日本に帰し、日本軍上陸後は軍の諜報活動に協力した。そして、慰安婦徴集を開始する数カ月前に、バンジェルマシンの市長になった人物である。
むろんソウゲンジは、徴集に際してその目的を明かしてはいない。彼はジョクジャに来たとき、役者を随伴していた。そして、言ったものである。「劇場、レストラン、メイドなど、カリマンタンに行けば好きな仕事が選択できる」と。そして、ひとりひとり希望の職種を闘いたりしている。
 ジョクジャで集められた女性はソウケンジに連れられスラバヤまで汽車で行き、数日、ホテルで船待ちをして、徴用船でカリマンタンのバンジェルマシンに渡った。バンジェルマシンは大きな町だった。町のはずれには、すでに高い塀で囲った慰安所用の建物が建てられていた。中央に大きな部屋、その部屋を囲むように小部屋が並んだ建物である。その慰安所に入れられたのは二十数人、開設前に軍医による厳重な身体検査が行なわれ、特に性病の有無を調べる検査は性経験のない少女たちに深い衝撃を与えた。
ひとりひとりに部屋が与えられ、源氏名がつけられた。利用者は部屋の番号と源氏名で相手を指定したのである。マルティエムさんはモモ工、部屋は11番だった。ミキ、タキコ、サクラ、ハル工、ナミコ、それぞれが当時の源氏名を記憶している。昼間は兵隊、夜は役人、電話局員、新聞記者など、利用できるのは日本人に限られていた。日本軍に組み入れられ、兵隊とほぼ同じ働きをしていたインドネシア人兵補は利用できない。利用者が軍人軍属に限られた他の地域の慰安所とは、民間人が利用できる点で異なっている。しかし、民間人といっても軍政に貢献した、いわば特権階級である。料金は兵隊が二円五〇銭、民間人が三円五〇銭、泊まりは民間人のみ可能で一二円五〇銭だった。衛生サック(コンドーム)使用の義務づけ、外出の制限(一週間に一度のみ、単独では許可されない)、軍の機密漏洩防止のための住民からの隔離など、慰安所利用規定に基づく運営であったことがうかがえる。
 当時マルディエムさんは一三歳、まだ初潮も経験していなかった。
 心に残された痛み
「悲しい記憶がふたつある」マルディエムさんは言った。最初に六人の軍人に犯された時の出血と耐えがたい痛み、そして、翌年、慰安所を管理していた「チカタ」に妊娠していることを指摘され、病院に連れていかれて、麻酔なしで中絶した、その時の激痛。妊娠五カ月であった。掻爬された子はまだ生きていた。男の子だった。人形のように小さなその子をマリティヤマと名づけた。たとえこの世に生を受けられない子であっても、そうすることがインドネシアの習慣だったからだ。
 第二陣はチカタが徴集した。彼女らには個別に与える部屋がなかったため、第一陣の「慰安婦」と共用で使った。第二陣がきて以降、先にきていた女性たちはいくぶん身体が楽になったという。たとえば、こんな文書がある。…「ボルネオ」行キ慰安土人五〇名・…・派遣方南方総軍ヨリ要求セル…‥
 これは四二年三月一二日、台湾軍司令官が(陸軍)大臣宛に発した電報、第六〇二号であるが、この「慰安土人五〇名」のおかれた状況は六月三日、台湾軍参謀長が副官宛に発した電報、第九三五号に垣間みえる。
…「ボルネオ」ニ派遣セル特種慰安婦五十名二関スル現地着後ノ実況人員不足シ稼業二耐ヘサル者等ラ生ズル為尚二十名増加ノ要アリトシ…:(防衛庁防衛研究所所蔵「従軍慰安婦資料集」吉見義明編集・解説所収)。(略)
 チカダからは、報酬は誰にもいっさい支払われなかった。毎月家に送金する約束で来たラシエムさんがそのことを問うと、軍事貯金をしているから戦争が終わったら渡すといわれた。しかし、その時点でも金を受け取った者はいない。
 人生でいちばん辛かったこと
(略)ソウケンジが、カリマンタンに行けばよい仕事があると村の若い女性を集めに来たとき、ラシエムさんはすでに結婚していた。二歳と生後八カ月の子がいたが、夫が失業していたためカリマンタン行きに加わったのである。戦争が終わり、慰安所から解放されたものの、遠く離れた家族のもとに帰る手段も、また、数限りない日本兵から汚辱を受け、帰る勇気もなかった。かといってどのように暮らしていけばよいのか、途方に暮れているとき、慰安所にいたことを承知で求婚した元兵補がいた。すがるような思いで再婚した。結婚生活が慰安婦であった過去を打ち消してくれるかもしれない、と思ったからだ。その男性がスマルモさんの父親である。
 同行した写真家の伊藤孝司さんの、「人生の中で最も辛かったことは何ですか」の問いに、ラシエムさんは、それまで私たちににこやかに遇していた表情をみるみる歪めた。それはいうまでもなく、忘れようとしでも、けっして忘れさることのできなかった日本兵に蹂躙された日々である。
「母は強い人間です」スマルモさんが言った。ラシエムさんはマルティエムさんに誘われてLBHジヨクジヤ支部に名乗り出るまで、慰安所時代のことは誰にも明かさなかった。悲しみを吐露することでいくぶんなりとも辛苦を和らげたい衝動に駆られることもあっだろうに、母は固く口を閉ざしてきた。スマルモさんは事実を明かされて、記憶の辛苦に耐えてきた母の強さを改めて見た思いがしたという。
 ジョクジャを発つ日、マルティエムさんの案内でバントウに住むスカルリンさんを訪ねた。白内障の類であろうか、スカルリンさんは昨年失明した。慰安所で身体を酷使し子どもができなかったため、養女夫婦と暮らしている。養女夫婦は役所前で屋台を出しているが、貧しい。治療すれば失明は免れたのに、費用がなかった。
「イトコ」
空をつかむように手をさしのべて、日本人である私たちに通じることばをくりかえし発した。それは、彼女の慰安所での源氏名だった。美しかったので、日本兵が彼女のもとにたくさんきたという。それだけ身体がきつかったということだ。白く濁った小さな瞳が、虚ろにさまよっていた。これまで同じ慰安所にいた多数の証言で互いの証言を確認しあっている例は数少ない。戦後、バンジェルマシンの慰安所からジョクジャ近辺に帰ってきた二人が連絡をとりあっていたが、三人はすでに故人になった。市長や村長など公権力が慰安婦徴集を行なったという、マルディエムさんら複数の証言は貴重である。また、ジョクジャ支部に寄せられた証言の中には軍人が直接、村長の娘を連行し将校専用の「慰安婦」にした例もあった。その日本軍将校と村長の娘の間に生まれた子が実在している。
(写真)ドリス・スマンボウさん(左)と息子のエティーさん。スマンボウさんは日本人将校「カナガワ」に連行されて4力月後に妊娠した。日本敗戦直前の七月一七日に生まれたエディーさんは、子供の頃は「日本人の子」として軽蔑されたという。
P27
 増え続ける「慰安婦」
兵補協会会長のタシップ・ラハルジョさんは私たちの目の前に、元「慰安婦」本人の写真付きの登録カードを積み上げた。A4の大きさの用紙に氏名、生年月日、出身地、現住所、慰安所での源氏名、四二年から四五年の問にいた場所、慰安婦だった仲間二人の氏名、記憶している日本人の名前、インドネシアの知人名などを書き込む欄がある。一締めが一〇センチ以上の厚みのある、それらの登録カードの束に私は日を見張ったものだ。
 兵補協会の会員は約七万六〇〇〇人、うち元兵補が四万人、その遺族が三万六〇〇〇人である。一二九支部ある組織網を動員して、今年八月から登録を呼びかけた。そのうち西ジャワとジャカルタ支部から、あわせて約八〇〇人分の登録カードが届いたというのである。現在、それぞれの国の支援団体や政府に把握されている慰安所制度の被害者は韓国が約一六〇人、北朝鮮が三二人、在日が一人、フィリピンが約一六〇人、台湾が約六〇人である。マレーシア、インドネシアでも被害者が名乗り出ていることは伝えられていたが、その数は明らかにされていなかった。ざっと計算しても、これまで把握されている数を上回っていたのである。
 そして再度、一〇月三日に訪ねた時は中部ジャワ、スラバヤ、スラウエシ支部などが加わり、登録カードの数は二〇〇〇人分に達していた。さらに帰国後、問い合わせると、一〇月末には六五〇八人になっていた(将校専用の慰安婦も含む)。
 タシップさんによれば軍政下のインドネシアの慰安婦の徴集は、軍の要請を受けた郡長・市長・村長などの指示で婦人会など、自治会組織を通じて行なわれたことが大きな特色である。将校など、個人専用の慰安婦にされた場合には、子どもを産んでいる例も少なくなかった。
兵補協会は日本政府に対し、兵補一人二五〇万円の補償を要求する。元「慰安婦」の登録はその前段の作業である。おだやかに解決していきたいが、自分たちの要求が見過ごされるようなことがあれば、「時間の爆弾が爆発するだろう」といった、そのことばが深く印象に残った。
 ねじれた基金
 すでに報じられているように、政府は「慰安婦」問題を「女性のためのアジア平和国民基金」(以下、国民基金) で決着しようとしている。今年度予算で四億九〇〇〇万円が計上されだが、国庫からの拠出金は広告費と事務費にあて、被害者の手には一円たりとも渡さない。被害者の福祉と医療については援助するが、国の責任に基づく補償はいっさい行なわない。国が呼びかけ人を選び、民間の有識者が呼びかけたかのような体裁で国民から募金を集めて被害者に一時金を渡そうという、きわめてねじれた官製の民間基金である。
P28
 しかも一時金といいながら一回限りの見舞金である。八月一五日、国民基金は全国の新聞二一紙に、村山首相のあいさつ文を添えた全面広告を出し、募金を開始した。その広告費に一億二〇〇〇万円が使われた。集まった額は一〇月二七日現在で約六一四〇万円にすぎない。三七年末の南京占領の際、日本兵は頻々と中国女性に対する強姦をくりかえした。欧米ではそれは〞南京大強姦事件〞 として報道され、国際社会のひんしゅくを買った。以来、日本軍は慰安所制度をつくりあげ、植民地および、侵略地の女性を犠牲にしたのである。中国、香港、ベトナム、ビルマ、マレーシア、シンガポール、ニューギニア、マリアナ諸島、パラオ諸島など、まだ被害の実態はほとんど明らかにされていない。また、「慰安婦」にされた女性の総数は八万とも二〇万人ともいわれているが、そのうち何人が戦時、死亡し、何人が生き残ったのか、まったく不明のままである。現在、名乗り出ている被害者はごく一部である。いまだ、固く沈黙を守っている被害者がその背後に多数いる。戦時において凄まじい性の蹂躙を受け、戦後もなお、庇められた人権の回復がはかられなかった。それほとりもなおさず、問題解決が放置されて導た結果である。「国民基金」を推進してきた政府、およびその賛同者は申告者を一〇〇〇人、多くとも二〇〇〇人程度にすぎないと予想したらしいが、「国民基金」では被害者が求める問題解決にはならないことを自ら認めているようなものである。ある被害者は「この五〇年間、いつ、慰安所にいたことが周囲の人に知られはしまいかと怯えつづけてきた」と語った。また、別の被害者は「慰安婦」であったことを知られることを恐れて、職場を転々と変えて生活してきた。日本軍慰安所制度の被害者であるにもかかわらず、あたかも、当人に非があったかのような視線を感じ、痛い恥辱を解き放つことができずに長い年月をすごしてきた。国の責任を曖昧にしたままの「国民基金」では、被害者をとりまくそうした状況は変わらない。「国の尊厳」(『毎日新聞論説)や「国と国民の品格」(『毎日新聞』「私見/直言」)ばかりを気にしている国民基金推進派には、植民地および占領地の女性が受けた慰安所制度の被害の大きさも、個々の被害の深さも、見えていないに違いない。
 兵補協会が登録した六五〇八人、そして今後も増えることが予想される被害者の数は、国民基金支給を前提に集められた。その際、日本人にとってさえわかりにくい国民基金のネジレが、正確に被害者に伝わったかどうかは疑問である。村山首相のあいさつ文つきの募金広告を見れば、被害者に渡される見舞い金に国庫からの拠出金が一円も含まれないなどとは、想像もできないだろう。国民基金は当初、目標額二〇億円を集め、年内にも支給するといわれていたが、現段階では目標額に遠くおよはない。しかも、支給対象者の数はまったく未知数といってよい。調査の不徹底、国民基金で決着できると考えた不誠実な取り組みが、破綻をきたしている結果である。「慰安婦」問題の根源的な解決、戦後補償のあり方がいま問われている。

かわだ ふみこ・出版社勤務を経て、ノンフィクション作家に。著書に「赤瓦の家」 (ちくま
文麿)、『皇軍慰安所の女たち」 (筑摩書房)、「戦争と性」(明石書店)など。
いとう たかし二九五二年長野県生まれ。フォトジャーナリスト。著書に『破られた沈黙』(風媒社)、「棄てられた皇軍」(影書房)、「日本人花嫁の戦後」(LYU工房)など。
※「戦後補償実現市民基金」の問い合わせ先は、℡03・3262・4971
ーー(引用終わり)
「女性のためのアジア平和国民基金」の結末はどうなったのか。NHK教育のETVで改ざん報道があったのが有名だが。調べると、「正式名称は女性のためのアジア平和国民基金。第2次大戦中の日本政府・軍による、いわゆる従軍慰安婦問題解決のため、1995年7月に設置された。日本政府は個人に対して、首相の「おわびの手紙」と200万円の「償い金」の支給、さらに医療・福祉のため、韓国、台湾、オランダに300万円相当、フィリピンに120万円相当の支出を決めた。インドネシアの場合、同国政府が個人支給を認めなかったので、高齢者福祉施設を建設した。これまでにフィリピン、韓国、台湾の285人に約5億8000万円を支給しており、これにより、アジア女性基金の償い金支給事業は終了、2007年3月に解散した。 」知恵蔵より。
補償人数的にもまだ不足しているし、国家賠償ではない、あくまで民間の募金ベース。主犯(日本政府としては)は謝罪していないところがポイントか。現在の韓国元慰安婦への補償も韓国次期政権が撤回するかもしれず不透明だ。

「従軍慰安婦」問題の根  金富子

 週刊金曜日1995.6.30号P58-P60より引用。
戦争中の「慰安婦」制度は、国と軍が一体になって行なった「国策」だった。自らすすんで「慰安婦」になった女性は一人もいない。まだ誤解が根強く存在する「慰安婦」問題、民間募金について、改めて問いたい。彼女たちの存在を無視したままでいいわけはない、と。

「慰安掃」制度と日本国家の責任
軍慰安所の設置が最初に資料で確認されるのは、一九三二年の上海事変時である。当時、上海派遣軍であった岡村寧次参謀副長が「私は恥かしながら慰安婦案の創設者である」と回想録で告白している(稲葉正夫編。岡村寧次大将資料』)。
 しかし、制度として本格的かつ大規模に始まったのは、周知のように三七年一二月の「南京大虐殺」事件後からである。この事件は中国人軍民への無差別虐殺以外にも、中国人女性にとっては「南京大強姦」と呼ぶほかないほどの多大な性的被害をもたらした。その件数は記録に残るだけでも、占領後の最初の一カ月間で「約二万の強姦事件が市内に発生」(東京裁判の判決文)と記されている。これが中国人や諸外国の対日感情を悪化させると見て取った日本の派遣軍(中支那方面軍)が、「強姦を防ぐ」と称して慰安施設の設置を直接参謀部に指示したことから「慰安婦」刺度は始まったのである。そしてわずか半年の間に、「現在の兵団は、殆どみな慰安婦団を随行」(岡村、前掲書)するほど陸軍組織の間に定着するに至った。アジア・太平洋戦争勃発以降は、陸軍中央自らが設置に乗りだし、日本軍部隊の派遣されるところには、最前線以外のほとんどの場所に慰安所が設置された。つまり、日本軍が侵攻したアジア・太平洋の広大な勢力圏内のほとんどに、女性たちが日本やその植民地の朝鮮・台湾から徴集されたり、あるいは占領地で「現地調達」されて、「慰安婦」にさせられたのである。
 朝鮮からは、ごく初期から少女と呼ぶにふさわしい十代の女性たちが騙され、あるいは暴力的に日本の占領地に連行され、制度として確立された慰安所で「慰安」を強要された。朝鮮人女性にとっての「慰安婦」制度とは、占領地女性への強姦防止という名目でつくられた、植民地女性への強姦制度にほかならない。強姦対象が中国人女性から連行した朝鮮人女性へ、強姦方法が無差別から軍の統制下に変わったにすぎないのである(慰安所の外では相変わらず無差別強姦が行なわれていた)。
 日本軍占領地下の東南アジアでは、暴力的手段での連行→軟禁・拘束→継続的強姦・輪姦といったケースが多く、さらにその本質が赤裸々に現われる。
また、軍は「慰安婦」制度を立案しただけでない。「慰安婦」を集める業者選び、資金や便宜の提供、「慰安婦」の輸送、慰安所施設づくり、慰安所の管理・取繕、慰安婦・業者の管理・監督、性病検査、コンドームの支給にまでまるごと関わった。「慰安所制度の運営の主体は軍であったことはあきらか」(吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書)なのである。また、外務省、内務省、各地の警察署、朝鮮総督府・台湾総督府その他の国家機関も「慰安婦」徴集・慰安所設置に直接・間接に関わった。つまり「慰安婦」制度とは、皇軍の聖戦遂行という国家目的を達するために軍ぐるみ、国家ぐるみて推進された、組織的な強姦制度だったのである。
以上の事実は、九〇年代に入って自発的に名乗りをあげた被害者自らの証言や公開された政府資料によって、ようやく解明された。真相究明が進むなかで、「慰安婦」たちは「性的奴隷」と呼ぶほかない状態におかれたのであり、「慰安婦」制度とは重大な人権侵害にほかならず国家が犯した戦争犯罪・性犯罪であると認識されるようになった。こうした認識があるかないかは、「慰安婦」に対する国家責任に基づく「謝罪と補償」の必要性に結びつくのだが、まだまだ日本国民の問に広く共有されてはいない。
 補償要求裁判と日本政府
 戦後の韓国ではじめて元「慰安婦」として名乗りをあげた金学順さんを含む三人の「慰安婦」が、韓国在住の軍人・軍属とその遺族(遺族会)とともに、補償を求めて日本政府を相手に提訴したのは、九一年一二月六月のことである。それから現在まで、元「慰安婦」を原告とした裁判は五件が進行中である。韓国在住「慰安婦」が二件、フィリピン人一件、在日韓国人一件、オランダ人一件である。また、中国人の元「慰安婦」四人が八月にも提訴すると伝えられている(六月五日付『朝日新聞』)。
 これら五件の裁判は、いずれも日本政府に対して被害者個人に対する「補償」(韓国遺族会、フィリピン、オランダ)ないしは「謝罪と補償」(他二件)の実現を求めている。
 日本政府は、当初国会で「民間業者が連れ歩いた」と発言して(九〇年六月六日)日本軍の関与を事実上否定したが、遺族会裁判の開始や軍の関与を立証する公文書類の発見が明らかになると、九二年一月には一転して関与を認め、訪韓した宮沢首相(当時)は謝罪した。そして同年七月、九三年八月と二度にあたる政府調査と資料公開を行ないー不十分ではあるが、改めて「軍の関与の下で、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」「お詫びと反省の気持ちを申し上げる」と表明した。しかし、補償問題については「サンフランシスコ条約および二国間条約で解決済み」との姿勢をくずさず、個人補償をつっぱねてきた。そして「補償にかわる措置」の検討の結果、昨年八月の村山内閣成立後に出てきたのが政府主導の「民間募金」構想である。
 六月一四日、日本政府はこれを具体化した「女性のためのアジア平和友好基金」事業なるものを正式発表した。内容は元「慰安婦」に対して、①「国民・政府脇力のもと」で「国民的償いを行なうための資金を民間から基金が募金」することを根幹に②医療や福祉などへ資金支援③「率直を反省とおわびの表明」④歴史資料の整備、である。さらに、今日の「女性に対する暴力」などに対応する事業への支援がおまけされている。
 これに対し、被害者及び支援団体は抗議の声をあげた。在日韓国人の元「慰安婦」宋神道さんは、「なんでよその国の女たちを慰安婦にさせといてからに、謝罪も補償もしないのか」「オレは車イスほしさに、意味のないカネほしさに裁判おこしたわけじゃない」と悔しさをこらえきれずに語り、金学順さんも「なぜ、すっきりと国として個人補償を引き受けるといってくれないのか」と疑問の声をあげている。その一方で、民間募金を受け入れると表明している元「慰安婦」たちもいる。日本政府の民間募金案は、政府相手に国家責任での補償を求めて裁判を起こした原告の間に、深刻な動揺と亀裂をもたらしている。(略)しかし「女性のための」「平和友好」という美名の下で、民間から募金を集めて「国民的な償い」をするという、聞こえのよいこの構想には、巧妙な国家責任回遊の罠がしかけられていることを見逃してはならないと思う。
 なせ日本政府の民間募金ではダメなのか? 
 そもそも民間募金は、前に述べたように、日本政府があくまでも「補償は二国間条約で解決済み」「個人補償はしない」という基本方針を死守するための奇策として生まれたという背景を持つ。したがって当然のことながら、民間募金は国家補償ではない。補償したくないから、出てきたのが民間募金なのだ。
 問題なのは民間募金の性格である。つまり、政府の責任のがれという根幹(本質)にかかわる部分だ。責任を問われるべきは、「慰安婦」政策を立案・実行し、まるごと関わった戦争犯罪・性犯罪の主犯たるべき日本軍・日本国家であることは明らかだ。にもかかわらず、政府は当然取るべき国家責任=国費での補償をしないまま、国民(他人)のサイフからお金を出させて国家責任をすりかえている。国が国として犯した犯罪の責任を避け、副次的な手段である民間募金に逃げたというのが、この政策の本質である。国民が善意で募金したとしても、ごまかしにのせられるだけの結果になってしまう。これでは、「慰安婦」制度が国家犯罪であることへの理解は広まらず「被害者の名誉回復・人権回復にもつながらない。政府が被害者に医療ケアや謝罪文らしきものをなしたとしても、責任逃れという根幹を覆い隠す枝葉でしかない。
 政府は「補償金」とはまったく無関係な「民間募金」で、「慰安婦」問題、ひいては戦後補償問題全体の「完全かつ最終的な解決」を目論んでいるのである。
 なぜ個人補償を求めるのか
 日本政府がこうした奇策を弄してまで「アジアの戦争被害者には個人補償をしない」という政策を押し通す背景をさぐると、日韓条約締結時と同じく、過去に対する歴史認識の問題にたどりつく。六五年の日韓基本条約の条文には、植民地支配への謝罪の文句は一言半句もなかった。それが反映されたのが、〝賠償なき”日韓経済協力・請求権協定だった。それから三〇年後の九五年六月にようやく採決された「戦後五〇年決議」にしても、植民地支配や侵略行為の字句は躍っても、主体的な責任明記はない。結局、問われるのは過去に向き合う国の姿勢、そして人権感覚なのである。
 その場合考えるべきは二つある。まず、日清戦争から敗戦までに至る”戦中五〇年”のアジア侵略と植民地支配の歴史を事実に即して確認し、共通した事実認識をもつ作業である。さらに、〝戦後五〇年”間の日本の戦後責任のあり方を考えることである。自国民(軍人中心)に対しては手厚い個人補償をしながら、外国人戦争被害者に対する戦後補償については、当事者抜きに二国間の枠組みだけで決着してしまうという、ゆがんだ戦後責任のあり方(戦後無責任)自体が問われなければならない。アジア民衆の人権は、この一〇〇年間踏みつけられたままである。日本政府の殺し文句は、「補償問題は二国間条約で解決済み」、だから「個人補償はしない」。しかし、この二つはイコールではない。たとえ二国間で解決済みだとしても、被害を与えられた個人の加害国に対する諮求権は消滅しておらず、日本が新たに国内法をつくれば個人補償は可能だからである。二国間で解決済みでも、日本国が自主的に戦後補償立法を行なう妨げにはならない。こうした考え方に基づいて、戦後補償裁判に関わる二三の弁護団で構成する「戦後補償問題を考える弁護士連絡会」等では、すでに「外国人戦後補償法」試案を作成・公表している。
 要は、国としてのやる気の問題である。民間募金に逃げないで、人権の視点から立法化に取り組み主体的に過去を克服してほしい。そして、国民がなすべき「国民的な償い」とは募金ではなく、政府をして「国家的償い」としての個人補償を実現させることにこそあると思う。民間募金が強行されるのなら、被害者だけでなく、加害国日本に住み続ける在日女性として私も、いたたまれない気詩ちだ。
ーー
キム プジャ・在日朝鮮人二世。在日の女権史研究を志す一方、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク、在日の慰安婦裁判を支える会、メンバー。著書に『もっと知りたい慰安婦問題』(明石書店)など。今秋、北京女性会議に参加予定。
(引用終わり)
なぜ募金ではだめで、国家賠償を求めるのかが分かりやすくまとめられており、全文掲載した。昨今の日韓慰安婦合意でも日本政府(安倍政権)が謝罪の言葉を述べた記憶はない。

ドキュメンタリー映画「太陽がほしい」旧日本軍の性暴力問題描く

東京新聞2015.10.5引用。(製作者)班忠義さん
1943年、旧日本軍が駐屯した山西省 子どもの産めない体になった。
慰安婦問題での誤った認識や攻撃を押し返すには、女性たちから託された証言を世に出すしかない」
 95年から中国で被害の聞き取りを始めた班さんは山西、湖北、雲南省などで80人の女性に会った。
ガイサンシーとその姉妹たち
上映会の問い合わせは「人間の手

宮古島に慰安婦悼む像 読谷村に朝鮮人「軍夫」像

東京新聞2015.6.21
沖縄戦の痛み共感 だから寄り添える
アリラン碑(宮古島
沖縄の女性史家らの調べでは、県内の慰安所は延べ百四十カ所以上と推定される。人数は確定できないが、証言や陣中日誌によると、朝鮮半島出身者が多かった。沖縄の女性も慰安婦にさせられた。

読谷村 恨の碑
侵略の加害性隠せぬ 反戦平和の魂残したい
辺野古建設強行 悲しい

従軍慰安婦にされたハルモニの思いー絵筆に託して 週刊金曜日第80号

img257.jpgimg259.jpgimg260.jpgimg261.jpg週刊金曜日1995.6.30号P45~51より引用。かつて従軍慰安婦にされた女性達自身が一昨年から絵筆を執り始めた。
(著作権は週刊金曜日にあります)

従軍慰安婦に返還されない軍事郵便貯金 週刊金曜日26号

週刊金曜日26号1994.5.20 P24~29より引用。
「お金が欲しいわけではない、私の貯金が持つ歴史を考えると、日本に置いておくのが辛いのです」。
第二次大戦中、軍事郵便貯金をしていた韓国人の元従軍慰安婦が六月初め、預金の返還を求めて提訴する。
そこに至るまでの郵政省との交渉の内容から、日本の戦後処理のあり方と、これからのアジアの国々とのつきあい方を問う。 廣崎リュウ
  「慰安婦の貯金まで奪って、日本は金持ちになったのか」
 アジア太平洋戦争の最中に性奴隷とされ、加えて生きるために貯えた貯金も返してもらえない。その返還を巡る交渉の席上、怒りに震えた彼女の口から発せられたこの言葉に、郵政省側も市民側も沈黙せざるを得なかった。敗戦から半世紀、郵政省との二年間の交渉をもとに、彼女の貯金の担う重い歴史を問い、郵政省=日本の杜撰な戦後処理を告発する。
 一九九二年三月から五月にかけて、山口・北九州各地の市民団体が、軍隊慰安婦にをることを強制させられた韓国人、文玉珠(ムン・オクジユ) さんをお招きして当時の話をしていただいた。その際彼女から、「慰安婦をさせられながら兵隊からもらったチップを貯金していた。『お前の貯金の本社は下関にある』と軍人から聞かされた」との証言を得た。調査の結果、彼女がしていた貯金は〞軍事郵便貯金〞であることがわかった。
 貯金にいたる経緯
文王珠さんは、一九二四年四月三日に韓国慶尚北道達城郡で生まれた。四二年七月、「食堂で働けば金が稼げる」とだまされ、「楯八四〇〇部隊」付きの強制軍隊慰安婦として、ビルマのラングーンに連行された。部隊の移動でマングレー、アキャブ(現シトウイ)、ブローム、タイのバンコクなどの最前線を軍用トラックで転々とした。そしてアユタヤの野戦陸軍病院で看護婦をさせられていた時に敗戦を迎え、解放された。
 九〇年、「従軍慰安婦は民間業者が連れ歩いた」という日本政府の発言に、韓国の女性団体が反発。一一月には、真相の究明と問題解決のために韓国挺身隊問題対策協議会(以下、挺対協)が結成され、文王珠さんは慰安婦であったことを挺対協に申告した。また九一年一二月、韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会が提訴した戦後補償第二次訴訟の原告団のひとりでもある。
 文王珠さんは当時軍人からもらったチップを貯金していたという。彼女の記憶によると、「文原吉子」名義の貯金をマングレーかラングーンの野戦郵便局で始めた。途中通帳をなくしたが再発行してもらった。故国の父母にも五〇〇〇円を送金したことがあり、帰国後、父母に聞くと送金されていたという。残高は六〇〇〇円から七〇〇〇円。通帳は四年後再びなくした。「貯金は下関の本社にしている」と軍人に教えられており、下関に寄港するという引き揚げ船に乗ったが、結局、下関には向かわずそのまま韓国に到着。今日まで引き出す機会はなかった。では、その貯金=軍事郵便貯金とはどういうものなのか。
 軍事郵便貯金とは 
 軍人・軍属を利用対象とした軍事郵便貯金制度は、日清戦争中の一八九五年に創設され、日露戦争の勃発した一九〇四年には、「軍事郵便為替貯金規則」が施行、法制化された。その後、第一次世界大戦、日中戦争を経てアジア太平洋戦争における日本の敗戦までの間、占領各地に開設された野戦郵便局で軍人・軍属の給与の預金、支払い業務が行なわれた。(略)しかし「貯金はほとんど上官の命令」であって、総じて強制的であったとの元軍人の証言を得ている。当然の国策として「貯蓄心をがん養させる」というよりは、兵の給与を貯蓄させることにより、国家財政の疲弊を陽止し、潤沢な戦費を確保する意図があったことは否めない。
 野戦郵便局は、「中国の北京、蘇州、広東、香港。旧オランダ領東インド地域ではスマトラ島。北部仏印ではハノイなど約四〇〇ヵ所に開設された」(九二年四月八日参議院予算委員会/松野春樹政府委員答弁)。敗戦時の貯金残高は、約三一五万五〇〇〇口座、約一〇億三八二〇万四〇〇〇円であった。
 約二一億五〇〇〇万円が未払い (略)
 貯金の払い戻しを求めて
(略)文玉珠さんは、「慰安婦の貯金まで奪って、日本は金持ちになったのか」「このお金は、私個人が体を張って貰ったお金なので、これは個人の私有財産だから、韓日関係の条約とは関係がないので返して欲しい」と訴えた。(略)
 三回目の交渉で郵政局側は、「文王珠」または「文原吉子」の原簿は発見できなかったとの回答書を提示したが、調査の方法を巡って追及したところ、ようやく「類似名」の存在を明らかにした。招く会は類似名原簿の公開を要求。郵政局側は当初しぶったが、結局公開に応じた。提示された原簿預払金詞書によると、類似名とは「文原玉珠」で、四三年三月六日から四五年九月二九日までの預金高が二万六一四五円。四六年四月から六五年三月までの利息を合計して五万一〇八円になっていた。
 また、調書には「(昭和)19・8・18忘失届出」の記入があり、彼女の証言と一致した。文玉珠さんは、日本植民地統治時代の除籍謄本(朝鮮総督府による創氏改名令により、「文」姓が抹消され「文原」姓が明記されている。要するに「文原玉珠」に改名されている)を提出し、郵政局、招く会双方が本人の原簿であることを確認した。
 貯金の名義に彼女の記憶違いがあったとはいえ、「文原玉珠」名義の原簿の存在をひた隠し、原簿が発見できなかったとの回答書をわざわざ作成して提示するという姿勢に、この国の問題の深さを痛感させられるのである。
 しかし、彼女の原簿の出現によって「軍人・軍属」と共に、「慰安婦」が軍事郵便貯金制度を利用していたことが明確になり、軍が「慰安婦」を統括していたことが、皮肉にも国側の証拠で裏付けられた意義は大きいのではないだろうか
 日本人へは積極的に払い戻し (略)
 旧植民地出身者への不平等な対応
 (略)払い戻し勧奨状が、日韓両国の最大懸案事項であった請求権についての取り決めで決裂するという、深刻な時期に発送されたことについて、実は次の重大を問題点を指摘せざるを得ない。
 払い戻し勧奨状を発送する際、国内外の旧植民地出身者を発送対象から除外する方法として、「姓名が日本名であるがどうかを基準にした」(郵政省貯金局業務課課長補佐、田口氏回答)という。しかし四〇年に朝鮮総督府が公布した創氏改名制度により、多くの朝鮮人が日本名を強要、改名させられており、姓名を基準にすること自体問題がある。この点を指摘したところ、「払い戻したのが日本人だけとは言えない」(前出田口氏)との回答である。当然そう答えざるを得ないのである。
 個人の貯金の支払いを国の都合で保管したこと自体、重要な問題性があるが、こういった杜撰な払い戻し業務によって、日韓会談の合意以前に、払われた者と、そうでない者を生み出すという、何とも不平等な結果になってしまったのである。(略)
 韓国以外には支払われる
 日本敗戦後、日本政府は旧植民地・旧占領各国と戦後処理条約・協定等を締結した。しかし、相手国、国民の財産、権利及び利益を一方的に消滅させる国内法を立法施行したのは、実は韓国とミクロネシアに対してだけなのである(ミクロネシアについての詳細は省く)。それ以外の条約・協定の締結国に対して、法一四四号(二六ページのコラムに詳述)に準じる国内法は現在存在していない。
 従って韓国国籍者以外(無国籍を含む)からの貯金支払い請求については「支払うことになる」(郵政省田口氏回答)のである。これまで、旧ソ連国籍者(朝鮮人)一件、台湾国籍者二件に支払われた実績がある。
 朝鮮は日本の胴喝的外交によって不当に日本に併合され、植民地とされた。また、強権、暴力的な植民地統治によって、人的・物的な被害は甚大だ。当然、韓国のあらゆる財産、権利及び利益が無条件に是認されるところを、逆に韓国に対してのみ国内法を施行して、権利消滅させたことの道義的責任は免れまい。
 郵政省は貯金原簿を公開せよ
(略)現在まで慰安婦の実態等を裏付ける資料の発掘が各方面で行なわれているが、文玉珠さん以降、挺対協の調査で新たに三名の慰安婦が貯金をしていた事実が判明し、内二名の貯金原簿調査が郵政省内で行なわれている。また、台湾の慰安婦二名(故人)の貯金通帳も確認されている。
 これらの事実からも、軍事郵便貯金原簿は、慰安婦関係の資料としては第一級の証拠資料的価値があるのである。(略)
 今アジアから問われていること
(略)「お金が欲しいわけではない、私の貯金が持つ歴史を考えると、日本に置いておくのが辛いのです」と訴える彼女の貯金が、将来日本の国庫に入り、我々や次世代の「幸福追及権」のために使用されるとすれば、間違いをく「確信犯的戦後犯罪」である。私たちはそれらを問い、貯金返還のために、一九九四年六月四日に山口地方裁判所下関支部に提訴をする。また、貯金の支払いの立法化を求める動きも始まっている。
 戦後補償という「うねり」の中で、個人の賃金、貯金の未払いは、「問題の一端」に受け止められがちである。しかしその「一端」を丁寧に解決する姿勢こそが、実はアジアから問われているということを、我々は文玉珠さんの言葉を通して幾度も確認するのである。
ーー
ひろさきりゅう一九六〇年、山口県生まれ。「文玉珠さんの軍事郵便貯金の支払いを求める会」代表。「戦後補償問題研究会」の「軍事郵便貯金」の項、「ハンドブック戦後補償(梨の木舎)の「軍事郵便貯金」の項を執筆。
ーー(引用終わり、全文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります)

 「慰安婦」を強制された女性たち 週刊金曜日1994.8.5 第37号

週刊金曜日1994.8.5 第37号 P7 本多勝一編集のページ 
8.15特集 日本の「加害責任」の光景
考えてみれば単純な話です。ぶんなぐった相手になぐり返されたとき、「なぐられた」と第三者にいくら訴えても、
先にぶんなぐったことを黙っていて何も反省しなかったら、だれが同情してくれましょうか。
敗戦後何十年間というもの、日本はヒロシマ・ナガサキをはじめとする
「戦争の悲劇」を国の内外に訴えてきましたが、
そのほとんどは被害の側面に焦点があてられていました。
原爆を「天罰」とみるアジア諸国の視点、
すなわち「侵略による加害」 への反省が欠落していたのです。
同じ敗戦国ながらドイツとの決定的落差がありました。
近年になってようやく、加害への反省がマスコミでもとりあげられるようになったものの、
その主流や体制側はいぜんとして「戦争の悲惨(「侵略の悲惨ではない)たる被害観を貫いており、
だからこそ閣僚の中からさえ「南京大虐殺全否定」といった世界の恥さらし発言が絶えないのでしょう。
こうした日本の現状は、最近の合言葉のような「国際化とは裏腹に、
いかに日本が反国際的であるかを示しています。
外国語などをいくらペラペラ話したところで、こういう本質的な反国際人は軽蔑されるだけでしょう。
したがって同時にそれは恥さらしであり、
したがって”売国奴”的行為でもありますから、真に「愛国心」があるなら、
まずは「加害」問題に正面からとりくまざるをえないはずです。しかもそれは急を要します。
本誌にも寄稿されている家永三郎氏の言葉を引用しましょう。
「……さらにすべての日本人が自己の責任を自覚するならば、
自己の秘蔵している戦争中の日記その他の記録を、
純然たる私事に関する部分を除いて公開するなり、自己の体験した事実を、
自己の実践した行為と見聞した事項との両面をふくめて、
口頭または文章化して公表するなりして、
正確な戦争の実態の復原に協力すべきではなかろうか。
ことに戦争体験者の高齢化が進み、
近い将来、戦争世代がすべて姿を消して戦後世代のみの時代が到来することの
予想される今日、戦争世代と戦後世代とが同じ社会で共存している今日と
今後に残された僅少の年月は、
戦争体験を非体験世代に伝達できる最後の時期なのであるから、
ぜひその間に右の要請をみたす努力がなされなければなるまい」
(家永三郎著『戦争責任』第七章「戦争責任の追及は、何のために今後どのようにして続けられるべきであるか」=岩波書店・一九八五年)
WS000017.jpgP8 「慰安婦」を強制された女性たち 長沼節夫
旧日本軍の強制連行慰安婦の総数は、10万人とも20万人ともいわれる。
被害女性は日本・朝鮮・中国・台湾・フィリピン・インドネシア・ベトナム・オランダ各国、
さらには数々の「陣中日記」によると、マレーシア・タイ・ビルマ・インドにまで及んでいたことが分かる。
「天皇の軍隊」に蹂躙された人々の恨みは深い。しかし日本は果たして彼女らの声にじっくり耳を傾けたことがかってあっただろうか。
第二次大戦下、日本軍が強要した従軍慰安婦制度は、人類史上最も大規模でおぞましいレイプ制度だったのではないか。
ことの性格上、彼女らの多くは自らの恨みを半世紀にわたって公にすることを我慢してきた。
「死んでいった人が何も語れない以上、戦後50年の今、あえて言い残したい」。韓国を訪ねて、このような恨(ハン)を聞いた。彼女らの声に、日本はどう答えるだろうか。

 死にたいです、痛くて・・・
 盧清子(ノ・チョンジャ)さんは忠清南道大川市に住んでいる。ソウルの南約150キロ(後略)
P9 嫁に行く前に捕まって
 一九二二年忠清南道儒城の貧しい農家に生まれた。家族は両親、兄、姉、妹がいた。
 三月のある日、畑で母と妹と自分の三人で除草作業をしていると、昼の弁当を運びに家へ帰っていた母が、息をはあはあいわせて慌てて戻ってきて、「早く逃げなさい。日本軍が女狩りをしている。この前掛けを頭から被って、伯母さんの所へ行って隠れていなさい。広い道を行っては駄目。山道を行くんだよ」と言った。
 その時ノさんは一七歳。五日あとには嫁にゆくという日取りも決まっていた時だった。畑に鍬を投げ出して、隣村の伯母の家に向かって駆け足で逃げた。しかし運の悪いことに、峠に出て畑の上の道を横切ろうとして土手を駆け上がった丁度その時、向こうから軍の一団がやってきた。憲兵らしい男たち一〇人程に囲まれて捕まってしまった。行くまいとして抵抗したが、反対に殴り倒された。
 軍人に腕を捕まえられて村の道を二キロ程行くと、トラックが三台停まっていた。その幌のついたトラックの荷台に投げ込まれてしまった。そこには若い女がいっぱい入れられて、泣き叫んでいた。どのくらい走ったか分からないが暗くなってから、今度は覆いのない列車に乗せられて出発した。どちらの方向に走ったのか見当もつかない。何もすることもないので一緒に乗せられた女の数を数えると、自分を入れて三八人いた。(略)
 「助けて」と逃げ回ったが
 四日目に列車の着いた所は中国・天津だったと思う。トラックで四、五時間行き「オーテサン」という所に連れられていった。(朝鮮語なら韓国・江原通に五台山=オーテサンがある。中国・天津奥地では山西省に五台山=ウータイシャンがあるので、ここと推定される-筆者)
(略)その夜、将校がやってきてノさんに「裸になれ」と命令して襲いかかった。三〇歳を少し過ぎた若い男で、ヤマモト少尉といった。ノさんは「助けて」と叫びながら部屋の中を逃げ回った。将校は怒り狂ってノさんの顔をめちゃくちゃに殴りつけ、石臼のような軍靴でノさんの腰を何度も蹴りつけた。頭からも股からも大量の血が流れた。それで第一日日、将校はノさんを犯すことは諦めて去った。将校から聞いたらしく、医務官の若い兵隊がやってきて注射をしたり、傷の手当てをしていった。
 その時蹴飛ばされた骨は戦後五〇年間、一日も休むことなく痛み続けている。
 二日目、トラックに分乗した兵隊が約一〇〇人、小屋の前へ整列した。前夜殴る蹴るされたばかりで身動きもできないほど身体が痛んで、何の抵抗も出来ないうちに、なん十人という男に犯されてしまった。昼前から夜中の三時ごろまで続いた蛮行だった。それから一年間、塀の外を一度も見ることなく、セックス奉仕が続いた。中国人の日本に対する抵抗は周辺で活発らしく、男たちは軍装のままやってきて、ゲートルを巻いたままの荒々しい姿で、ノさんらに襲いかかった。(略)
P10 凄惨な処刑風景を見せられ
今度もまた幾日も貨物列車に乗せられていった。段々寒さが募ってくるので、列車が北へ向かっていることが分かった。貨車から降ろされたところは、満州(当時)の吉林だった。ここの慰安所も基地の中のバラックで、約五〇人の慰安婦が捕まっていた。ここでも毎日三〇人程の日本兵のセックスの相手をさせられた。(略)
 間もなく上半身を裸にされた中国人青年一〇人程が、後ろ手に縛られた格好で連れられてきた。次に彼らを膝立ての姿勢にさせると、あらかじめ決められていたらしい兵士が、日本刀で中国人の首を刎ねていった。血しぶきが噴水のよ
うに上がった瞬間、ノさんは思わず手で顔を覆った。すると兵士が走ってきて、「ばかもん。きちっと日を開いて見ておれ」と怒鳴ってノさんを殴りつけた。凄惨な処刑風景だった。首が胴体から離れなくてうごめいている中国人に対し
ては、何人もで押さえ込んで、とどめを刺すのだった。中国人たちは前以て掘ってあった目の前の穴に落ちていった。その穴は中国人自身によって掘らされたものかどうか、ノさんは見ていないので分からない。(略)
 結婚、そして離婚
 何年問も続いた慰安婦生活のうち約八カ月間だけ、ノさんは輪姦される日々から「解放」されたことがある。性病にかかっていない一時期、ナカムラという中年の大尉がノさんを独占して、セックスの相手兼小間使いとして使っていたからだ。残りの期間の多くは性病をうつされては、六〇六号という注射を打たれ、ロクに治らないうちにまた、日本兵の性処理に戻らなければならなかった。(略)
 韓国独立後、ノさんは一度結婚生活を送ったことがある。もちろん慰安婦体験など過去の傷跡は隠して。しかし数年で離婚した。日本人に蹂躙され続けた肉体はも早、出産不可能になっていたうえ、オーテサンでの暴行のために腰の苦
痛が続いて力仕事が全くできないため、夫に済まないと、ノさんが自分から身を引いた形だった。(後略)

P11 私が連れて来られた松代
 姜徳景(カン・ドッキョン)さんは一九二九年慶尚南道晋州生まれ。(略)高等科一年に進学した四三年、家庭訪問にきた担任教師が「女子勤労挺身隊に出ないか」と言った。勉強ができて給料も貰えるという。私はとてもいい話だと思い、反対する祖母を振り切って参加した。
 富山県の不二越飛行機工場へ
(略)全員船に乗せられて日本の下関に上陸、列車で連れていかれた先は富山県の不二越飛行機工場だった。全員寄宿舎生活で、仕事は旋盤作業などだった。朝出の二一時間勤務と、夜出の一二時間勤務とを一週間ずつ繰り返した。食事がほんの僅かしか出ないのでつらかった。(略)
 テント小屋で
 その後もつらいことがあまりに多いのである晩、友達と一緒にまた脱走した。しかしそう遠くまで行かないうちに、今度は軍人に捕まってしまった。トラックに乗せられて行く途中、車から引き降ろされ、真っ暗な山道で襲いかかってきた男に処女を奪われた。自分はまだ生理も見ない一六歳で、何をされるのか、どう抵抗するのかも分からなかった。その男は憲兵で「コバヤシ・タテオ」といい、その後もしばしばカンさんを襲った。
 犯された後、またトラックに乗せられて、陸軍の部隊に連れていかれ、兵舎の後ろ側にあるテント張りの家に入れられた。そこには自分より年上の女性ばかりが五人いたが、その日はだれも口をきいてもらえなかった。テント小屋の中は、カーテンで幾つもの小部屋に分かれていた。三日日にあのコバヤシが来て、また自分とセックスしていった。翌日から慰安婦としての生活が始まった。テントには平日には毎日一〇人程度の兵隊がやってきて、つぎつぎとセックス処理をさせられた。それが土曜日には三〇人以上になることが普通で、性器がはれ上がって熱くて蒲く、塗炭の苦しみだった。土曜日の来るのが恐ろしくて仕方なかった。
 そのうちいろんな部隊へ出張しなければならないことも分かった。トラックで山の麓まで運ばれ、それからは軍隊用毛布を固く丸めたのを抱えて山道を登らされた。出張先では、その毛布を地面に広げて日本軍人に犯されるのだ。山間の部隊でも一〇人以上の兵隊の相手をさせられた。帰り道は身体中、とりあけ性器が痛くて痛くて歩けなくなることもしばしばだった。大きな部隊では部屋を仕切ってあったが、小さな部隊ではそんなこともなく、右でも左でも日本兵からセックスさせられる光景が続いていた。 
産んだ子供は病死(略)
 そこでも数カ月慰安婦生活を送ったある日突然、日本兵が姿を消した。韓国の旗を振って「マンセー!」と叫んでいる人がいたのでその人に聞いて、日本が戦争に負けたと知った。コバヤシも誰もかもひと晩のうちに消えてしまった。お金は一銭も貰っていなかった(略)
分かち合いの家」で暮らすカンさんは今
カンさんからこれだけの話を聞くだけでも、二時間程かかった。
どの人たちの場合もそうだが、生まれ故郷から部隊へ連行された時点までは色々話してくれる。だが、それからが難渋する。これまで五〇年近くも誰にも言えずに胸に秘めてきた屈辱の体験を記者に語るのは、とてもつらいことに違いな
い。インタビューに、カンさんはしばしば口ごもった。(略)
 「実はあの朝、私が昔、慰安婦にされていたのが松代だったと、はっきり分かったんです。そのショックで……」とカンさん。
 松代であの朝早くにまだ皆が眠っているころ目が覚めたので、散歩に出た。松代の慰安所にいた記憶はないかと聞かれていたので、それとなく様子を見ておこうという気になったからだ。それで一緒に来日した李容沫(イー・ヨンス)姉さん(大邱出身)と二人で散歩した。昔ここに慰安所があったと聞いたけど、風景に見覚えがないので、自分がいたのはここではないと思った。カンさんの記憶の中にある慰安所は、玄関前に大きな石が二つあり、松の木が二本立って、小さな池があったはずだった。だが、それがないので違うと思った。その後朝六時ごろになって、カンさんが部屋にいないのに気付いた人が二人を捜し出して、今度は車で案内してくれた。その人が「昔慰安所だった建物は撤去されたけど、保存運動もあるので一部は壊さずに残してあるそうです」と言って、そこへ連れていった。芝居にあるような、実際の建物ではないけれど正面だけ本物みたいに作った書き割りと同じように、昔の慰安所の正面だけが立て掛けてあった。それを見てカンさんは心臓が止まりそうになった、という。
 階段を昇った所にある玄関、その上に載った三角屋根、左右に看板が掛かっていた柱、入って左側に一つある事務所みたいな大部屋、右側に幾つも続く小部屋。自分がここへ連れて来られていたことが今、はっきり分かったので、とてもショックだった。
 その時、元々弱っている心臓がドキドキしてきて、もう立っていられないくらいになった。それで病院に運ばれて、記者会見どころじゃなかったという。慰安所の建物については誰にも話さずに帰国した。
「その時のことを話すのは今、初めて」とカンさんは言った。
 さてカンさんの近況だが、彼女はその後、ソウル市内に「分かち合いの家」がオープンすると直ぐに、農村を引き払って入居した。以前お金持ちが住んでいただろう豪邸で部屋数が多いため、ハルモニ(おばさん)たち一人ひとりが、ほぼ個室に住まうことができた。交替で食事を作るのも楽しい時間である。しかし仕事のできないのかつらい。
 そこで始めたのが「靴下売り」だった。一般メーカーに自分たちのブランドで白い木綿靴下を製造してもらい、挺対協のシールを貼って、九二年二月から売り始めた。小さなシールはハングルで次のように読める。
「この靴下の販売収益金は挺身隊問題の真相究明と賠償促進運動のために使われます
韓国挺身隊問題対策協議会 電話263・2802」「日本でも売ってほしい」とも言った。

P13 私の青春を取り戻してくれ
 黄錦周(ファン・クムジユ)さんはソウル北部・新林洞という新興住宅街で「ハルモニ(おばさん)食堂」という名の質素なレストランを一人で切り盛りしていた。
 家族の身代わりとして
 フアンさんは一九二二年八月忠清南道扶餘の学者の家系に生まれた。(略)一七歳の時、役場から「一家に一人、娘を挺身隊として日本の軍需工場に出さなければならない」という話を聞いた。(略)よくしてくれた家族の身代わりになろうという気詩ちと、三年働けば相当な給料をくれるというので、それで借金を返せるという期待が半々だった。
(略)列車に乗ると北に向かって走りだした。当初、南のソウルか日本で、紡績工か軍需工場の女工かと予想していたので、不吉を予感がした。列車には外が見えないよう黒い油紙を張って目張りをしてあるので余計不安だった。二日走ってようやく列車から降ろされた。「吉林、吉林」という呼び声が聞こえた。
 駅からトラックで荷物のように乱暴に扱われながら運ばれた先は、部隊の中のようで、鉄条網の塀を三回も通過した奥にあって、警戒が厳重だった。ブリキで作った小屋に入れられ、毛布と薄っぺらな布団を一枚ずつくれただけで、寒くてたまらず、娘たちで抱き合って夜を過ごした。
 翌日、軍人が娘たちを一人ずつ呼び出していった。黄さんの番がきた。将校の部屋に入るといきなり手を引っ張って抱き寄せようとした。必死で抵抗して、「許してください。洗濯でも何でもします」と言いながら、部屋の中を逃げ回った。チマ・チョゴリは引っ張られてズタズタになり、また捕まってめちゃめちゃに殴られ、大きな軍靴で蹴りつけられ、パンティーを日本刀で切り裂かれ、強姦されてしまった。 破れたチマを抱えて、痛む身体を引きずるようにして部屋へ戻ると、ほかの娘たちも皆、泣いていた。
 ウミと激痛のなか
 次の日から、将校たちに一日数回呼び出されて犯される日々が始まった。二週間後には、将校専用の女から外されて、一般部隊用の女に回された。部隊の中の木造別棟の慰安所に、小屋から通勤させられるようになった。慰安所は一人がやっと寝られるくらい狭く仕切られ、仕切りといっても毛布を垂らしているだけだった。
 相手をさせられる兵士は普通の日で三〇人程、週末には軍人たちが褌一枚で行列を作っていて、囲いの外では、「おい、早く早く」という声が一日中聞こえた。大勢過ぎて相手の顔は全然覚えていない。
 定期検診は担当の男から月に二、三回受けて、六〇六号という注射をされた。性病が酷くなって腹にウミが溜まるようになった女は、軍人がどこかに連れていってそのまま帰ってこなかった。咸興駅から一緒にここまできた女たちもこうしてファンさんのほかは消えていった。
 ある時、子宮が爛れてウミが溜まり、激痛のためとうとう兵隊の相手をすることが出来なくなった。「もう駄目です。許してください」というと、相手は「よし、許してやる。その代あり俺のモノを口で吸ってみろ」と命令された。「あなたのクソでも食べますから、勘弁してください」と言うと、相手は「この野郎、殺してやる」と、殴る蹴るを続け、フアンさんは何日か気絶したままだったことがあるという。
 余りの酷さに夜逃げを企てる女もいたが、ほとんど捕まって殺された。フアンさんも生き埋めにされた女を四人は見た。
 フアンさんは途中一年間はサハリンの慰安所にも行かされて、吉林の二年間と併せて三年間、地獄のような日々を送ったのだった。
 二カ月歩いてソウルに
ある日、食事の合図もないので、自分で食堂にいった。外にはトラックも馬も荷物も何もなく、軍人も全員姿を消していた。やっと軍人を一人だけ見付けたので聞くと、「日本は戦争に負けた。お前たちも早く朝鮮に逃げないと、間もなく中国人が入ってきて殴り殺されるぞ」と言う。部隊は女たちを見捨てて逃亡したのだった。この男も慌てて部隊の後を追っていった。
 小屋には女ばかり七人が取り残された。逃げるといってもファンさんたちは、ここへ来てからお金をもらったこともなければ、着物も三年前到着したとき、一度男物をもらっただけなので、今では辛うじてぼろ切れで身体を隠しているといった姿だった。生理帯もないので、兵隊が捨てたゲートルの切れ端を使っていた程だ。しかし逃げなければと思った。仲間の女たちをせき立ててみたが、ファンさんのほかの六人は、性病が重くてとても歩けない。ファンさん一人だけでも逃げなさいと言うので、一人で出発した。
 裸同然のような姿だったので、途中で兵隊が脱ぎ捨てていったらしい汚い下着を身に着け、左右の大きさも違う地下足袋を拾って履いた。歩き歩いて、二カ月かかってようやくソウルまでたどり着いた。そこで食堂の主人が食事やモンぺなどをくれただけでなく、「行く所がなけりやここにいていいよ」という親切な言葉を掛けてくれたのだった。
 ファンさんばその後、少しずつ金を貯めてはそれでペニシリンを買って、性病から立ち直っていった。「六・二五」(朝鮮戦争)に逃げ惑い、戦災孤児を育てながら激動期を生きぬいたという。(後略)
 日本での腹の立つ無神経な質問
 「東京では日本政府が当時の様子を聞きたいというので、どうぞと言ったけど、当時いた部隊の名前はとか、所在地はどこでしたか、何という名前で呼ばれていましたかとか、腹の立つ質問ばかりされた。それが分からないことには調べようがない。だって当時、私たちが部隊の名前など聞いたら、すぐに憲兵が来てなぜそんなことを知りたいのかと言って拷問しただろう。私の名前だって番号で呼ばれていただけだ。
 国会での新聞記者会見も遣り切れない質問ばかりだった。ある記者が『どの位の補償金を出せば解決になりますか』と尋ねた。無神経な質問に私は怒りが込み上げるばかりだし、横に座っていた沈美子(シン・ミシャ) ハルモ二はその場で倒れてしまった。日本が補償する気があるのなら、おまえの国をみんなくれ。私の青春を取り戻してくれと叫んできた」
 体験談の途中、ファンさんはその時日本人に蹴飛ばされた跡がこれだよ。ほら、触ってごらんと言って、筆者の手を取って、自分の骨盤に持っていった。きっと複雑骨折しなから誰からも手当てを受けることなく、固まってしまったのだろう。その部分が異様に盛り上がっている。今でも足腰が痛くて、サロンパスを何十枚と貼っているという。(後略)

 性の共同便所だった
 沈美子(シン・ミシャ)さんは一九二四年、今は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)になっている黄海道で生まれた。首都ピョンヤンの南方に当たる地域だ。「一六歳で国民学校の五年生だったとき、というと年齢の割には学年が低くて、数が合わないように思うでしょうが、実は貧しくて、一〇歳を過ぎるまで小学校にも行けなかったのです」
 警察で拷問を受け、強姦され
(略)その一週間後。シンさんは図画の時間に、職員室に来るようにと呼び出された。行ってみると警官が来ていた。
「お前が作ったという日本地図だが、あの周りを飾っとる花は何か」と聞かれた。花は自分の好きな朝顔だった。「お前は日本の花が桜だということを、知らんのか」と言う。もちろん知っている。しかし桜だと、ずっとたくさんの細かな花びらを刺繍しなければならない。まだ子供のシンさんにはあまりに骨の折れる仕事だったに違いない。しかし警官は納得しなかった。
「お前は日本の国花が桜だということを知っておって、日本地図を朝顔で飾った。お前の思想や精神は間違っておる。ちょっと警察へ一緒に来い」と言って、そのまま警察へ連行した。夜になっても帰宅させてもらえなかった。それどころか警察幹部の日本人が宿直室にシン少女を引っ張り込んで、無理矢理服を脱がせようとした。
 少女は「助けてえ」と大声を上げながら逃げ回った。それでもたちまち押さえ込まれてしまった。警官が顔を近づけてきた途端、シンさんは相手の耳に思い切り噛みついた。夢中でかぶりついたので、どんなに強く噛んだか分からないが、相手は顔中血だらけになった。少女の悲鳴には何の反応もなかったのに、警察幹部の悲鳴を聞くや、たちまち幾人かの警官が駆けつけてきた。
 幹部が血だらけの耳を押さえながら何かわめくと、その部下たちは一緒になって少女を押さえ込んだ。別の警官が電話機を持ってきて、コードの端子をシンさんの両足につないだ。そして電話機のハンドルをガリガリ回した。強い電流が流れ、少女はショックでのたうった。昔日本でも使われていた呼び出し式電話機は、まず横に付いているハンドルを回して発電し、交換手を呼び出す方式だった。日本の警察はそれをしきりに拷問用具として悪用した。相手を殺してしまわないでなおかつ、強烈な電気ショックを与える。
 次には真っ赤に焼けたコテを持ってきて、少女の首筋に当てて大火傷を負あせた。そして「お前に桜の花でなく朝顔の花を刺繍せよと言ったのは誰か、名前を言え」といって、また殴られた。誰の名前も思い出せないので黙っていると、少女の手の指と爪の間に竹を削った串を刺し込むというむごたらしい拷問を行なった。その挙げ句に、シンさんは警官たちに強姦されてしまったという。やがてシンさんは気絶してしまったらしい。
 人間として扱われない日々
 気が付くと周りに見知らぬ女の顔ばかりがあった。ここはどこかと聞くと、日本の福岡だといわれた。とするとシンさんはもう何日もの間、気を失っていたのだろうか。そこは軍隊の中らしくテント張りの兵舎が幾つも並び、トタン屋根の粗末な平屋におおぜい若い女がたむろしていた。小屋の入り口には歩哨が立っていた。そこが「慰安所」という所だったことは、間もなくいやでも知らなければならなかった。その時から、シンさんの慰安婦としての日々が始まった。
 小屋の中はカーテンで小さく仕切られていて、シンさんの小部屋でも、一日に二〇ー三〇人もの軍人のセックスの相手をさせられた。ただしそれは平日の場合であって、週末には四〇人から五〇人が列を作って順番を待っていた。もう性器が腫れ上がって激痛をこらえるしかなかった。軍人たちは誰もシンさんの名前を呼ばず、番号だけで呼んだ。福岡ではいつも、「おい、七番」と呼ばれた。そこに集められていた二七人中の七番目ということらしかった。
 シンさんはよく当時の自分のことを「性の共同便所だった」と表現する。日本軍はシンさんたちを人間として扱わなかったのだから、はじめから「名前」など必要としなかっだということかもしれない。二七人の中に中国人が二、三人いて、言葉がまったく通じなかった。
残りは全部朝鮮人で、日本人は一人もいなかった。大部分が「工場で働かせてやる」と言ってだまされ、ここに連れ込まれたと言った。自分と同じように学校途中で無理矢理運行されてきた者も僅かだがいた。
 日本兵に殺される仲間たち
福岡のほか、神戸、大阪、和歌山、千葉・流山、奈良の慰安所にも連れていかれたことがあるが、軍慰安所の構造はどれも似ており、もし仕切りのカーテンを上げれば、隣の小間での「慰安」光景をいつでも簡単に覗くことができた。
 だがそのために、世にも恐ろしい光景を目撃しなければならないこともあった。ある時、相手の男があまりにしつこく、いつまでも帰らないことを悪く言った女がいた。男は「何を生意気な」と怒って、持っていた日本刀で女の乳房を抉るように切り取ってしまったことがある。彼女は泣きながら血の海の中で、失血死していった。
 また別の慰安所では、もう痛くて相手ができないといって断られて腹を立てた軍人が、相手の性器に拳銃を当てて発射し、殺してしまう事件もあった。彼女の場合は即死だった。死体は直ちに菰に包んで、若い兵士たちがどこかへ運び去った。「殺した側」の男も、憲兵が来て、連行していった。殺された慰安婦はどちらも朝鮮から連れられてきた女で、シンさんとも親しくしていた友達だったが、何の言葉も掛けてやれず、無表情で見送るしかなかった。
 というのは日本軍人たちは女がどんな些細な質問をした場合でも「何でお前は、そんなことを知りたかるのか。怪しいぞ」と言って、女に対して殴る蹴るの乱暴に及ぶのか普通だったからだ。だからシンさんも、殺されていった女たちがどう始末されたかを、聞くこともできなかったという。
 喜怒哀楽の感情を欝われ
 シンさんが相手をさせられた軍人は教が多過ぎて覚えてはいないが、「対馬出身の憲兵・鈴木」という名前だけは今も覚えている。福岡でシンさんをどう憐れんだのかある日、博多の町に連れ出して、汁粉をおごってくれたことがある。シンさんが忘れられないのは汁粉の甘さもさることながら、横の席にいた日本人の女たちだ。自分とちょうど同じ年格好の若者たちが、同じものを食べながら笑い興じていた。不幸を自分とは正反対に、幸せそうなその実顔。そういったシンさんの気分を感じたのか鈴木は、「お前たち朝鮮人も可哀相だが、これも天皇陛下の命令だからな。朝鮮からおおぜいの女を各地へ運んでおる。郡単位、村単位で何千人と駆り集めておる」と言った。そう言われても涙は出なかった。苛酷な日々が、何時の間にかシンさんたちから全ての喜怒哀楽の感情を奪っていたようだと、これは今から振り返っての分析だ。
 鈴木は憲兵隊長だった。誰からも告められにくいという特権を使って、しばしばシンさんを「愛人」替わりに各地に出張する際にも連れ歩いた。シンさんは特にこれといった感情はなかったが、身体が随分助かったのは事実だ。慰安所にいる限りは毎日、何十人という荒くれ男たちから辱めを受けなければならなかったが、鈴木が連れ歩いている問は、鈴木の相手をしていれば済んだからである。こうしてシンさんは鈴木と八カ月間、同棲した。
 夏のある日、突然慰安所から軍人たちの姿が消えた。どうしたのかと思っているうちに誰かが「日本が戦争に負けたらしい」というニュースを持ってきた。これでようやく解放されて故郷へ帰ることができる。
 だがどうやって。日本軍からは一円の金も受け取っていなかった。着物もなかった。無人となった倉庫で探してみたが、手に入ったのは男の軍服だけ。仕方なくそれを着た。
 朝鮮に戻るには、正規の航路が閉ざされているので闇の船に乗るしかなく、相当の金がかかると聞いた。仕事を探しだが初めの二年間は、食事はさせるが給料までは出せないという工場だった。慰安婦生活のなかでうつされた性病を癒しながらの惨めな生活だった。梅毒のため子宮からの出血が長い間、止まらなかったという。
 三年目にやっと賃仕事が見つかったが、韓国では李承晩大統領が日韓間の往来を厳しく閉ざす「李承晩ライン」を設定したため、帰国の道が完全に断たれた形となった。シンさんは一九五三年、高い金を払って密航船でようやく韓国へ帰り着いた。朝鮮戦争ですっかり荒れ果てた祖国だった。
 癒えない拷問の跡
 (略)シンさんは国民学校五年生当時の体験を語りながら、左肩をはだけた。首筋から胸にかけて細長く続くケロイド。暫寮から焼きごてを当てられた拷問の傷跡だという。また両手の甲を上にしてテーブルの上に置くと、親指など幾つかの爪が節くれ立ったように盛り上がっている。爪と指の間に竹串を刺されて出来た拷問跡だと説明した。(略)
  帰りがけにシンさんから折り入って頼みがあると言あれた。もう年をとってよそに働きに出ることは無理だし、政府からの補償金だけでは暮らしていけないので、日本人で自分たちの刺繍を買ってくれる人はいないだろうかと言う。幸い陳さんも刺繍が得意というの
で、これからは相当手のこんだ作品が出来るようになるという。そう言あれても記者としては、「読者の方から反蕾あればいいですがさあどうでしょう」と答えるしかなかった。サンプルは厚手絹地の座布団カパーで二種類。赤地のは、番の丹頂鶴を七彩の雲が取り囲んでいるデザイン。青地のほうは、四色の花をあしらったいずれも細かな刺繍だった。値段は日本円で一枚約五〇〇〇円。刺繍に関する連絡先は、韓国京畿道賎高市秀光区太平四滴鯨京太平APT一〇一棟五〇四号 沈美子方。
なかぬま せつお・ジャーナリスト。一九四二年、長野県生まれ。

P18 一番大切なのは、真相究明だ 尹貞玉(ユンジョンオク)韓国挺身隊問題対策協議会共同議長
 (前略)しかも市民団体・挺対協の活動のお陰で元慰安婦の運動、日本国内の支援運動が生まれた。政府レベルでも韓国で保障制度が出来た。対象は何人でどんな保障ですか。
ユン 今年二月現在で一六〇人が申告しています。初めの一時金が五〇〇万ウォン(約六六万円)プラス月額一五万ウォン(約二万円)を支給されます。
ー変わらないのは日本政府の鈍感さでしょうか。
ユン 九〇年には「慰安所は軍と無関係」と国会答弁していたのを訂正し、昨年八月には「強制」があったことを認めたし、さらに細川首相(当時)が侵略戦争を認めるなど変化もありました。さらに変化を期待します。
(略)
ユン 青年や留学生の交流は大いにやられたらいい。慰安婦問題とは関係なくおやりになるべきです。これで真相究明をやらずに誤魔化そうとするなら絶対に許せません。日韓両国民は若くして殺されてしまった慰安婦、今も苦痛に耐えながら生きるハルモニたちの思いを歴史の中に伝えていく義務があります。
-具体的な要求というと?
ユン 私たちの捷対協がいつも要求してきたことは真相究明・公式の謝罪“責任者処罰・本人か遺族への補償。それからこの悲劇を記念碑か教科書に記して後世に伝えていくこと、その他。一番大事なのは異相究明です。誰かにお金をやったり、センター作って静かにさせようとかはいけません。
ー国連でも訴えておられる。
ユン はい。日本政府が誠意を見せるまで国連人権委貴会とか国際仲裁裁判とか各種国際会議とか、あらゆる機会を機会を捕らえて訴えていきます。
-ユンさんご白身の近況を。
ユン 最近では四-五月に中国・武漢に行って詞査しました。日本軍慰安所が四カ所あった。朝鮮人慰安婦は三二人が戦後も帰れず残ったそうで、うち生存者九人から話を聞きました。(後略)
-------
尹貞玉氏 一九二五年生まれ。九〇年に梨花女子大英文学科教授を辞し、以来慰安婦問題に専念している。

 アジア蔑視が今も支配的な日本 鄭鎮星(チョン・ジンソン)挺身隊研究会会長
ー捷隊研は挺対協の下部組織です。何をしていますか。
チョン まず第一に、強制従軍慰安婦だったハルモニたちからの聞き取り作業で、その成果を本にしました(日本語版は明石書店刊『証言・強制連行された朝鮮人草慰安婦たち』)。第二に、国際会議に積極的に参加して、ハルモニたちの苦しみを全世界に訴えていく作業です。
ー国際会議での日本代表にはどんな印象をもたれました?
チョン 良心的な弁護士が参加した一方で、日本政府の態度は私たちと反対の立場で、何とか従軍慰安婦問題が取り上げられないよう努力していました。日本は政権が交替して変わったという人もいますが、私たちには変わったようには見えないのです。最近、日独の戦後処理を比較研究していて改めて思うのですが、両国の態度はあまりにも違います。日本は明治維新以来の「脱亜入欧」思想でアジア蔑視がまだ支配的です。
(略)いわゆる従軍慰安婦以外に勤労挺身隊として工場に行ったのに、二、三カ月後には南アジアに送られて慰安婦にされたケース、富山の飛行機工場では昼間、皆と同じように働かされたうえに、夜は慰安婦にされたという意外な被害届けも来ています。また常習的にレイプされていた看護婦とか、悲しい発見があります。(後略)
ーー
鄭鎮星氏 徳成女子大教授。一九五三年ソウル生まれ。ソウル大社会学部卒。
(インタビュー 長沼節夫)
以上、引用終わりーー
P8からP19全文はここ 「ダウンロード」押す、ファイルを開く(または保存) 著作権は週刊金曜日にあります。
思わず短時間で熟読した。強制は明らかではないか。アジア周辺国を人間扱いしていない様がよく判る。これでよく八紘一宇など言えたものだ。真相究明と記録、教育は大事ですね。

三島市 後援断る 平和イベント「慰安婦」理由に

 東京新聞2014.10.28より引用
静岡県三島市が市民団体主催のイベント「核兵器をなくし平和をつくる三島市民のつどい」の後援を、旧日本軍による従軍慰安婦問題を扱うことを理由に断っていたことが分かった。

イベントは毎年開いており、32回目。市には20数年前から後援を申請し、断られたのは初めてという。(引用終わり)

「女の耐久度」チェックも! 産経新聞の総帥が語っていた軍の慰安所作り

http://lite-ra.com/2014/09/post.html より引用
その鹿内は戦中、陸軍経理部に招集されていたのだが、産経新聞社長就任後に桜田武・元日経連会長との対談集『いま明かす戦後秘史』(サンケイ出版/絶版)を出版。陸軍時代の思い出話をこんなふうに語っている。

「鹿内 (前略)軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋が……。
 桜田  そう、慰安所の開設。
 鹿内  そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった」
(中略)
鹿内は召集後、1939年4月から9月にかけて陸軍経理学校で軍の後方支援のノウハウを学んでいたのだが、そのときに、慰安所の作り方も叩き込まれたというのだ。しかも、その内容は今、右派メディアがしきりに喧伝している「公衆衛生の管理だけ」というようなレベルではない。鹿内の発言に「調弁する女」という表現が出てくるが、「調弁」というのは軍隊用語で兵馬の糧食などを現地で調達するという意味。つまり、これは陸軍が慰安婦の調達に関与していたということではないのか。
 さらに衝撃的なのが「女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか(中略)といったことまで決めなければならない」という発言だ。当時の日本軍が現地の女性を完全にモノ扱いし、どんな女がいいのかを品定めする作業までをも士官に命じていたことを証明するものだ。

 断っておくが、この鹿内発言は老人の妄想でも記憶違いでもない。靖国神社の一角に靖国偕行文庫という図書館があるのだが、そこにこの鹿内発言を裏付ける一冊の本が所蔵されている。

 300ページ以上はあろうかという分厚いその本のタイトルは『初級作戦給養百題』。昭和16年に陸軍主計団記事発行部が発行した、いわば経理将校のための教科書だ。
 
 表紙はハードカバーで、「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」という文字。その9ページ目、第一章総説に、師団規模の部隊が作戦する際に経理将校が担当する15項目の「作戦給養業務」が解説されているのだが、その最後の項目「其他」の解説に以下の任務が列挙されていたのだ。

1 酒保ノ開設
2 慰安所ノ設置、慰問団ノ招致、演藝會ノ開催
3 恤兵品ノ補給及分配
4 商人ノ監視

 ようするに、陸軍の経理将校向け教科書に任務として「慰安所ノ設置」が掲載されていたのである。軍が関与したのは衛生面の管理だけという保守派の主張が、明らかな嘘だということがよくわかるだろう。

 もちろん、こうした事実を産経新聞をはじめとする右派、保守派が知らなかったわけはない。少し前に中曽根康弘元首相が「土人女を集め慰安所開設」していたという戦時記録を紹介し
たが、今回は自分たちが中興の祖とあおいでいる人物が自社の単行本で軍の組織的な関与を認めていたのだ。

 しかも、中曽根元首相の証言でも明らかになったように、軍は現地で娼婦でない女性たちも徴収している。これでほんとうに、従軍慰安婦のことを「自ら志願した高級娼婦」などと信じているとしたら、どこかおかしいとしか思えない。

ようするに、保守系メディアはこうした事実を知っていながらそれをネグり、あらかじめ強制連行の定義を「軍が銃剣を慰安婦に直接突きつけて連行した」という非常に狭いものに限定し、それを否定することで、巧妙に情報を誘導してきたのである。朝日が歴史を捏造したというなら、産経をはじめとする保守メディアもまったく同罪なのだ。(後略 引用終わり)
ーー
朝日の社長を国会招致という前に、鹿内は死去のため、中曽根を招致したらどうだろう。

シンポジウム「従軍慰安婦」問題を考える,週刊金曜日臨時増刊 従軍慰安婦 問題

【シンポジウム「従軍慰安婦」問題を考える】
週刊金曜日
~事実をもって、歴史歪曲主義者の“ウソ”を暴く~
◆日時:2014年 11月 13日 (木) 午後6時半~8時半(6時開場)
◆場所:文京区民センター(東京都文京区本郷4-15-14)
※都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分、東京メトロ
南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分
資料代 500円
◆詳細:http://www.kinyobi.co.jp/event/event_detail.php?no=3335&page=1
◆内容 『朝日新聞』の検証記事をきっかけに、安倍政権は「従軍慰安婦」の強制性どころか、その存在すら消し去ろうとしているようにみえます。一部の新聞や雑誌も、ここぞとばかりに歴史歪曲に走っています。しかし、事実は変えようがありません。
 このシンポジウムでは、報道されないため市民の目にはなかなか届かないことを具体的に明らかにします。これらの「事実」「真実」こそが、私たち市民の“武器”です。
・講演者 ▼能川元一(非常勤講師)
「河野談話」の後からも続々と「従軍慰安婦」に関する資料が発見されています。また国連の勧告も相次いでいます。具体的にかつわかりやすく「従軍慰安婦」問題を解説します。新聞や週刊誌のデマゴギーも事例に則して暴きます。
・講演者 ▼梁澄子(韓国語通訳・翻訳)
あまりにも真の歴史を無視した報道姿勢が問われる『産経新聞』。そのとんでもぶりを徹底批判し、右派メディアのいい加減な実態をあぶりだします。
・講演者 ▼西野瑠美子(「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター共同代表)『朝日新聞』が「虚偽」とした吉田清治証言をどうみるか?『朝日新聞』検証を元に、朝鮮半島と国内の徴集を比較例示し、河野談話と教科書への攻撃を批判します。
・講演者 ▼金富子(研究職)『朝日新聞』等の吉田証言報道がなくても、1990年代に「慰安婦」問題は始まった。「慰安婦」の実態=性奴隷は、国際社会の常識になった。なぜか。女性の人権と脱植民地主義から考える。

img160.jpg広告は東京新聞11月7日掲載。
【臨時増刊号は好評発売中!】特別編集「従軍慰安婦」問題 梁石日×辛淑玉/川田文子/能川元一/梁澄子/東郷和彦/上野千鶴子/半藤一利/吉見義明/林博史/松井やより/西野瑠美子 http://amzn.to/1tIihmq

従軍慰安婦問題の背景  藤原 彰1993.8.27月刊金曜日

従軍慰安婦問題の背景  藤原 彰

戦地での日本軍の駐屯地には女性のいる慰安所がつきものだったこと
は、軍隊経験者のほとんどが知っていたことで、従軍慰安婦の存在その
ものは自明のことだったのである。だがこのことが大きな問題になった
のは、一九九〇年の日韓外相会談で韓国側が慰安婦の資料を要求し・さ
らに九一年三月に三人の元慰安婦の韓国人女性が来日して謝罪と補償
を求める訴訟を東京地裁におこしてからのことである。
それ以後に、吉見義明氏らの歴史家たちによって次々と資料が発掘さ
れ、軍が慰安所を設置し管理していたことが立証された。そして従軍慰
安婦という存在が、いかにひどい国家による人権侵害であり組織的犯罪
であったかが明らかにされつつある。
(中略)
慰安婦をあたりまえだとする考えは、戦前日本の女性差別観に根ざし
ている。明治維新も女性の解放にはつながらず、公娼制度(政治権力が
売春を公式に管理する制度)が存在して、社会一般に人身売買や前借金
による女性の奴隷化が公認されていた。とくに軍隊は、集団生活をする
兵士の欲望処理の方法として、公娼制度を必要としていたので、兵営近
辺に遊廓はつきものであった。
戦時になると軍の上層部が、強姦防止や性病予防のために、ストレートに慰安所
発想するのにはそれだけの背景があったのである。
そのことに加えて植民地や占領地に対する民族差別観もこの問題の背景である。
日中戦争で日本軍の動員兵力が膨大になり、日本人娼婦だけではとても対応でき
なくなると、すぐに朝鮮人女性を強制徴用するのは、この民族差別観のあらわれである。
それが女性の奴隷化であるばかりでなく、どんなに民族としての屈辱をあたえること
になるのかという考慮がまったくなかったのである。(後略)

〈編集部注=この原稿は七月二九日に執筆された。八月四日に日本政府は従軍慰安婦問題の調査結果を発表し、慰安婦募集か強制であったことを認めた。調査結果を発表した河野洋平官房長官当時)は「心身にあたり癒しがたい傷を負わされたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と日本政府として謝罪した)

(月刊金曜日1993.8.27号P50より引用。)著作権は週刊金曜日にあります。
全文はこちら
ーー
従軍慰安婦、南京大虐殺など、日本軍の侵略行為をなかったものにしたい右派マスコミ・論壇に対抗すべく創刊当初より週刊金曜日の創刊当初からの記事を今後デジタル化し微力なから対抗していきます。(右派は金・物量にものを言わせ質の悪い議論をネット、新聞・電車内広告を大動員しながら撒き散らしネット右翼の温床になっていると考えます。対するリベラル派はネットに貧弱な例が多いかも)
朝日新聞も謝罪や第三者委員会の検証に逃げず、むしろ右派が騒いだことを奇貨とし慰安婦等を事実として再取材し常識として定着させていくべきではなかろうか。誤りがあれば過去の訂正は大胆かつ早急に行い、PCのソフトのごとくバージョンアップしていけば社長が謝罪する必要もなかろう。

週刊金曜日動画『産経』が渋々『訂正』お粗末すぎる記事,慰安婦問題



2014/10/04 に公開
編集長がゲストをむかえ『週刊金曜日』10月3日号を紹介します。
今週号特集は「『朝日』バッシングと『慰安婦』問題」です。

今回ゲストは「『産経』が渋々『訂正』お粗末すぎる記事」を執筆した
翻訳家の梁澄子さんです。
5月25日の『産経新聞』1面で報じられた、第一回アジア連帯会議(当時の名称は挺身­隊問題アジア連帯会議)に関する事実無根の記述の数々を告発します。
「荒唐無稽な作り話」を1面で報じた!  これで「朝日」を批判できるのか。
本誌10月3日号は全国主要書店他
ブックサービス(代引きあり)で取扱中
http://www.bookservice.jp/ItemDetail?cmId=6239314
(引用終わり)ーー
産経は昔知り合いの家で見たら、1面で房総半島に北朝鮮のスパイが上陸してきた。と書きたてたので思わず笑ってしまった。最近は安いからか身近でも見掛けることがある。動画でも言っていたがウソも100回つけば本当になるとか、ゲッペルスのようだ。ウソをバラ巻くのは簡単で、慰安婦問題は事実関係が難しく良心派は意見することが難しいとか。がんばっていたのは朝日、毎日(過去形にはしたくないが)。東京新聞もあまり報じないようだ。
動画 週刊金曜日ちゃんねるは面白そうだ。
めぐりくる春めぐりくる春
(2010/07)
梁 石日

「慰安婦」をめぐる妄言が続いています。「慰安婦」問題を初めて正面から扱った小説。
戦時下の一人の女性・淳花(スンファ)の人生を、生々しい筆致で描く。
蹂躙された生。消すことのできない記憶。
過酷な運命と真実が、いま明らかになる。
立ち見版を見る

週刊金曜日に連載されていたなあ、時間あるとき読んでみよう。

慰安婦100人の証言

2007.7.28当ブログ記事より再掲。
ブログカテゴリーがあった、当ブログの慰安婦記事はこちらから。
ーー
s-img047.jpg
s-img048.jpg
s-img049.jpg

s-img050.jpg
s-img054.jpg
s-img056.jpg

DAYS JAPAN6月号P8より引用。
------
100人の元慰安婦の方々の視線が痛い。

100冊が語る「慰安所」・男のホンネ

2007.3.10当ブログ記事より再掲。
ーー
従軍慰安婦の本の参考です。近所の図書館で借りてきた。国会図書館にも似たような本は何冊もあるのだから慰安所を認識できない議員さん読まれてはいかがですか?強制連行があったかはもはや問題ではないでしょう。政府や軍が公に慰安婦を募集するわけがないのだから。本にもあるが「学校の先生が東京の軍需工場の募集とだまされて船に乗り、着いた先はシンガポール、そこからビルマへ連れられた」「軍の命令だ。お国のために娘を差し出せ、この村へは8名の割り当てだと朝鮮江原道の村長がいう」「特殊看護婦という名目で本人も看護婦をするつもりで知らずにやって来た」などの例もある。
写真:100冊が語る「慰安所」・男のホンネ、梨の木舎、高崎隆治 編著、アジア全域に渡り日本軍が支配していた地域に慰安所があったことが目次からもわかる。元兵士や従軍記者の本が単行本だけで約5千冊、そのうち3割に目を通し、慰安所の記述がある箇所を抜き出されている。
sa-img231.jpg


sa-img232.jpg
・慰安所のあった所、フィリピン、ベトナム、タイ、マレーシア、シンガポール、ミャンマー(ビルマ)、ボルネオ島、セレベスト島、スマトラ島、ジャワ島、アンダマン島、ニューブリテン島、トラック島、コロール島、パラオ島、ポナペ島、中国(各地)、ラサ島(沖大東島)、沖縄
慰安婦となった人(本から)、日本、京都、大阪、長崎、きれいな東京弁、四国、九州、沖縄、広東、朝鮮、インドネシア、ジャワ、オランダ。 
・P122より引用、若い女性をとらまえると、日本の兵隊たちはまず手を開かせて、手の平を調べた。農民や労働者の手であれば、その場でおもちゃにしたり、県城(県庁所在地)につれていって慰安婦や金持ちの妾や小間使いにうりとばした。白い手の女は、八路軍の手先のうたがいありとして、憲兵の手にわたされ、拷問のあげくに虐殺されることが多かった。
・ガダルカナルやインパールを経験した兵は内地には返さない
・予科練出身の下士官であり、下から上を観る目をもっているので、上級者に対する観察は鋭い。このような練達のものが、実践においては経験不足の上級者に従わなければならない軍隊制度によっていかに無為に死んでいったか
・慰安所の開設されるのも性犯罪防止のためと言えるが、事故を起こすのも慰安所を愛用するのも妻子のある予備後備の兵が多く、独身者の現役兵は少ない。しかも事故は緊張の連続である一線部隊よりも、やや緩んでいる二線に多発する傾向があった
・いろいろの小、中隊に接してみて、率いる指揮官によって、その隊が指揮官の色に染まっていることに気づいていた。賭博の盛んな隊、慰安所通いに精出す隊、私的徴発に夢中な隊、それぞれの色分けができていた
・軍票は敗戦で紙くずになる 
(以上表現簡略化したが「100冊~」より引用終わり)
sa-img233.jpg

sa-img234.jpg

News23 多事争論2007.3.8「よき敗者(グッド・ルーザー)」

2007.3.9当ブログ記事より再掲。
ーー
http://www.tbs.co.jp/news23/onair/taji/s070308.htmlより引用。
日本が戦争に敗れて占領下に置かれやがて独立し、そして今、私たちの戦後のいわば基礎を築いた指導者は吉田茂という総理大臣でありますが、その吉田さんが、日本がなぜ近代化にこんなに成功したかについて書いた論文で「日本を決定した100年」という論文があります。
その中で吉田さんが書いていることの大変面白いと思うのは、日本が開国を迫られた時、あるいは占領下に置かれた時、相手がすべて正しいとは思わなかったけれども、相手の美点を認めそして立派な文明を持っているということを認めた。つまり、日本は「よき敗者」=「グッド・ルーザー」であったと。そのことを日本の発展の1つの理由にしております。
慰安婦問題でニュースで報じられているようなことが続いておりますけれども、仮に、軍の強制が直接であったか間接であったか、あるいは狭義の、あるいは広義の強制があったかという、そういう議論をいくらしても、慰安所があって、慰安婦というものが存在したということは消えません。こういう事をくどくどと説明して、どれほどの意味があるんだろうかと思います。
しかも河野談話というのでこの事に1つの終止符を打ったはずなのに、さらにこういう議論を蒸し返すという事がどういう日本の国益になるのか、今後の外交やいろんな日米関係を含めて何の得があるんだろうかと私は思います。
それよりも、いわばいろいろ言いたいことはあっても「よき敗者」、吉田さんもよくよき敗者になるという事の方が、安倍さんは生産的でないと言っておりますが、その方がよほど生産的ではないでしょうか。
ちなみにこの吉田茂のお孫さんが麻生外務大臣であります。麻生さんはどう思われるんでしょう。


News23 多事争論 2007.3.5「逆もどり?」

2007.3.9当ブログ記事より再掲。
ーー
http://www.tbs.co.jp/news23/onair/taji/s070305.htmlより引用。筑紫キャスターの多事争論 2007.3.5

もういい加減にしてほしい、忘れたい、と過去のことについてそれが古傷であればあるほど人は思うわけでありますけれども、しかし、過去のことが現在とは無関係ではないし、その過去に現在どう取り組むかが未来を決めるということがあります。
実は従軍慰安婦の問題がアメリカの下院でずっと取り上げられておりまして、それに関連して安倍総理がこのところ発言したことが波紋を呼んでおります。
つまり、従軍慰安婦については実は河野官房長官、当時の官房長官が1993年に官房長官談話という一種の統一見解を出しております、今の衆院議長でありますが。しかし、安倍さんの今日の国会の答弁、あるいはその前の官邸での言葉を聞いておりますと、官房長官談話を継承すると一方では言っておりますが、内容は相当にそこから違っております。一番のポイントはどこまで軍、日本政府が関係するわけでありますが、それが強制的にこういうことをやったのかという強制性の問題であります。
今日の答弁では、その強制には広いのと狭いのと両方あると。官憲が直接出かけて行って強制連行するという、そういうことはなかったのだから、狭い意味での強制性はないのだと。だたし、業者にそういうことをやらせたことに強制性があるという、まあ日本人が聞いていても分からない説明であります。
これが対外的に日本政府の立場を理解してもらうというのですが、どうやって理解ができるのかどうか。それは私は過去というものは本当にどの国でもいろんな古傷がありますけれども、それに歴史を直視するかどうか、そのことが大事だと思います。官房長官談話にもその言葉がありました。これを継承してほしいものです。(引用終わり)

従軍慰安婦

2006.7.28ブログ記事を再掲。朝日記事で慰安婦をなかったことのように宣伝するメディアが目立ってきたので。
「過去に目 を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」(ヴァイツゼッカー元西独大統領
ーーー
s-img024.jpg

写真は別冊歴史読本1989特別増刊
「未公開写真に見る日中戦争」より引用。

慰安婦:米下院外交委で可決した慰安婦決議の全文

以下、朝鮮日報より引用(アクセス日2007.7.4 0:25)

慰安婦:米下院外交委で可決した慰安婦決議の全文

http://www.chosunonline.com/article/20070627000022
記事入力 : 2007/06/27 09:50:5
ラントス下院外交委員長(カリフォルニア選出)ロス‐レティネン議員(フロリダ選出)の修正案を反映した下院第121号決議案
 日本政府は1930年代から第2次世界大戦までの期間、「慰安婦」と言われる若い女性たちを帝国軍への性的サービス目的のため動員することを正式に委任した。日本政府による強制軍隊売春制度である「慰安婦」は、集団強姦・強制流産・恥辱・身体切断・死亡・自殺を招いた性的暴行等の残虐性や規模面においても、前例のない20世紀最大の人身売買の1つだ。
 日本の学校で採用されている新しい教科書は、こうした慰安婦の悲劇や第2次世界大戦中の日本による他の戦争犯罪を過小化しようとしている。
 日本の公共・民間の関係者は、最近の慰安婦の苦痛に対する政府の真摯(しんし)な謝罪を含む河野洋平官房長官による1993年の「慰安婦関連談話」を希釈または撤回しようとしている。
 日本政府は1921年に「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」に署名し、2000年には武力紛争が女性に及ぼす影響についての国連安保理決議「女性、平和及び安全保障に関する決議第1325号」を支持している。
 下院は人間の安全と人権・民主的価値・法の統治および安保理決議第1325号に対する支持など、日本の努力を称える。
 米日同盟はアジアと太平洋地域で米国の安保利益の礎(いしずえ)で、地域安定と繁栄の根本だ。
 冷戦後、戦略的な環境は変化したが、米日同盟はアジア太平洋地域で政治・経済的な自由、人権、民主的制度に対する支持、両国国民と国際社会の繁栄確保をはじめ共同の核心利益と価値に根ざしている。
 下院は日本の官僚や民間人らの努力により1995年、民間レベルの「女性のためのアジア平和国民基金」が設立されたことを称える。同基金は570万ドル(約7億円)を集め、日本人たちの贖罪(しょくざい)の意識を慰安婦に伝えた後、2007年3月31日に活動を終了した。以下は米下院の共通した意見だ。
1. 日本政府は1930年代から第2次世界大戦前に至るまで、アジア諸国や太平洋の島々を植民地化したり、戦時に占領した過程において、日本帝国主義軍が強制的に若い女性たちを「慰安婦」と言われる性の奴隷にしたことを、事実として明確な態度で公式に認め、謝罪し、歴史的な責任を取らなければならない。
2. 日本の首相が公式声明を通じ謝罪するなら、先に発表した声明の信ぴょう性と水準に対し繰り返し唱えられる疑惑を解消する一助となるだろう。
3. 日本政府は日本軍が慰安婦を性の奴隷にし、「人身売買した事実は絶対にない」といういかなる主張に対しても、明確かつ公式に反論しなければならない。
4. 日本政府は国際社会が提示した慰安婦勧告に基づき、今の世代と将来の世代を対象に、残酷な犯罪について教育しなければならない。

ワシントン=李河遠(イ・ハウォン)特派員
朝鮮日報/朝鮮日報JNS

米下院外交委 慰安婦決議のニュース 07.6.27~7.2

アクセス日2007.7.3 22:50
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2007/05/0705j0702-00001.htm[朝鮮新報 2007.7.2]
米下院外交委 「慰安婦決議案」可決の意味は何か
 何日か前の6月26日、米下院外交委員会で注目されていた「慰安婦」問題に関する対日非難決議案が可決された。この決議案はたとえ下院本会議で可決されても法的拘束力を持つものではないにしても、その影響するところ極めて大であることは、日本政府が毎回ばく大な金を散じて阻止のためのロビー活動を展開してきた事実をみても解ることである。
 それにしても、この決議案は39対2の大差で可決されたという。
 2001年を皮切りに、過去4回提出されたというが、3回目のマイク・ホンダ議員が2005年に決議案を提出した時には共同提案者は15人であった。それが翌年9月、米外交委で可決されたエバンス議員提出の決議案は、表現をやわらげた故もあってか共同提案者は56人に増えていた。ところが、日本国首相の謝罪や、旧日本軍による「慰安婦」の人身売買が「なかった」とする主張を否定することを求めたこの決議案は7月中旬に下院本会議に上程されるというが、6月26日現在、賛同議員は149人で、まだ増えるらしい。
 つまり、前回までと全く様子が違うのである。予断をもってコトを推測するわけではないが、本会議に上程されても、この決議案は採択されるだろうとみられている。
 安倍首相を先頭にした日本政府の必死の妨害と採択回避の運動とそのもくろみは完全に破綻したのである。日本が保護者と頼み、「同盟国」と信頼する米国でなぜこのような「日本たたき」と見紛う現象が起こっているのであろうか。 日本政府内、また識者と言われる人たちは、安倍首相の対応のまずさ、日本の対米外交力の乏しさ、そして昨年11月の米中間選挙での民主党の進出を指摘する声もあるが、はたしてそれだけが問題であろうか。より本質的な問題点は決議案そのものの内容に明白に出ている。各紙に決議案要旨が出ているので詳細はこれを見ていただくとして、私は次の諸点を問題点とみている。
 ①安倍政権は過去の侵略戦争に対し、歴史的事実を認めようとしないし、歴史そのものを修正し、わい曲しようと図っている。
 ②従軍「慰安婦」問題の本質、つまり、人類社会での普遍的な人権侵害、人権蹂躙問題であるだけでなく、日本の恥ずべき国家犯罪にして国際法違反の戦争犯罪であることの自覚がない。
 ③以上2点の具体的発現としては、靖国神社遊就館の展示にみられる戦争の起因を米ルーズベルト大統領にあるとする論や、3月以降の安倍首相自身の「(資料による)軍や官憲の強制連行を示す記述は見当らなかった」として「狭義の強制性」否定発言や、業者に責任を転嫁した発言が世界中に流れ、米国の有力紙は拉致問題での熱心さと比較して「2枚舌」との痛烈な皮肉を浴びせられたりした。
 また安倍首相を支える政治家や右派言論人の「従軍慰安婦はなかった」大合唱や、決定的にはワシントン・ポスト紙への「広告」問題が決議案可決の背中を押したとも受け取られている。
 安倍首相は、自分の発言で米国などから逆な反応が出てきたので、「必ずしも発言が正しく冷静に伝わらない。事実と違う形で伝わっていく現状で非生産的な議論を拡散させるのはいかがなものか」(参院予算委員会、3月9日)と言って、問題の沈静化を図り、「河野談話」の通りとだんまりを決めこむつもりだった。4月の訪米の際もブッシュ大統領に謝罪し、ブッシュ大統領もそれを受け入れる形をとり、このことでソウルの朝鮮日報社説に「謝罪する相手が違う」と、問題錯誤ぶりをコキ下ろされたこともあった。そして、今度の決議案採択である。塩崎官房長官や安倍首相は、テレビで「外国の議会で行われたことで、コメントするつもりはない」などと述べている。採択阻止に必死に動き、効を奏さなくなるや、他人事のように言う。この卑劣さには呆れた。
 この問題で日本に求められているのは、歴史に真摯に向き合い、元「慰安婦」の方々に心からなる謝罪をし、補償し、その心が慰されるよう誠意をつくす手だてを示すべきである。でなければ、日本は歴史から手酷いシッペ返しを食らうことになるだけであろう。(琴秉洞、朝・日近代史研究家)

http://www.asahi.com/international/update/0629/TKY200706280408.html中国が日本批判「歴史に責任を」 慰安婦決議2007年06月29日00時44分 朝日
 米下院外交委員会が従軍慰安婦問題に関する決議案を可決したことについて、中国外務省の秦剛・副報道局長は28日の記者会見で「日本政府は歴史に責任を持った態度を取るべきだ」と述べた。
 秦副局長は、慰安婦問題が第2次大戦中に犯された重大な罪であると強調した上で「日本政府は国際社会の正義の声に耳を傾けるべきだ」と述べた。国営新華社通信も27日配信の論評で「日本の対応に対して国際的な批判が強まっており、その結果、同盟国である米国の議員からも反発を受けた」と評論した。

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2007/05/0705j0629-00002.htm
[朝鮮新報 2007.6.29]
〈論調〉 元タイ駐日大使 「慰安婦」妄言  最近、元タイ駐在日本大使の岡崎(久彦)が東京で行った講演で、日本軍「慰安婦」の強制性をまたしても否定する妄言を吐いた。彼は、当時の状況からして「日本の慰安婦なんか問題にならない」「20世紀は人権があらゆる地域で侵害された時代」などと言った。
 安倍の外交シンクタンクの一員である岡崎のこうした妄言はこんにち、日本反動執権階層の間で日帝の性奴隷犯罪わい曲策動が一つの流行病のようになっているということを示している。
 安倍一味が口をそろえて日本軍「慰安婦」犯罪の強制性を否定し、その責任から逃れようといくら術策を弄してもそれはどこにも通じない。
 日本軍「慰安婦」犯罪に対して率直に認めて謝罪、補償するのは、日本の回避できない歴史的責任であり、法律的、道徳的義務である。
 日本は、歴史わい曲策動に執着するほどさらなる国際的孤立に直面するということをしっかり認識すべきである。(民主朝鮮6月16日付)

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=88802&servcode=200§code=200日本のWP慰安婦歪曲広告は逆効果だった 中央日報2007.06.28 08:40:22
慰安婦決議案通過を主導したマイケル・ホンダ米下院議員(左)が26日、議会議事堂で同じ民主党カリフォルニア州出身であるジム・コースター議員と話し合っている。彼は昨年廃棄された慰安婦決議案を今年の1月、下院に再提出した。
米国下院外交委が26日、慰安婦決議案を圧倒的な賛成での通過は、所属議員たちが日帝の残虐行為を自分たちの支持基盤である米国国内少数集団の苦痛と関連づけたことで実現した。一部の日本の政治家が慰安婦関連歴史を歪曲しようと試みて逆効果を生んだのも後押しした。このためにこれまで「日本がもう謝った事案をまた引き出して日米同盟を害する必要があるのか」として慰安婦決議案に反対してきた議員たちまで賛成にまわり、日本を当惑させた。
ワシントン議会消息筋は「ナンシー・ペロシ下院議長が決議案に賛成の意思を表し、7月中旬ごろ決議案が本会議を通過する可能性が高くなった」とし「その直後(7月29日)選挙を行う安倍内閣に大きな打撃になるだろう」と見通した。
◆日本歴史歪曲広告がかえって逆効果に=AP通信は「4月に訪米した安倍日本首相が『慰安婦強制動員事実はない』と主張したほか、日本の議員40人が『慰安婦はいなかった』としてワシントンポストに全面広告を出すなど歴史的過ちを続けて否認する姿を見せると普段日本を支持してきた米議会内の保守派まで激憤、このような結果が現れた」と分析した。
慰安婦決議案採択の決定打となった「ワシントンポスト反論広告」は日本の与野党国会議員と報道関係者ら45人の名前で載せられたが、これを主導し広告費全額を負担したのは作曲家のすぎやまこういち氏(76)だった。右翼性向の同氏は与野党の右派国会議員たちと報道関係者たちの署名を受けるために忙しく歩き回り、この過程で動きを看破した安倍首相は「広告を出すな。副作用が生じるだけだ」と言って強く引き止めたという話だ。しかしその事実を伝え聞いた日本右翼勢力の首長格である平沼赳夫前自民党議員(郵政民営化関連で自民党を離党、現在は無所属議員、太平洋戦争遺族会会長出身)が「何を言っているのか。やりなさい」とけしかけ、結局広告掲載に至った。
◆被殺ユダヤ人、黒人奴隷と比較=討論でゲリー・アッカーマン(民主、ニューヨーク)議員は「慰安婦たちが受けた苦痛は600万のユダヤ人が虐殺されたホロコーストの痛みを連想させる」とし、決議案を積極的に賛成すると明らかにした。また黒人セリア・ジャクソン・リー(民主、テキサス)議員は「慰安婦たちが経験した苦痛を忘れてはいけないことは、奴隷制の鞭の中にうめいたアフリカ系の米国人(黒人)たちの苦痛を忘れてはいけないことと同じだ」と述べた。
このような雰囲気を感知したのか、下院外交委の表決ではこれまで決議案に反対してきた保守派ドナルド・マンズーロ(共和、イリノイ)議員さえ「この決議案処理をラントス委員長に任せる」とし、事実上賛成に回った。これによって反対票を投じた議員は日米同盟を擁護してきたトーマス・タンクレド(共和、コロラド)とロン・ポール(共和、テキサス)議員ら2人だけだった。
ワシントン=カン・チャンホ特派員


http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2007/09/0709j0630-00001.htm米の「慰安婦」決議-火に油を注ぐ事態 [朝鮮新報 2007.6.29]
米下院外交委で、日本は「慰安婦」責任を認めよとの決議がなされた。この問題は、日本自らの手で解決すべきであった。
 しかし、敗戦直後には、軍の関係証拠文書を隠滅、抹消し、数十年経って被害者が勇気を奮って証言すると、「ウソ、デタラメ」と、人身攻撃する始末だ。「国家の品格が問われる」(朝日新聞社説)というより「あがいてもムダだよ」(米紙ニューヨーク・タイムズ社説)の言葉がピッタリ。そもそも、自ら犯した罪の大きさも自覚できない輩に「品格」の意味が理解できようか。
「慰安婦」決議を圧倒的多数で可決した米下院外交委のハイド委員長(中央) [写真=聯合ニュース]
 米紙ワシントン・ポスト(6月14日付)のお粗末な意見広告に名を連ねた賛同者たちは、自民党、民主党などの国会議員40人と「救う会」「作る会」「拉致議連」幹部とその支援者たちだ。ここでも旧態依然の主張を繰り返す。「強制的に慰安婦にされたことを示す歴史文書は見つかっていない」などと奇弁を弄しながら、陸軍省副官通牒「軍慰安所従業婦募集に関する件」など軍関連資料を挙げ、「運営などは業者に任せ、軍は直接に関与(強制)していない」と、旧日本軍の蛮行を擁護、弁護する。
 そもそも賛同者の一人、藤岡信勝氏は96年、「従軍慰安婦」問題の記述が、中学校の教科書に初めて登場したとき、「この問題こそは、日本国家を精神的に解体させる決定打として国内外の反日勢力から持ち出され」「国際的な勢力と結びついた壮大な日本破滅の陰謀」などと主張した超タカ派的人物。
 過去に向き合えず、自国の犯した蛮行を反省することを「自虐的」と非難し、被害者たちにはサディスティックな攻撃を加える時代錯誤なやり方は、国内外で火に油を注ぐ事態を招いている。(粉)

http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070630AT3S2900X29062007.html日経2007.6.29
超党派で米下院に申し入れ・自民議連、慰安婦決議反対で
 自民党有志議員でつくる「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(中山成彬会長)は29日の総会で、米下院外交委員会が従軍慰安婦問題で日本政府の謝罪を求める決議案を可決したことに関し、超党派で決議に反対する声明をまとめ、米下院議長らに申し入れると決めた。(22:00)

http://www.asahi.com/international/jinmin/TKY200706270262.html米下院外交委「慰安婦」決議採択、日本政府に謝罪要求2007年06月27日朝日
 米下院外交委員会は26日、「慰安婦」問題で日本政府に公式な謝罪を求める決議案を圧倒的多数で採択した。決議案は民主党のマイク・ホンダ議員が2月に提出したもので、140人以上の議員が共同提案者に名を連ねた。来月に下院全体会議で採択され、正式な決議となる見込みだ。
 決議案は「米下院は、日本政府は旧日本軍が1930年代および第2次世界大戦の全期間において、性奴隷として慰安婦を強制徴用した事を、明確かつ少しもあいまいでない形で公式に認め、謝罪し、かつ歴史的責任を負うべきであると考える」と表明。「日本政府は第2次大戦中、慰安婦として数万人のアジア女性を強制徴用することを日本軍に許可した。その残忍性と規模は空前のものであり、集団暴行、強制堕胎、凌辱、性暴力などが行われ、これによって大量の自殺と死亡を招き、20世紀の人類史における最大の暴行の1つとなった」としている。
 さらに「日本の新しい教科書はあろうことか、この慰安婦の悲劇、および日本によるその他の戦争犯罪を薄めようと企図している。さらには、慰安婦問題について日本の首相が1993年に行った公式な謝罪と悔悟を薄めよう、あるいは撤回しようと企図する高官もいる」と指摘。
 決議案は日本の首相に対し、公的立場による謝罪声明の公開発表、および「慰安婦」否認発言への公的かつ明確な反駁を要求。日本政府に対しては、国際社会の意見に耳を傾け、人々を震撼させるこの犯罪を、現代および未来の日本国民に教育することを要求している。
 下院外交委員会のラントス委員長は「戦後ドイツは正しい選択をしたが、日本は歴史の忘却に熱を入れている。日本が戦争中に中韓の女性を性奴隷として強制徴用したことは明白で、間違いがなく、否定することのできない歴史的事実だ。日本の一部の政治屋が、一貫して歴史の歪曲を続け、被害者を責めるトリックを弄し、あろうことか広告で慰安婦の生存者と議会での証言者を中傷したことは、人々に極めて強い困惑と不安を抱かせるものだ。したがって、下院が立ち上がり、こうした女性のために正義を主張し、かつ歴史に真実を取り戻したことは、極めて適切なことだ」と鋭く指摘した。

慰安婦決議案、米国下院6月26日採決 本会議でも可決の公算

日本右派の慰安婦全面広告が米国の慰安婦決議案に火をつけたようだ。
(アクセス日2007.6.23 PM13:45)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2007061902025459.html慰安婦決議案26日採決 本会議でも可決の公算2007年6月19日 東京新聞夕刊
 【ワシントン=小栗康之】米下院外交委員会は十八日、第二次世界大戦中の従軍慰安婦問題に対し日本政府の謝罪を求める決議案の採決を二十六日に行う方針を固めた。
 決議案を提出した民主党のマイク・ホンダ下院議員の関係者が十八日明らかにした。採決されると民主、共和両党の賛成多数で可決される見通し。
 同決議案はホンダ議員が一月に提出。日本政府に従軍慰安婦問題での謝罪と歴史上の責任を明確に認めることを要請。与野党の百四十人が共同提案者に名を連ねている。
 一部メディアによると、ラントス同外交委員長(民主党)が地元ロサンゼルスの韓国人系団体の会合で二十六日に採決する意向を表明、圧倒的多数で可決される見通しを示したという。
 民主党のペロシ下院議長も決議案に賛成の姿勢を示しており、同委員会で可決後、本会議で採決、可決される可能性が高い。
 同様趣旨の決議案は過去にも提出されているが採決には至っていない。委員会レベルの可決にとどまったにしても、日本政府にとっては大きな痛手となる。
 同決議案提出以降、日本政府は採決回避に向けて議会関係者に対し働き掛けを強めていたほか、四月に訪米した安倍晋三首相が議会指導者との会談で同問題について「申し訳ない気持ちでいっぱいだ」と表明していた。
 首相発言により採決は見送られるのではとの見方も出ていたが十四日、自民、民主両党などの一部国会議員や有識者が米紙ワシントン・ポストに旧日本軍によって強制されて慰安婦になったとの歴史的証拠は発見されていないと主張する全面広告を掲載。
 米国内の反発がかえって強まり、採決の流れが強まったとの指摘も出ている。

http://www.sankei.co.jp/kokusai/usa/070619/usa070619001.htm【花岡信昭の政論探求】「慰安婦」意見広告の重み  「慰安婦」問題をめぐり、米紙ワシントン・ポストに日本側識者らによる意見広告が掲載された。
「ザ・ファクツ(事実)」と題する全面広告で、これまで韓国系団体などの反日広告は掲載されてきたが、日本側のものが米紙に載るのは初めてだ。
 意見広告では、当時の日本軍当局が出した通達や韓国紙の報道など「5つの事実」を提示し、「官憲による強制連行はなかった」ことを指摘している。
 評論家・屋山太郎氏、ジャーナリスト・櫻井よしこ氏、西村幸祐氏らの識者に加えて、自民、民主両党など40人を超える国会議員が賛同者として名を連ねた。
 これに対し、さっそく、韓国の朝鮮日報は「日本の知識人の道徳水準をさらした慰安婦広告」という評論記事を掲載した。「日本の首相、外相ら不道徳な政府関係者に、不道徳な国会議員、知識人らが加わり、犯罪の歴史を闇に葬ろうとあがいている」といった相変わらずの調子だ。
 米下院でマイク・ホンダ議員が提出した対日非難決議が採択されそうな情勢下にあって、日本側から「事実を知ってください」という冷静なトーンの意見広告が出された意味合いは大きい。
 決議案では慰安婦を「セックス・スレイブ(性奴隷)」と断じ、日本軍の組織的な「慰安婦狩り」が行われたとし、「20世紀最大の人身売買事件」とまで主張している。これでは「日本は“レイプ魔”国家である」と言っているようなもので、国家と国民に対するこれ以上の誹謗(ひぼう)中傷はない。
 それも、当時は公娼制度のもとで専門業者がおり、慰安婦は兵士から対価を得ていた、といった基本的な認識にも欠けているのだから、始末に負えない。そうした誤りをただす努力を、日本の政府・外交当局はどこまで徹底させてきたか。
 国際社会では一方的な言説に対して、きちんと反論しておかないと、容認したものと受け止められ、ゆがんだ日本のイメージが定着してしまう。「慰安婦」「南京」「靖国」など、歴史認識をめぐるあらゆる問題に共通する課題だ。
 今回の意見広告は作曲家のすぎやまこういち氏がかねてから進めてきた企画がようやく実現したものだ。当初は南京事件をめぐる意見広告を出そうとしたが、米紙にことごとく拒否され、慰安婦問題に切り替えてようやく成就した。
 この意見広告は、いわば「政治の怠惰」によってここまで野放しにしてしまった反日プロパガンダの横行を、なんとか食い止めようという思いに基づいている。本来は政府が国の意思としてやらなければならないものだ。それだけに、すぎやま氏の「こころざし」は重みがある。
(客員編集委員 花岡信昭)(2007/06/19 08:08)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070618-00000032-yonh-kr日本の慰安婦関連広告、米副大統領や議員が猛反発6月18日13時7分配信 YONHAP NEWS
【ソウル18日聯合】日本の国会議員ら63人が14日にワシントン・ポストに全面広告を出し、慰安婦の動員に日本政府や軍の強制はなかったと主張したことについて、米政府と議会の一部が「厚顔無恥な行動」として強く異議を唱える方針のようだ。
 ワシントンのある市民団体関係者は現地時間の16日、チェイニー副大統領をはじめとする米国の右翼勢力が日本側が出した広告内容に激しい怒りを感じていると、現地の雰囲気を伝えた。特にチェイニー副大統領は広告を見て「非常に腹が立つ内容」と述べ、関係者に対し経緯を把握するよう指示する一方、副大統領室関係者が韓国の市民団体側にチェイニー副大統領の不快感を伝えたという。この市民団体関係者は、広告が「米議事堂に大きな逆作用をもたらしている」との見方を示した。慰安婦決議案を支持・署名する米議員も増え続けており、今月中に150人を超える見通しだという。 
 また米海軍は、広告の文面のうち、米軍が1945年の日本占領後に「慰安所」設置を日本政府に要請したケースがあるとの部分を「事実無根」とし、反論の声明を準備中だとされる。

http://www.afpbb.com/article/politics/2239843/1694336
日本の国会議員ら、米紙に「慰安婦強制性否定」の全面広告2007年06月16日 16:17 発信地:ワシントンD.C./米国
【6月15日 AFP】いわゆる従軍慰安婦問題をめぐり、日本の国会議員らが14日付のワシントン・ポスト(Washington Post)紙に、「第2次世界大戦中に日本軍によって強制的に従軍慰安婦にされたことを示す歴史文書は存在しない」と訴える全面広告を出した。
 「事実(THE FACTS)」と題された同広告は、「米国民と真実を共有する」ことを目的に掲載されたもので、「歴史学者や研究機関の調査では、女性が意に反して、日本軍によって売春を強要されたことを示す文書は発見されていない。慰安婦は、『性奴隷』ではなく、当時の世界では一般的だった公娼(こうしょう)制度(政府による売春管理制度)のもとで行われていた」としている。さらに「慰安婦の女性の多くは、将官よりも多くの収入を得ていた」と付け加える。
 一方、同広告は「規律の乱れ」が存在したことも認め、「実際に起こったことに対する批判は、謙虚に受け入れるべき」としているが、「根拠のない誹謗中傷に対する謝罪は、社会に歴史的事実に対する誤った認識を持たせるだけでなく、日米間の友好関係にも悪影響を及ぼしかねない」と指摘する。
 同広告には、自由民主党(Liberal Democratic Party、LPD)議員29人、民主党(Democratic Party of Japan、DPJ)議員13人、無所属議員2人のほか、教授、ジャーナリスト、政治評論家が名を連ねている。
 従軍慰安婦問題をめぐっては、安倍晋三(Shinzo Abe)首相が3月に「第2次世界大戦中に旧日本軍がアジア各国で強制的に女性を連行した証拠はない」と語り、物議をかもしている。同首相はその後、従軍慰安婦問題について謝罪した1993年の「河野内閣官房長官談話」を継承する立場を強調。4月後半の訪米時には、元慰安婦の女性らに対し「心から同情する」と語った。(c)AFP

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070615i504.htm米紙に「慰安婦」反論の全面広告、賛同者に平沼元経産相ら
 【ワシントン=五十嵐文】14日付米紙ワシントン・ポストは、旧日本軍のいわゆる従軍慰安婦問題で、「日本軍によって女性が強制的に慰安婦にされたことを示す歴史的な文書は存在しない」などとする全面広告を掲載した。広告には賛同者として、平沼赳夫元経済産業相(無所属)のほか自民党の島村宜伸元農相、民主党の松原仁衆院議員ら国会議員有志、ジャーナリストの櫻井よしこ氏らが名を連ねている。
(2007年6月15日13時2分 読売新聞)

従軍慰安婦

s-img020.jpg
従軍慰安婦、元兵士たちの証言 西野留美子 明石書店より。

軍隊慰安婦

軍隊慰安婦 徳間書店 金一勉編著より
s-1-1.jpg
s-1-2.jpg

s-1-3.jpg
s-1-4.jpg

戦後補償中国人敗訴計5件確定 最高裁慰安婦・強制連行2007.4.28


s-img011.jpg

s-img014.jpg
朝日新聞2007.4.28朝刊1面他より引用。

慰安婦2次訴訟は最高裁第1小法廷が判決を言い渡し、軍が連行、監禁、強姦した事実認定自体は「適法に確定された」と認めた

「慰安所」の前で並んで待つ兵士たち

「私は慰安婦ではない」 東方出版、戦争犠牲者を心に刻む会編P26より引用。
そろそろ俺の番が来るぞと「慰安所」の前で並んで待つ兵士たち。

元下級兵士が体験見聞した従軍慰安婦


「元下級兵士が体験見聞した従軍慰安婦」白石書店 曽根一夫著より引用。
「食事をしていた間も腹の上に男がのっかて律動していたから、男のものが胃袋を突き上げるような気がして、気分が悪くなって吐き気を催しそうになった。」
おそらく慰安婦は毎日百人以上の男を相手にしたと思う。
(中略)その慰安婦は接客中に力尽きて絶命した。(略)死体の処理に当たった衛生兵が後日語ったのによると、死体を寝台からおろすと、慰安婦の汗と脂と垂れ流した尿水がミックスして発酵した臭気が、目に痛いほど発散した。敷布団は体の当たっていた部分がボロボロに腐って、人の字型に抜けていたといった。

自民・中山元文科相が暴言“「従軍慰安婦」もうかる商売

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-04-21/2007042102_04_0.html
2007年4月21日(土)「しんぶん赤旗」
自民・中山元文科相が暴言“「従軍慰安婦」もうかる商売”“ほとんど日本の女性”
 自民党の中山成彬元文部科学相は二十日の衆院教育再生特別委員会で、米下院が「従軍慰安婦」問題で日本政府への謝罪要求決議案を採択しようとしている動きを強く非難し、「『美しい国』は強くなきゃいかん。間違ったことに反論していく勇気、強さが必要だ」と述べました。
 中山氏が会長を務める自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は、米下院の決議案阻止のため今月下旬から訪米を予定しましたが、米国内で「従軍慰安婦」問題の批判が高まるなか、「火に油を注ぐ」として訪米延期を決めたばかり。しかし、この日の質問は中山氏の本音をあらためて示したものです。
 中山氏は「当時は公娼(こうしょう)制があり、売春が商行為として認められていた。慰安婦はほとんど日本の女性だった」などと述べ、日本軍による「従軍慰安婦」強制を否定。さらに「(慰安婦は)もうかる商売だったことも事実だ」と暴言を吐きました。
http://www.the-miyanichi.co.jp/domestic/index.php?typekbn=1&top_press_no=200704200110慰安婦の強制連行ない」 中山氏が発言
2007年4月20日宮崎日日新聞
 中山成彬・元文科相(自民・宮崎1区)は20日、教育再生特別委員会で質問に立ち、従軍慰安婦問題に関して「軍の強制連行による従軍慰安婦は存在しなかった」と自身の従来の主張をあらためて展開した。
 米下院で慰安婦問題に関して安倍首相に謝罪を求める決議案が提出されていることについて「とんでもないこと。誤った認識が国際問題になりつつあることを、日本国民も知らなければならない」と訴えた。
 中山元文科相は、正しい歴史認識、教育が教育再生の出発点と主張。その上で「戦時下では、いわゆる公娼(こうしょう)が商行為として成り立っていたが、軍が韓国人女性などを強制連行した事実はない。そもそも、慰安婦と呼ばれた女性のほとんどは日本人だった」と述べた。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-04-19/2007041906_02_0.html2007年4月19日(木)「しんぶん赤旗」
「従軍慰安婦」問題 日本軍の強制示す公文書3点の大要(邦訳)

 林博史関東学院大学教授は十七日、外国特派員協会での記者会見で「従軍慰安婦」問題についての新資料七点を発表しました。一九四六?四八年の東京裁判でオランダ、フランス、中国の検察団が提出した尋問調書や陳述書などです。これらは、同裁判で検察陣を構成した各国の政府機関が作成し、裁判の証拠書類として採用された公文書です。「慰安婦」が日本軍によって強制的に連行され、性行為を強要されたことを示しています。
 これらの資料のうち、(1)インドネシア駐留オランダ陸軍大尉の報告(2)日本陸軍中尉の宣誓証言(3)「慰安婦」を強制された女性(オランダ人)の尋問調書―の三点の大要を紹介します。
 証拠書類は英文と邦訳文があり、ここで紹介するのは邦訳文です。カタカナはひらがなに、旧字体は新字体に直してあります。また適宜、改行してあります。

特警隊が婦人 捕まえた 資料(1)/オランダ印軍情報部J・N・ヘイヂブロエク陸軍大尉の報告「日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告」(一九四六年七月五日付、インドネシア・ボルネオ島<カリマンタン>ポンティアナック)(PD<検察側書類番号>5330/EX<法廷証拠番号>1702)
 一九四三年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイは日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。当時全ての欧州婦人と事実上全ての印度系欧羅巴婦人は抑留されて居ました。
 彼は同時に公式の慰安所を設立するやう命令を出しました。是等の性慰安所は二種に分類することになって居ました。即ち三ヶ所は海軍職員専用、五、六ヶ所は一般人用で其の中の一ヶ所は海軍民政部の高等官用に当てられました。
 海軍職員用の性慰安所は守備隊が経営しました。司令の下に通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリが主任として置かれ日常の事務は当直兵曹長ワタナベ・ショウジが執って居ました。
 日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。
 海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所に慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。此の目的の為に特警隊員は街で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。是等の逮捕は主として各兵曹長によって行はれました。
 一般用の性慰安所は南洋興発株式会社支配人ナワタ・ヒサカズが経営しました。守備隊司令は民政部に命じて之を監理させました。是等の慰安所に対する婦人達も亦特警隊の尽力によって集められました。
 上記の報告は日本人戦犯者の訊問から得た報告と本件関係者の宣誓陳述とから輯録されたものであります。
 私は上記の事実は真実に上述の報告書に相違する点のない事を情報将校及日本語通訳として誓って断言致します。

抵抗運動家の娘に強要
 資料(2)/オハラ・セイダイ陸軍中尉の宣誓陳述書(一九四六年一月一三日付、インドネシア・モア島)(PD5591/EX1794)
 問 或る証人は貴方が婦女達を強姦しその婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたがそれは本当ですか。

 答 私は兵隊達の為に娼家を一軒設け私自身も之を利用しました。

 問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。

 答 或者は快諾し或る者は快諾しませんでした。

 問 幾人女がそこに居りましたか。

 答 六人です。

 問 その女達の中幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。

 答 五人です。

 問 どうしてそれ等の婦女たちは娼家に入る様強ひられたのですか。

 答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。

 問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。

 答 左様です。

 問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。

 答 八ヶ月間です。

 問 何人位この娼家を利用しましたか。

 答 二十五人です。

常に拒絶をしたが無力
 資料(3)/イエ・ベールマンの尋問調書(一九四六年五月一六日付、インドネシア・ジャワ島マゲラン)(PD5770/EX1725)
 私は一般被抑留者としてムテラン収容所に抑留されました。一九四四年一月二十八日、私は吾が婦人部指導者レイツスマ夫人から日本軍俘虜収容事務所へ出頭する様にと云はれました。此処で私は爪哇(ジャワ)人の一警視を見ました。彼は私を他の六人の婦人や少女等と一緒に連れて収容所の外側にあった警察署へ連れて行った。
 私達が爪哇人警視に案内されて収容所へ帰へって鞄に所持品を充めた後に其警視は私達を日本軍俘虜収容所事務所へ連れて行きました。此処で私達は三人の日本人に引渡されて三台の私有自動車でマゲランへ輸送され午後四時に到着しました。
 我々はテウグランと称せられ十四の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。一九四四年一月二十五日、私達の収容所から連行された婦人や少女等の一団と此処で会ひました。
 一九四四年二月三日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。此間は少女達も含んで居ました。其処で私達は日本人向き娼楼に向けられるものであると聞かされました。
 其日の晩に娼楼が開かれる筈でした。帰宅後ブレッカー夫人と私は凡ゆる戸や窓を閉めました。午後九時頃戸や窓を叩く音がありました。私達は戸も窓も開け、閉さしてはならぬと命ぜられました。寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉ぢ籠もりましたが他は其通りにしました。
 私は是を二月五日 日曜日まで継続しました。其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました(以前は日本軍将校のみでした)。是等兵士の幾らかが這入って其の中の一人は私を引張って私の室へ連れて行きました。私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。
 其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任を問はれると私に語りました。この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して立去りました。
 其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。然し事実上私はやられてしまいました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。私は此の兵卒は誰であったか又其憲兵将校の姓名を知りません。
 此の状態が三週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために日曜日午後は日本下士官達のために開かれ日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが無効でありました。

(引用終わりアクセス日2007.4.22 0:20)



日本の心臓部で広がった「慰安婦」問題糾弾の声 (聯合ニュース) 2007.4.17

http://www.labornetjp.org/news/2007/1176865497721staff01昨日の外国人特派員クラブでの記者会見のことを
報じた韓国メディアです。 Forwarded by Keiko Yasuhara
----------------------- Original Message -----------------------
1) 日本の心臓部で広がった「慰安婦」問題糾弾の声 (聯合ニュース)
2) 日本の教授 「慰安婦連行の本体は日本軍」 (京郷新聞)
1) ***************************
[聯合ニュース 2007-04-17 17:39]
日本の心臓部で広がった慰安婦問題糾弾の声 (東京=聯合ニュース) チェ・イラク特派員= 「日本の裁判所の資料にも、旧日本軍の慰安婦強制動員の事実が出てくるのに、安倍晋三総理と政府はこれをなぜ無視するのか本当におかしい。」
17日午後、日本の心臓部である東京の千代田区有楽町のあるビル。200人余りのマスコミ人と市民たちが殺到した中、安倍総理の軍隊慰安婦の強制動員に関する不正発言に対する批判の声が
続出した。発言の主人公は、韓国やフィリピンなどの被害国の国民ではなく、加害国の日本の著名な大学教授たちだった。
吉見義明中央大教授、「安倍総理は河野談話は尊重するといいながら、日本軍の慰安婦の強制動員は認めずにいる」と火ぶたを切った。彼は、「安倍総理は、『狭義の強制はなかった』とか、『(慰安婦の強制動員に対し)謝罪しない』と言って問題が大きくなると、河野談話は継承すると言を翻したが、日本軍の関与を公開的に否認した下村博文官房副長官を問責しなかった」とし、「これは強制性を否定する彼の立場が変わっていないいことを示すものだ」と語った。
吉見教授は、「官吏たちが直接慰安婦を強制動員しなかったからといって、政府や軍の責任がないと言えるのか」、「慰安所は日本軍によって維持され拡張された。軍隊が慰安所を監督し統制した。
軍隊が民間業者を通して慰安婦を動員したと言っても、軍隊が一次的な責任者であることは明らかだ」 と指摘した。
彼は、「慰安所は事実上組織的な'性奴隷'だ。慰安婦たちは強圧による拉致や誘拐で募集され、監禁された」とし、「安倍総理は、狭義の強制性という言葉を動員して強制動員を否認しているが、 中国の山西省での裁判資料やフィリピンの女性たちの証言、オランダ政府の資料などを見れば、日本軍や官吏による強制動員が行われたことは明らかだ」と語った。
吉見教授は続いて、「日本政府は、河野談話を認めると言いながら、なぜ女性の尊厳は認めないのか」と述べ、 「安倍総理と政府は、慰安婦の強制動員に伴い、女性の尊厳性を無視したことに対し、明確な立場を示して法的責任を負わなければならない」と要求した。
林博史関東学院大教授も、最近日本のマスコミを通して公開された、日本の東京裁判の資料の中に、 慰安婦の強制動員を認めた検察調書があったことに言及して、「オランダ政府の場合、少なくとも65名が慰安婦として強制動員されたと確認した。各国が作成した公文書や判決でも、強制連行の
事実が認定されている」と指摘した。
続いて彼は、「こういう資料を安倍総理や日本政府がなぜ無視しているのか、本当におかしい」と声を高めた。林教授は特に、「先月公開された国会図書館の靖国神社の資料で、慰安所を経営していた人物が,靖国神社に合祀されていることが明らかになった。
また、戦犯裁判所で有罪判決を受けて処刑された軍幹部もまた靖国神社に合祀された」とし、「女性たちを誘拐した人や戦犯で処刑された人物が靖国に祀られているのは深刻な問題だ。日本政府は反省すべきだ」と要求した。
この日の行事は、日本の市民団体の「日本軍『慰安婦』問題行動ネットワーク」が日本駐在の外国特派員を招請し、記者会見の形でなされた。会見場には内外信の記者たちだけではなく、日本の市民も相当数参席した。彼らは、慰安婦問題に関する安倍総理の2重的な姿勢に対する発表者たちの批判に、共感を表わしていた。
<森川静子訳>
2) ************************
[京郷新聞 2007-04-18 00:06]
日本の教授 「慰安婦連行の本体は日本軍」 日本の軍慰安婦の専門家である吉見義明中央大教授は、17日「慰安婦強制連行の本体は旧日本軍だ」とし、日本政府は慰安婦問題に対して心より謝罪して法的責任を負わなければならないと語った。
吉見教授はこの日、東京外国特派員協会で開催された記者会見で、「日本の官憲が慰安婦を強制連行したことはない」という安倍晋三総理の主張に対し、このように批判した。
彼は、「安倍総理は、『協議の強制性はなかった』と言って問題が大きくなると、,慰安婦の存在を認めて謝罪した河野談話を継承するという立場を明らかにしたが、日本軍の関与を公開的に否認した
下村博文官房副長官を問責しなかった」とし、「これは強制性を否定する彼の立場が変わっていないことを示している」と語った。
続いて、「慰安所は日本軍によって維持されて拡張され、同時に軍が監督し、統制した」とし、 「民間業者を通して慰安婦を動員したといっても、軍が本体で責任者だ」と指摘した。
彼は特に、「慰安婦は強圧的に拉致や誘拐されて連行され、居住地を移したり、サービスを拒否する自由を持てなかった」とし、「中国山西省の裁判資料やフィリピン女性らの証言、オランダ政府の資料などを見れば、日本軍によって強制動員がなされたことは明らかだ」と語った。
彼はまた、「河野談話が後退することがあてはならない」としながらも、「しかし、河野談話には慰安婦を連行した主体に関する言及がないので、これをより明確にする必要はある」と強調した。(東京| 朴ヨンチェ特派員)

「慰安婦」の存在証言/宮古島市

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200704081300_06.htmlより引用。
沖縄タイムス2007年4月8日(日) 朝刊 24面
「慰安婦」の存在証言/宮古島市 【宮古島】従軍慰安婦に関する宮古島市長や市議の答弁を削除した市議会の問題を受け、宮古での従軍慰安婦問題について多くの人に知ってもらおうと、市内に住む女性の有志(川浦弥生世話人)らは七日、同市中央公民館で「宮古島の日本軍『慰安婦』についての証言を聞く会」を開いた。研究者が慰安所調査を報告し、また住民二人が沖縄戦中に自宅近くで慰安所の様子を目撃したことなどを証言した。
 沖縄各地での慰安所、慰安婦調査を続ける早稲田大学大学院生の洪〓伸(ホン・ユンシン)さんは「沖縄から『人道に対する罪』を問うということ」をテーマに報告。宮古には戦時中に少なくとも十一カ所の慰安所があったとした上で、二〇〇六年に二回、聞き取り調査したことなどを語った。
 洪さんは、日本軍の組織的な関与があったこと、宮古では他の地域とは異なって民家と隣接した地域に慰安所があったことを指摘。「慰安所を手掛かりに、それを見た一人一人が証言者となり、守るべき人権について考えたい」と述べ、五月に実施する第三次調査への協力を呼び掛けた。
 洪さんの調査に協力した同市上野の仲里キミさん(71)は、小学校低学年だった戦時中に自宅近くに慰安所があったことを報告。慰安婦が歌い、覚えていたアリランを口ずさみ「楽しそうに歌っていたが、子どものころは、つらい状況とは知らなかった」と語った。与那覇博敏さん(73)=同市平良=も同様な証言をした。
※(注=〓はへんが「王」でつくりが「允」)

(引用終わり、アクセス日:2007.4.11 0:08)

 | HOME |  古い日記に行く »

文字サイズの変更

プロフィール

XY新聞

Author:XY新聞
過去の事実を率直に見つめ、現代の改憲の動きを止めよう。
早く本勝さん新聞が読みたい!
週刊金曜日最新号は下のリンクメールニュースから↓

FC2カウンター

カテゴリー

最近の記事

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

週刊金曜日ヤフーニュース

タグリスト

枝野 追悼碑 群馬 強制連行 在日 朝鮮 慰安婦 共謀罪 スノーデン NSA レーダ 公安 原発 基地 週刊金曜日 憲法 改憲 参院選 朝鮮籍 前文 震災 津波 動物 交通事故 戦後補償 南京大虐殺 本多勝一 毒ガス 731部隊 徴用 ダム 泰緬鉄道 侵略 東北 橋下 オウム 沖縄 米軍 憲法9条 筑紫哲也 久野収 南京 XY新聞 米軍再編 ルポ A級戦犯 日刊紙 

リンク

このブログをリンクに追加する

ブログ内検索

金曜日刊行物

47NEWS言葉ランキング

金曜日1

金曜日3

貧困なる精神

本多勝一著作集1南京他

著作集2

著作集3

著作集3

最近のコメント

最近のトラックバック

FC2掲示板

RSSリンクの表示

月別アーカイブ

カウンター

無料カウンター

FC2Ad

Template by たけやん